第一部 終章

光となる

 夏の日暮れを前にした雑踏のなか、王都トリンの道を走る一台の荷馬車があった。


 城外へ通じる門へ向かうその荷馬車を操るのは、赤い髪の青年だ。

 彼は馬に鞭を振るいながら、荷台に腰掛けている亜麻色の髪の若い女に大きな声を掛ける。


「アネシュカ、お前さぁ、あいかわらず、工房の傍で暮らす気はねえの?」

「え? ないわよ。トルト、なんで?」

「だってさあ、こうやって毎日、お前の家まで送ってやるの、いい加減に面倒くせぇんだもん」

「なによ、だったらこうして送ってくれなくても、いいのよ」

「……いや、何だったらさあ、俺んちに転がり込んでも、全然構わないんだぜ?」

「あら、トルト! あんたにしては上手な冗談ね! 褒めてあげる!」


 アネシュカが荷台の上から大きな声で笑い転げる。

 途端にむっ、とした顔のトルトが後ろを向き、アネシュカを睨み付けたが、彼女の笑顔の眩しさに目を細めると、すぐ前を向く。そしてちいさく呟いた。


「ほんと、俺の気も知らないでよぉ、この鈍感女はさぁ……」

「え? なんか言ったぁ?」

「……なんも言ってねえよ!」


 にこにこしたままのアネシュカにトルトが言葉を爆ぜさせる。そして、憂さを晴らすかのように思いっきり馬に鞭を振るう。


 そうこうするうちに荷馬車はトリンの城門をくぐり抜けて、郊外の丘の上に立つちいさな一軒家へと辿り着いた。その家の前に止まった荷馬車からアネシュカはスカートを翻し、勢いよく飛び降りる。

 そしてトルトに大きく手を振ると、扉を開け、家のなかに消えていく。


 トルトはそんなアネシュカを見送りながら、荷馬車の上で、所在なげに呟いた。


「……あいつも、馬鹿だよなあ。いつ迎えに来るかも分からない男のために、こんなところにひとりで家を構えるなんてさ……」


 そして、トルトは肩をすくめながら、夏の陽が傾く空の下を、トリンへと荷馬車で引き返していく。西の空は赤く染まり始め、夕風は一軒家の緑をざわわ、と揺らしている。



 マジーグ、そしてファニエルがトリンを去って十年。

 その年月は、チェルデとマリアドル、そしてギルダム帝国を含む大陸の情勢を、大きくかき乱すものであった。


 マジーグが帰国して半年後、チェルデ制圧に苦慮するマリアドルの背後をギルダム帝国が襲った。

 開戦理由はマリアドルの間者による宮廷内工作が発覚し、ギルダム皇帝が激怒したためとの噂が囁かれているが、真偽の程は定かではない。ともあれ、マリアドルは苦しい局面に立ち、次第にチェルデの占領に割く余力をなくしていく。


 そしてその二年後、マリアドルのガロシュ二世は苦渋の決断として、なおも戦闘状態にあったロウシャル軍との講和に応じ、結果、チェルデ全域の解放は認めなかったものの、王都トリンとその周辺地域のみチェルデ人による自治を承認した。


 元から交易の要所であったトリンの復興はめざましかった。

 自治が認められるや、各国の商人、そしてそれまでチェルデを逃れていた絵師を始めとした芸術家たちがこぞってトリンに戻ってきたのであった。


 そのなかには、マリアドル進攻に合せてファニエルの工房を去った弟子たちも多く含まれており、主さえ失ったものの、絵画工房は再び活気づく。


 一方、ロウシャルによる処刑を免れたファニエルの行方を知る者は、トリンにはいない。マリアドル軍によって裁かれ、チェルデの何処かへと流刑になったことだけが知られるのみだ。

 トリンが自治を取り戻して以降、彼については、ロウシャル、そしてアネシュカらによる証言を基に名誉回復が行われたが、本人の生死はなおも不明だ。アネシュカはそれを歯がゆく思うも、師が見知らぬ地にて壮健で、今も絵を描き続けていることを信じ、心を宥めている。


 ともあれ、ファニエルの助手を務めていた弟子を中心として、工房は再興された。もちろん、アネシュカやトルトも主要な要員だったことは言うまでもない。

 そしていま、工房は、かつて広場に置かれていた創世神話の壁画の復興を目指し、活発に活動している。


 何故なら、いまだ、創世神話を正しいかたちで描けるのはトリンでしか許されていなかったから。


 そして、二十五歳となったアネシュカは、工房を支える主力の絵師として、トルトらとともに日々、絵を描いている。


 またたく間に過ぎた十年であった。

 しかしながら、壁画の復興に励みつつも、アネシュカは一時たりとも、自分を迎えに来る男のことは忘れたことはない。


 ――どうか、マジーグ閣下。無事でいて。生きていて。そして、迎えに来て。閣下の存在が、今の私の支えなのよ。


 トリンを往来する商人の口から聞こえてくる、マリアドルの情勢を耳にするたび、彼女はひたすらに、そう祈るばかりだった。



 だからその夏の夕暮れも、彼女はひとり、家のなかでマジーグを思っていた。


 簡素な家のなか、それでもふたつ揃えた椅子のひとつに座りながら、アネシュカは彼のために祈る。そして窓から差し込む陽のひかりが赤いことに気が付き、家を取り囲む庭に水をやらねばと思い、立ち上がり、扉を開ける。


 そこに広がるのは、ちいさな家のちいさな庭である。

 デュランタの青い花は盛りを今と咲き誇り、緑はより青々と夕陽に揺れている。いつもの夏の日暮れの光景だった。


 しかし、その日はただひとつ、そこにいままでにない影があった。青い花を見つめながら、ちいさな緑の庭に立つひとつの人影があった。


 井戸に向かうべく手にしていた桶が、アネシュカの足元にごろり、と転がる。

 そして懐かしい低い声が、耳の奥に響いてきた。


「俺の未来に、確かに、あの光景は存在したのだな……」


 あの黒い双眼が再び、自分を優しく見つめていた。

 彫りの深い顔には皺が目立つ。三つ編みを解いた長い黒髪にも白いものが見受けられる。それでも、約束通り十年を生き延び、自分の前に現われた男の姿に、アネシュカの胸は張り裂けんばかりだ。

 知らぬ間にペリドット色の瞳からは涙が溢れる。


 そのときのアネシュカには、なにを口にすればいいか分からなかった。用意していた言葉は幾つもあったのに、まるでそれが浮かんでこない。


 だからアネシュカは、ただなにも言わず、マジーグの逞しい胸のなかに飛び込んだ。マジーグの下げた青い石の首飾りが、しゃらん、と音を立てアネシュカの亜麻色の髪と触れあう。


 身体に、腕が回される。肌に、ずっと、ずっと焦がれていた熱が注ぎ込む。

 そして、唇をやわらかく貪られる。


「ずっと、ずっと……こうしたかったよ。アネシュカ」


 口づけを繰り返しながらのマジーグの声に、アネシュカは笑った。そして彼から顔を離すと、黒い瞳を見上げ、やっと口にするべき言葉を思いだした彼女もまた、想いの丈を告げる。


「私もです、マジーグ閣下……いいえ、エド」


 アネシュカからいきなり己の名を呼ばれたマジーグは、数秒の瞬きの後、鷹のような双眼を緩め、じわっ、と涙で潤ませた。その様子があまりにも愛おしくて、今度は、アネシュカは悪戯っぽく微笑む。そうして、今度は自分から、マジーグの身体を強く抱きしめる。


 長い時を経て、また出逢ったふたつの影は、重なり合い、夏の夕暮れのひかりのなか、境目をなくしていく。

 もう、離れない、離さない、とばかりに溶け合う。一枚の絵のように。


 こうして、ふたりは、希望という名の、ひとつのひかりとなった。


 【第一部 完】

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