第二章 よりによってのあの人

第六話 若き総督、倒れる

 ファニエルの工房が襲われた次の日、嵐が去りゆくように、ぴたり、と王宮から物音は消え失せた。


 アネシュカは這いずり出るように工房の外に出て、とりあえず着替えを取りに行こうと、自分の寝床がある下女の宿舎によろよろと足を運ぶ。なんせここのところ、ずっと着の身着のままだったのだ。


 しかし、宿舎に着くまでの間でさえも、通路という通路には、王宮内の建物が燃やされたり破壊された残骸が転がっていて、アネシュカはそのたびに震えながら足を進めなければならなかった。それらを皆が、言葉も発さぬまま、黙々と片付けている。それらの人間の顔も服装も、どこかしらが破れたり、黒く煤けていたりと痛々しい有り様だ。

 だが、これはこの王宮に仕える者の使命、とばかりに、彼ら彼女らは黙々と作業するのみだった。


 亡き者もいるのではと覚悟はしていたが、アネシュカの顔見知りの下女は、みな、生きていた。しかし彼女らも泣いているか、青ざめた唇をきつく噛みながら下を向いている。


 みすぼらしいトランクに放り込んであったせいか、アネシュカの荷物は無事だった。しかし彼女にそれを喜ぶ心の余裕などない。荒らされた建物のなかで、服をトランクから引っ張り出しているうちに、アネシュカの瞳からは涙がぽろぽろこぼれ落ちていく。


 ――ひどい。まともな人間のやることじゃないわ。私はマリアドル兵が許せない。私だって、どうなるか分からなかったんだもの。


 そこまで考えたとき、咽び泣く彼女の脳裏に、ふと、自分を助けた黒髪の男の姿が浮かんだ。


「あの人がいなければ、私だって、今頃は」


 ぽつり、とアネシュカは独り言つ。

 しかし、だ。

 あの男に感謝していいのかしら、と続いて彼女は考え込む。彼もマリアドル軍の人間には違いない。それも、詳しくは分からないけれど、おそらく、なんらかの地位にある軍人だ。


 それに、男の黒い双眼は、とてつもなく冷ややかなひかりに満ちていた。まるでこう、アネシュカに無言で言い放つような。


 ――「俺は、お前を助けたくて、助けたのではない」。


 なおも泣きつつ、アネシュカは心にせり上がる無念に、ぶるり、と身体を震わせた。そして窓の外に視線を投げる。

 青く澄み切った夏の青空の下、王宮のそこかしこから、そびえ立つ塔の隙間を縫って、いまだ黒い煙が燻っているのが見える。


 その光景は泣き濡れたペリドット色の瞳に痛々しいほど、染みた。



「市街のチェルデの市民は、冷静を保っています。女王が死んだことや、王宮内の様子は漏れ伝わっているようですが、ひとまず自分たちの身に危険が及ばなかった現実に、安寧を感じている模様です」

「そうか」

「はい、市場も少しずつ再開され、経済活動をはじめとした市民生活も日常に戻りつつあるようです。まったく壁一枚隔てたこちらとあちらでは、世界が違うかのようですな。略奪行為を王宮のみに留めた、将軍……いや、総督の手腕は流石としか言いようがございません」


 執務室の机の前に座して報告を聞くマジーグは、賞賛とも皮肉ともつかぬ部下の言葉に、ぴくり、と眉を動かした。

 しかし彼は結局なにも口にすることはせず、目配せで部下に報告の続きを促す。


「マリアドル国内の我が軍も、王都トリンを先に抑えた総督を追う形で、次々にチェルデに攻め入っております。抵抗もあるにはありますが、王都が占拠され、統治者も死したことを通告すると、戦意をなくして明け渡しに応じる砦も多いとか。我らに投降する者も少なくありません。こうとなると、散発的な戦闘はあるものの、チェルデ全域の占領も時間の問題でしょうな」

「腰抜けだな。文化国たる自分たちは侵されないとばかりに、数百年の安寧の上に胡座をかいていたチェルデには似合いの終焉だ。それはそうと、大陸の諸国……特にギルダムの動きはどうだ」

「諸国としては、なにかしら動くにせよ、ギルダムの動向を見てからといった感じのようですな。そして、肝心のギルダムに動きは、なにもありません。静観といったところですな」

「当たり前だ。それだけの手はすでに打っておいたのだからな。所詮、帝国の奴らは脅しと金銭でなんとでもなる愚かな巨人に過ぎん」


 マジーグは吐き捨てるように語を放ちながらも、自分が皇帝の命を受けて、長らく尽力してきた策謀に漏れがないことに、密かに安堵の吐息を漏らした。

 ここでしくじるわけにはいかなかった。でなければなぜ、蔑まれるような身分から、汚名という汚名を背負って、三十五才という若さでチェルデ総督という地位にまで辿り着いたのか理解のしようがない。


 マジーグは、自分の半生を否定したくなかった。たとえ誰に唾を吐かれたとて、己を卑下することは、彼には死しても容認しがたいことだ。


 だから、マジーグが、日を追うごとに疼き高まっていく、己の体調不良を周囲にひた隠そうとしたのは、いわば本能であった。あるいは、覆すことのできない意地ともいうべきか。


 部下が部屋から退出した後、マジークは黒い目をかっ、とこじ開けるように見開いて、渡された報告書へと目を凝らす。そうでもしないと、意識が遠ざかって、すぐにでも視界が暗転してしまいそうだった。


「こうして、日中、椅子に座しているのも、きつくなってきたな……」


 マジーグは周囲に誰もいないのをいいことに、ぽつり、と独り言つ。

 だがその声は、囁き声にも関わらず、思った以上に大きく執務室中に響いたような気がして、彼は思わず周囲を見渡した。悪寒が胸中を走る。

 いや、胸中だけではなかった。

 じりじりと、マジーグの意識という意識を、黒い霧のような靄が覆いつつあった。


 ――まずい。


 マジークは身体を震わせながら、ひとまず喉を潤すべく、部屋の隅に置かれている水差しを手にしようと椅子から立ち上がる。いまこの瞬間、己の黒い双眼はいつものように冷静でなく、きっと、動揺に染まってるのだろう。彼はそれを自覚して、そんな他ならぬ自分の醜態が可笑しく、思わず唇に薄い笑みを漏らした。


 マジーグが覚えているのは、そこまでだ。


 次の瞬間、がくり、と彼の膝は折れ、背中に流していた三つ編みが宙に跳ねた。どさり、という派手な物音とともに、漆黒のマントに包まれた長身が赤い絨毯の上に崩れ落ちる。


 隣室に控えていた副官のタラムが、異変に気付き執務室に駆け込んだときには、すでに若き総督の意識はなかった。

 窓から差す午後のひかりのなか、マジーグは長い黒髪を乱しながら、青ざめた頬を床に押しつけていた。

 身動きすら、ひとつせず。



 目を覚ませば、すでに夜半だった。


 重い瞼を押し開いて、まず見えたのは、私室に置かれた寝台の天蓋だ。それが、蝋燭の灯りのみに照らされた部屋のなかで、微かに揺れている。

 マジーグは、意識を回復してしばらくの間、ただ、虚ろな目でその様子を見つめていた。そしてそれから、側に付き従う者の気配に気づいて、寝台の横に視線をずらす。


「お目覚めになられましたか、総督」


 嗄れた低い声は、思ったとおり、副官のタラムの声だった。

 見慣れた歳上の部下が椅子に座したまま、静かにマジーグを見つめていた。彼は、ひとまずいちばん気になっていたことを彼に問いかける。


「……このことは、誰が知っている」

「私と、呼び寄せた医師だけです。他の者には漏らしていません」

「それでいい。俺がこんなザマと知れたら、軍の士気に関わるからな」


 マジーグは自嘲するかのように笑う。それはいつもの彼を知る人からすれば驚きを隠せないような、弱々しい自らへの嘲りだった。

 それから、ふたりはただ、蝋燭のひかりが映し出す影のなか、黙りこくっていた。

 数分ののち、ぼそり、と、口を動かしたのはタラムだ。


「総督、やはり、ここのところ全く眠れていなかったのですね」

「いつから気付いていた」

「チェルデ侵攻の前後からですよ。あの頃すでに、閣下は、日中でもふとした瞬間に意識を朦朧とさせていましたし、お顔の色も日を追って悪くなるばかりでしたから」

「……よく見ていたな。流石、お前のことだけはある」

「長く付き従わせていただいてる私からすれば、造作もないことです」


 タラムの落ち着いた言に、マジーグは、なるほどな、といわんばかりに軽く頷く。同時に、脳裏にはこの男とともに過ごしてきた過去の長き苦渋が、走馬灯のように拡がる。

 マジーグは、頭に浮かび上がる数々の映像に押し流されるように、ついぞタラムにも漏らしたことのなかった懊悩を、唇から漏らした。まるで、何者かに怯えるような、囁くような声音で。


「ずっと、ずっと……眠れないでいるんだ。深く眠ろうとすれば、が必ず夢のなかに出てきて、俺を脅す。お前もいつかこうなる、と嗤いながら、俺の脳髄をかき乱しやがる……」


 呻くようにマジーグはちいさく声を絞り出す。タラムにはそれは、独り言のようでもあり、告白のようにも聞こえた。

 彼はなにもあえて口にせず、若き上官の言葉に耳を傾け続ける。


「気にしないようにはしてきた。ずっと、ずっと、俺は負けてはならぬものかと、そうだ、ここであいつらに屈したら負けだと思い、進み続けてきた……前だけ見続けてきた……」


 そこまで一気に言葉吐き出すと、一旦マジーグは息を大きく吐いた。そして、それからゆっくりと、噛み含めるように語を零す。全てを諦めたような口調で。


「……しかし、ここが俺の限界なのかもしれぬ」

「弱音を口になさらぬことです。それこそ、悪霊の思うままです」


 タラムが軽く眉を顰めて、マジーグを諫める。そんな副官に、若き総督は寝台に身を横たえたまま、黒い双眼を向けた。

 その視線は、だったらどうすればよいのだ、という困惑に、激しく揺れている。

 しばらくの沈黙の後、タラムが意を決したように語を発した。


「私に考えがございます。ですので、閣下は、今はただ、安心してお休み下さい。ここに医師が処方した薬湯を置いておきます。これを飲めば薬の鎮静作用で、短時間ではありますが深く眠れるとのことです」


 そう言いながら彼は、サイドテーブルに置かれた茶器を指し示す。そしてタラムは椅子から立ち上がると、寝台に向かって一礼し、静かにマジーグの私室を出ていった。

 背中に刺さる縋るような視線を、半ば、無視して。



 その夜、ファニエルは工房の近くにある自室で眠りについていたところを、マリアドルの兵士に慌ただしく叩き起こされた。


 ――こんな夜半に、何用だ? しかも、私のような宮廷絵師になど、この情勢下に……?


 眠たい目を擦りながら、ファニエルは急いで身支度を調えて、兵士に案内されるまま夜の王宮内の廊下を歩む。

 かつん、かつん、と闇に沈む廻廊に木霊する自分と兵士の足音を耳にしながらも、彼の頭は困惑でいっぱいだった。しかも自分を呼び出したのは、マリアドル軍の高官であるという。


 果たして、首を捻りながら人払いされた王宮内の一室に辿り着き、そこで待っていたチェルデ総督の副官に放たれた言葉は、彼にとって意外極まるものだった。


「貴殿の力を借りたい。我が総督から、悪霊を追い払う必要があるのだ」


 ファニエルは思わず、琥珀色の瞳を大きく見開いた。

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