天を描けど、光なお遠く ~チェルデ国絵画動乱記~

つるよしの

第一部 序章

遠き慕情

 生涯最後の戦を、明日に控えた夜のことだった。


 マジーグはひとり、篝火の焚かれた王宮の廻廊に佇み、鷹のような鋭い黒い双眼を掌へと落していた。

 胸に下げた首飾りの青い石の突起を押せば、その中には、年若い少女の眩しい笑顔が見える。彼は彫りの深い顔を僅かに緩ませ、しばし、物思いに耽る。


 そんな彼に目を留めたのは、君主たる老皇帝だ。


「マジーグ、これがお前にとって最後の戦いだな。決心を変える気はないのかね。低い身分からここまで積み立ててきた功績に、未練はないか」


 老皇帝は黒髪の将軍にゆっくりと近づくと、そう声をかけた。そして、彼の長髪を結い背に流した三つ編みにも、僅かに白いものが混じりつつあることを認め、彼が自らが与えた任についてから長い時間が経ったことに、改めて深い感慨を覚える。


 対して声をかけられたマジーグは、首飾りを元に戻し、微笑しながら主君に向けて頭を垂れた。


「はい、この戦が終わったら退役することは、もう大分前に決めていたことですから」

「そうか。お前ほどの功績を持つ配下を失うのは、惜しいことだが、無理に引き留めるわけにもいかぬな。せいぜい、最後にまた、華々しい戦果を上げてくるがよい」


 老皇帝もまた、柔らかく笑いながら配下の言葉に答える。いまさら引き止めても彼の決意は変わらないだろう、そう踏んでいたからだ。それに、もうマジーグを解放してやる頃合いだとの自覚もある。


 だから、口にしたのは別のことだ。


「……退役したら、この国を去るのか」

「はい」

「そうか。なら、生き延びろよ。生きていなければ、なんの望みも果たせぬからな」

「御意」


 マジーグは淡々と答えを口にし、再び主君に礼をする。視界には青いモザイク模様が広がる床と、履き慣れた己の黒い軍靴が映る。彼の心にはこれを履くのも最後なのだ、という僅かな感慨が広がったが、それも数瞬のことでしかなかった。


 その間に老皇帝は彼から目を背け、私室のある廻廊の奥へと歩き去って行った。マジーグは足音が聞こえなくなるのを待って、たっぷり数十秒の後、顔を上げる。

 刹那、首飾りの鎖が、しゃらん、と軽やかな音を立てた。彼は思わず、金の鎖に指を絡め、ぶら下がっている青い石にまたも、触れる。


 すると、中の空洞が再び姿を現す。そこで微笑む少女の小さな肖像画も。


 懐かしい面影がそこにあった。ペリドット色の瞳、亜麻色の長い髪を揺らす異国の少女がマジーグの目前で笑っていた。


 祖国に戻ってから、肌身離さず身に着け、幾度も見返した微笑みだった。


 戦場で命を削っていた、あのときも。

 ままならぬ生に天を仰いだ、そのときも。


 数秒後、不意に再び彼の名を呼ぶ声があり、振り返れば、今度は部下の将官が廻廊に立っていた。


 マジーグはゆっくりと、再度、首飾りを胸元に戻すと、戦の準備を進めるべく、彼もまた、大股で歩き去っていく。


 ――あれから十年か。俺は……変わりない。悪夢を見ることも、そうそう、なくなった。


 そんな感傷を、心の奥に押し留めながら。

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