第一章 私が絵師に?

第一話 夏の朝、伝説の湖のほとり

 粗末な紙を麻紐で綴じただけの帳面。

 それに、木炭を細く削った棒。

 思い出すのも難しい幼い頃から、そのふたつさえあればアネシュカは十分だった。

 それゆえ、彼女はこの世を慈しんでいた。


 彼女が生まれたのは創世神話の源の地、レバ湖のほとりにある村である。その地は王都トリンからは遥か遠く、芸術と文化に色めくチェルデ国の華やぎも富も届きはしない。


 しかし、そんな僻地の貧しい村の暮らしではあったが、アネシュカにとって日々は美しかった。

 たしかに、その亜麻色の長い髪は日々の畑仕事に汚れ、細く白い指も泥に黒ずんではいる。粗末な綿のワンピースに至っては、もとからの色がわからないほどに煤けている始末だ。

 しかし、そんな身なりをしつつも彼女の顔から笑みが失われることはなかった。



「よーい、しょっ!」


 アネシュカの朝は早い。

 東の空が曙に染まる時刻、彼女はまだ眠っている家族を起こさぬように、寝台から起き出して、桶を片手に家を出る。湖の近くにある泉へと水汲みに出かけるのが、彼女のその日最初の仕事だ。

 欠伸を噛み殺し、眠たげなペリドット色の瞳を擦りながらアネシュカはひとり泉への道を辿る。


 頭上の空を渡り鳥らしき影が横切っていく。

 そして泉に着く頃には、金色の夏の太陽のひかりが山の向こうから姿を見せて、アネシュカの全身を包み込む。


「おはよう! 私の新しい一日」


 彼女はいつものようにその光景を愛しげな眼差しで見つめた。

 そして桶を水で満たすと、それを手に、緑が目に染みる林のなかへと身を翻す。そうすれば程なく、彼女の真の目的地が見えてくる。


 それは、朝陽を反射したひかりが跳ねるちいさな蒼い湖、他ならない。


「……うん、やっぱり、今日も、空も水も、綺麗」


 アネシュカは満足げにそう囁くと湖畔に腰を下ろし、懐に潜ませておいた帳面と木炭を取り出す。そして帳面の頁を捲り、大きく深呼吸をすると、目の前の光景を一心不乱に木炭の棒で描き始める。

 すると、みるみるうちに、アネシュカの目前に広がる景色は紙に写し出されて、彼女の心には世界と自分が絵のなかで一体になったような悦びが駆け巡る。


 それを感じとるとアネシュカの手はさらにのびのびと帳面を走り出すのだ。

 そうして、いつしか彼女は夢中になって絵に没頭する。そうなるとアネシュカの頭を占めるのは、ただひたすらにこの世の美を描き留めることのみとなり、この後の難儀な仕事のことも、変わり者と自分を揶揄する村人たちのこともさっぱりと忘れ去ってしまう。

 だから、アネシュカは幸福だった。


 ――どんなに暮らしが貧しかろうと、私の人生には絵がある限り、嬉しいことしかないんじゃないかな。


 そんな錯覚に陥ってしまいそうになるほど、その瞬間、彼女は幸せだったのだ。



 しかしながら、その日は少し様相がいつもと異なった。

 アネシュカは夢中で手を動かしていたものだから、まったく気が付かなかったのだ。

 ひとりの男が、彼女の姿に目を留めて、湖畔に佇んでいることに。


「美しい絵だね」


 不意に低い男の声が背後から聞こえて、アネシュカは飛び上がらんばかりに驚いた。

 思わず素っ頓狂な叫び声が口から漏れるところだったが、なんとかそれは堪えて、慌てて声の方向に身体ごと振り返る。


 果たして、声の主は見知らぬ若い男だった。

 それもアネシュカの暮らす村では見ないような、身なりの良い姿をしている。

 ゆったりとした白いシャツはおそらく絹のものだろうし、ズボンと揃いの濃い緑のベストには、壮麗な金糸の刺繍が施されている。

 銀色の短い髪は朝の風に揺れ、琥珀色の双眼は、柔らかくアネシュカを見つめている。歳は齢十五のアネシュカよりとお以上は上だろうか。


 だが、それ以上にアネシュカの瞳を奪ったのは、男が手にしていた帳面と木炭の細い棒だった。

 もっとも、それらはアネシュカのそれより高価なものと推測できる品だったが。


 そう、それはまるで、いつか一度だけ訪れた王都の画材屋にて見た、工房を持つ人気絵師の使う画材のような。


 彼の突然の出現に、呆然として言葉が出ないアネシュカの様子に、軽く顔を緩ませて、男が語を継ぐ。


「朝早く散歩に出た甲斐があったな。創世神話の地、レバ湖を見るだけでなくて、こんなところで絵師のお嬢さんを拝めるとはね」

「……えっ、私、絵師、なんて、そんなのじゃ……」


 アネシュカは男が放った言葉に、慌てて彼の手から目を上げて抗弁した。

 すると男は彼女のそばに歩み寄り、アネシュカの帳面を覗きこみ、さらに問いかけてくる。


「そうなのかい? 素描だというのに、こんな上手く湖を跳ねるひかりが描けているじゃないか。まるで陽射しを切り取ったかのような美しさだ。君、他の絵も見ていいかい?」

「あ、はい」


 アネシュカがそう言葉少なめに答えると、男は夢中になってアネシュカの粗末な帳面を捲り、そこに描かれた数多の絵へと熱心に琥珀色の瞳を注ぐ。

 男の銀髪がふわり、と至近距離でまたも風に揺れる様がアネシュカの目を奪った。そして、再度、男の持っている華麗な帳面に目がいく。


 ――この人は絵師なのかしら? それも、身なりからいって工房を持つような位の高い……、絵師? それにしては、若い、けれど。


 アネシュカがそんなことを考えていると、男が大きく息を吐いた。感嘆の溜息だった。


「すごいな」


 そして、アネシュカのペリドット色の瞳を真っ直ぐに覗きこむと、彼はこう尋ねる。


「なあ、この頁の湖の絵に、私が少し描き加えてもいいかい?」

「えっ……構いませんけど……」


 空を見ればすでに朝陽は高く昇り、いつもならば家に帰っている時刻だ。アネシュカはそれが気にはなったが、彼女のなかでは結局、若い好奇心が不安に勝った。


 見てみたかったのだ、この位の高い絵師らしき男が、自分の絵に何を描き足すのかを。


 アネシュカは、ごくり、と唾を飲み込んだ。生まれてこの方感じたことのない緊張に身を浸しながら、男の一挙一動を見守る。

 男は彼女の視線を気にする様子もなく、自分の木炭をアネシュカの帳面に慣れた手つきで滑らせた。ほどなくして、男が手を止め、アネシュカに帳面を差し出した。


「ほら、見てごらん」

「わぁ……!」


 その絵を目にした途端、アネシュカの瞳は驚きのひかりに満ちた。

 描かれていたのは、自分の描いた湖畔の絵の中に、すっく、とたおやかな表情で屹立する女性の姿だった。

 アネシュカは瞬時に絵の意味を察し、男に微笑みながら問いかける。


「これは、創世神話のいちばん初めの場面ですね。人の世がはじまる遥か昔、ここレバ湖から女神バルシが産まれ出たときの」

「そうだ。我が大陸の神話にはこうあるね。〝女神バルシは、泡と水飛沫をその身から滴らせ、レバ湖の水上にひかりの如く産まれ出た〟と。その場面を描いてみた」


 男は嬉しそうにアネシュカに語りかける。彼は彼女の顔が喜びに破顔していることに満足げだ。


「まさにその場面のとおりですね! あなたが描いた女神バルシの姿、とても素敵です。この柔らかな笑みといい、絹に包まれた豊満な身体といい、まるで……」

「まるで?」

「本物の女神が、私の帳面に降り立った、みたい」

「それは良かった」


 男もまたアネシュカの反応に破顔する。

 それから彼はゆっくりと、表情を引き締め、彼女の名を質した。


「君、名前は?」

「アネシュカ。アネシュカ・パブカです」

「そうか。アネシュカ、じゃあ、今日の夜、気が向いたら「女神の故郷ふるさと亭」へおいで。この帳面を持ってくれば、通してもらえるよう手配しておくから」


 銀髪の男はそう笑うと、地表に置いていた自分の帳面と木炭を拾い上げ、湖畔に背を向けた。そして、林のなかへと姿を消していく。



 まるで、すべては夢のなかのような出来事だった。


 それから数分アネシュカは、ふわふわと身体が地表を離れて浮いているような感覚を味わっていた。男の名を聞き忘れたことさえ、そのときは意識になかったくらいだ。


 しかし、手元に残された帳面に躍る、たおやかな女神の姿が、彼女に、これは夢ではない、と教えてくるのだ。


 いつもの朝、いつもの湖のほとりから、まったく新しいアネシュカの人生が始まろうとしていた。

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