第三話 輝く王都に迫る影
確かに幼い頃、そう、まだ絵描きの両親が生きていた時分、アネシュカはここに来たことはあった。
そのとき、往来する人間の多さに驚いたことや、そこから満ちる街の熱気に心躍らせた思い出は、朧げながら記憶から拾い出すことはできる。
だが、それから時を経て訪れた、チェルデ国の王都トリンの様相はさらに華やぎを感じるものだった。
堅牢な城壁を馬車に乗ったまま潜れば、途端に所狭しとそびえる石造りの建物が目に入り、その間を縫う石畳の道は、馬車が時々立ち往生を余儀なくされるほどの人に満ちていた。そしてそこかしこに、異国の商人らしき装束の人間も見受けられる。兄弟国である隣国のマリアドル人かと思われる黒髪の頭の隣には、大国ギルダム帝国の者であろう派手な帽子姿の一団がおり、チェルデ人と活発に商談らしき会話を交わしている。
なかでも市場らしき路地を覗けば、人混みはさらに顕著だ。
馬車のなかからはよく見えなかったが、おそらくそこには田舎育ちの自分が見たこともない品々が並んでいるのだろう、とアネシュカは高揚する心のなかで想像した。
しかし、アネシュカの興奮が最高潮に達したのは、馬車が王宮前の広場に差し掛かった時である。
「わぁ! あの絵……! 先生が描いたんですよね?」
アネシュカは馬車のちいさな窓から身を乗り出して、広場の壁に掲げられた大きな絵を見た。
その壁画こそは、横に座るファニエルが手がけ、彼の名を一挙に国中に知らしめたもの他ならない。アネシュカは夢中になって馬車から絵を見つめる。
そこには今では懐かしくさえある、故郷レバ湖の風景があった。その中心には創世神話を再現した絵であることを示すように、女神バルシの姿も描かれている。アネシュカは、まるで生きているかのように艶やかな女神の迫力に押され、いまやこうちいさく呟くのが精一杯だった。
「すごい……神々しくさえあるわ」
「そうでもないよ」
アネシュカの放心しながらの言葉に、ファニエルが言葉少なに答える。その様子から、彼からすれば、このような大作でさえ、過去の栄光の一部に過ぎないのだろう、とアネシュカは感じとり、改めて自らの師の実力に恐れ慄いてしまう。そしてそこはかとない不安に襲われる。
――こんなすごい絵を描く人の下で、私、やっていけるのかな?
「アネシュカ、ほら、ここからはもう王宮だよ」
アネシュカの顔が心細げになったのを察したファニエルが、横からさりげなく声を掛ける。見れば馬車は絵の前を通り過ぎ、広場の最奥に辿り着いていた。そこには、金の装飾が陽を反射して輝く、豪奢な飾りに満ちた門が見える。
馬車はいったん停車したが、衛兵がファニエルの顔を認めると、すぐにまた動き出す。そうして馬車は門を通過し、難なくファニエルとアネシュカを王宮のなかに連れて行く。
そこには、青空にそびえ立つ塔を構え、壮麗な色彩を施された大小の建物が広大な敷地内に点在していた。それとてひとつの街のようだ。アネシュカは嘆息した。
「わぁ! 綺麗な建物がたくさん!」
「ああ。でもここはまだ王宮の入り口に過ぎない。奥にある陛下がお住まいになる宮殿はこんなもんじゃないよ。あいにく、私の工房はもっと手前にあるし、質素だけど」
ファニエルが苦笑しながら目を輝かすアネシュカに、そう告げる。その言葉を裏付けるように、それからすぐあと、馬車は煉瓦造りの二階建ての建物の前で止まった。するとファニエルがさっそく立ち上がる。
「さぁ、ここがこれから君が働く工房だ。さっそく弟子たちに君を紹介しないとな」
「はっ、はい!」
我に返ったアネシュカも、彼に倣って慌てて立ち上がり、ファニエルに続いて馬車を降りる。新しい修行への期待に心を膨らませて。
しかしながら、彼女を待ち構えていたのは、甘い歓待の言葉ではなかったのだ。
「先生、本気ですか? 突然姿を消して、やっと帰ってきたと思ったら、そんな素描しか経験のない田舎娘を工房に加えるなんて」
数分後、工房のなかで、ファニエルの前に集められた二十人ほどの若い男たちは憮然とした顔をしていた。
そのなかのひとりが声高に不満を漏らす。それはそうだ、工房の主が急に不在になったと思えば、いきなり帰ってくるやいなや、どこの馬の骨とも知れぬ娘を工房に入れるというのだ。彼らからすれば、困惑しかない。
「突然いなくなったのは確かに悪かった。それについては謝る。おかげで作業が滞ってしまっていたであろうことも、謝罪する。すまなかった」
アネシュカを連れて男たちの前に立ったファニエルはそう言いながら、不満げな弟子たちに深々と頭を下げる。師にそうとされては弟子たちは、それ以上文句のこれ以上の繰り出しようもなく、彼らは困ったように顔を見合わせた。
「それについては、もういいです、先生! 顔を上げてください! 先生がふらり、お姿を消すのはいつものことですから! だけど、僕はやっぱり納得いかないです! その娘に関しては」
やがて、耐えかねたように一番前に立っていた赤毛の少年が声を放った。その言葉に、ファニエルはゆっくりと姿勢を正すと、少年に向き合う。
「トルト。お前がここに来たのも十五のときだろう、だったらアネシュカがここで修行を始めるのは、なんらおかしいことじゃない」
「いっしょにしないでください! 僕は正式な試験を経て、この工房に入ったんです! それを無試験でなんて! しかも女ですよ?」
トルトと呼ばれた少年が声を荒げる。だが、ファニエルは落ち着いた物腰で彼に言葉を返す。アネシュカといえば、どきどきしながら、ふたりの穏やかとは言いがたいやりとりを見守るばかりだ。
「アネシュカに関しては、私は試験不要と判断したんだ。彼女にはすでにそれだけの技量はある。それに、入門したとて素描や模写の課題は他の者と同じようにやらせる。それなりの勉強を持ってから制作に加わってもらうんだ。おかしいことではないだろう?」
「ううっ……でも、僕は女が絵を描くってのは、なんだか、認めたくないです!」
冷静沈着なファニエルの言にトルトは気圧されたか、それでも納得いかないとばかりに、なおも反論する。
すると、ファニエルの琥珀色の目が、ぎらり、と光った。
「たしかにな、女に絵が描けるかは、私にも分からない。だけどいまこの国を統べているのは、いったいどなただ? 答えろ、トルト」
「……えっ、えっと、エリカ六世陛下ですが……」
「そのとおりだ。で、陛下は男か?」
「いっ、いえ、偉大なる女王であります!」
「そうだな。そして陛下は見事にこの国を治めておいでだ……そういうことだよ、トルト」
「うっ」
トルトが呻いた。師に眼光鋭く、国の統治者を例に掲げて論破されては、彼にはもうどうしようもない。それは他の弟子たちも同じようで、みな、不平そうな顔をしながらも、それ以上ファニエルに盾つく者はいなかった。
静かになった弟子たちを一瞥したファニエルの声が工房に響く。
「なら、皆、私がいなかった間止まっていた作業を再開してほしい。ああ、それから、アネシュカの指導係はトルト、お前に任せるから、きちんとやってくれ」
「げっ、僕ですか?」
トルトが再び、ファニエルの顔を見て呻いた。だが、師の顔が真剣な面持ちなのを見てとって、諦めたかのように床に視線を放る。
ファニエルはそれを見届けると、短い銀髪を揺らして、工房を足早に出ていく。
慌てたのは置いて行かれたアネシュカだ。
「えっ、先生!?」
彼女は動揺して、思わずファニエルの後を追おうと足を浮かす。するとその腕を強く掴んだ手がある。
アネシュカが振り向けば、不機嫌極まりない、と言わんばかりの顔をした赤毛の少年がそこにいた。
「お前はこっちに来いよ、いろいろ教えてやるから!」
「あっ、はい! でも、先生はどこへ?」
するとトルトが、面倒くさそうにアネシュカに言った。
「おそらく宮殿にでも行くんじゃん? 壁画の作業の遅れを弁明しに。でも、それはお前にはどうでもいいことだろ? さあ、早く来いって」
「え、ええ……」
ペリドット色の目をぱちくりとさせるアネシュカを、トルトはぐいぐいと工房の奥に引っ張っていく。
アネシュカは心のなかで呟く。
――歓迎されなかったな、私。それどころか、厄介もの扱い。だけど、負けないわよ。私はここで、いっぱい絵の勉強、してやるんだから!
彼女は、きりっ、と顔を引き締めた。
工房の皆から迷惑そうな視線をぶつけられつつも、アネシュカの胸でたぎる絵への情熱は、高まるばかりだった。
「よお、画家先生。しっかりと陛下に絞られてきたかあ?」
女王への謝罪を終えて謁見の間を出、ひとり宮殿の廊下を歩いていたファニエルに声をかける者がいた。彼は足を止めて、声の方へ顔を向ける。
そこには、思った通りの人物がいた。
「ロウシャル将軍」
「全くよぉ、ファニエル。お前さんがいなくなったって、一時は大騒ぎだったんだぜ。今回の不在はやたら、長かったからなあ。特に陛下ときたら、画神アルバの再来とされるあの才能の代わりはいない、何としても見つけるのだ、と仰せになって、おかげで騎馬隊がお前の捜索に動くところだったんだぜ。国境がきな臭くて、くっそ忙しい時だというのに。やめてくれよな」
いかにも一国の将軍といった風の、体格の良い大男がファニエルをにやにやと見つめながら近づいてくる。だが、その灰色の目は皮肉めきながらも、安堵の色に満ちていて、彼が心の底からファニエルの行方を案じていたことを教えてくれる。
だから、ファニエルは素直に知己に頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました。申し訳なかったと思っています」
「まあ、俺は良いんだけどさ。お前さんが無事なら。どうだ? 旅に出てスランプとやらからは脱したか? 聞けばレバ湖に行っていたそうじゃないか。まったくもって、お前さんが湖に
「……国境がきな臭くなっているのですか?」
ファニエルはロウシャルの質問に答えず、あえて話を別の話題に振った。
ロウシャルの言葉が現実を突きつけてくるようで、彼には耐えがたかったからだ。するとロウシャルが眉を顰めながら言葉を放つ。
「ああ、どうやら、マリアドルの動きがおかしい。兄弟国のよしみで今回は見のがしてやったが、国境付近で軍事演習を連日行いやがった。マリアドルの野蛮人どもめ。しかも放った斥候の報によると、演習の指揮官はエド・マジーグらしいんだ」
「マジーグ?」
ファニエルは、そういえば泊まった宿屋にも巡回中の軍人がいたことをぼんやり思い出しながら、聞き覚えのないマリアドル人の名をロウシャルに尋ねる。
「ああ、詳しい素性は不明だが、マリアドルでここのところ急に頭角を現した歳若い将軍だ。聞くところでは、その地位に就くために、だいぶ無茶なやり方で政敵を葬ってきたとか」
「……それはそれは、物騒な人物ですね」
ファニエルが呟いた。
しかし、そのときはまだ、彼はそのマジーグとやらが、己の運命を左右するような脅威であるとは、夢にも思っていなかったのだ。
ファニエルがこのロウシャルとの会話を、苦々しく思い出すまでには、まだ数日の間があった。
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