第31話

 どうして? どうして、とはどういう意味だろう。私は、やっと前に進むことが出来そうだって話を、誰よりもアルエに聞いてほしい、それだけなのに。なのにどうして。


 どうしてアルエは、まるでそんな、信じていたものに裏切られたような目をしているの。


「ア、アルエ? 聞いて、あのね、私ね」


「やめて、やめてよサヤカ、嘘だよね」


 いったい、どうしてしまったというのだろう。近づく私を恐れるように、アルエは半歩後ずさる。どうして?


「ちょっと、なんなの」


「サヤカさん、アルエさん? どうしちゃったんですか?」


 わからない。聞きたいのは私のほうだ。


「ね、ねえアルエ、ほんとにどうしたの? 私、もしかしたらゲームのイラスト描かせてもらえるかもしれないって、それだけで、」


「なんで、どうしてっ!? どうしてそんなにイラストのお仕事しようとするのっ!?」


 どうして、って。


「わ、私はただ、イラストレーターとして、ちゃんとお仕事にしたいから」


「お仕事ならもうしてるじゃんっ! 昼間は会社に行って、ちゃんと働いてるのに、どうしてっ!?」


 そりゃ、確かに日中は契約社員として出勤して、一日机に張り付いて事務仕事に明け暮れている。けれどそれは、単に生活していくために必要だから続けているだけの身分だ。職の貴賤を付けるつもりはないが、少なくとも私が満足できる立場ではない。


 そう、満足していなかったのだ。ただ会社の中にいる誰かとして、大きな変化もない日々を続けていく、そんな毎日に。


 気付かせてくれたのは、アルエなのに。だから、仕事としてイラストレーターをしたいって、何度も言ったのに。


「私は、私の名前を残したいの。イラストレーターとして、こんな作品を描いたんだって、残したい! それだけだよ!」


「じゃあわたしはどうなるのっ!?」


 ……え?


「どうなる、って……」


「だってそうじゃんっ! きっとサヤカは、人気のイラストレーターになれるよ。でもそうしたら、どんどん忙しくなっちゃう。きっともうわたしのことなんか描いてくれなくなっちゃう、サヤカはわたしのママなのにっ!」


 だからなの? だからずっと、アルエは私がプロとしてデビューしようとすることに、反対するような素振りを見せてきたの?


「描くよ、アルエのことも絶対描く。約束するから、だから」


「……じゃあ、わたしの時間は?」


「え……」


「会社に行って、お仕事のイラスト描いて、わたしのイラストも描いて、じゃあわたしの時間はどうなるの。配信する時間は? シオネたちとコラボする時間は? 新しく実況するゲームを探す時間は? Vtuberとしてみんなの前に出るための、わたしの時間はどこにあるの?」


 現実世界に物理身体を持たないアルエは、私と同じひとつの身体を共有している。私が私の時間を増やせば、同じだけアルエの時間が減っていく。そんなこと、最初からわかっていたことだった。


「わたしは、まだまだ前に進みたいっ! もっともっとすごいVtuberになりたい、シオネやリリシアに置いて行かれたくないっ! ゲーム実況ばっかりじゃなくて、歌ももっと歌ってみたい、ASMRとかも出してみたい、いろんなことに挑戦してみたいっ! そのための時間が必要なのっ!」


 前に進みたいと思っているのは、私だけじゃない。アルエだって、街頭広告を飾るようなVtuberに憧れを抱いている。それも知っていた。


 でも。でもだからって。


「ねえサヤカ、いまのままじゃダメなのかな。わたし、これから絶対もっと有名になるからっ。そしたらサヤカだって、有名になれるよっ」


 アルエの、ママとして?


「なに、それ……私はずっと、アルエの付属品でいないといけないの? 私の存在価値は、アルエのママであることだけなの?」


 そんなの、あんまりだ。


「やめてよアルエ、冗談でしょ、私そんなの絶対いやだよ! 私は、私を見てほしいの! あなたのママとしてじゃなくて、私自身を見てもらいたい! みんなに知ってほしい、認知してほしい! なのに、どうしてあなたがそんなこと……」


「そのためにわたしを生んだのは、サヤカだよっ!」


 浴びせられた怒声に、肩が跳ね上がる。


「どう、いう意味……」


「忘れたふりしないでっ! 私を見てほしい、有名になりたい、でも現実の世界じゃ無理だからって、デジタルの世界でならってわたしを生んだのは、サヤカじゃんかっ!」


 それは、私が心の奥底に抱え込んでいた欲望だ。


「だからわたしには、それしかないのに。もっともっとすごいVtuberになって、もっともっと有名になって、もっともっとみんなに知ってもらいたいって、わたしにはそれしかないのにっ! なのにどうして、サヤカがわたしを置いて行こうとするのっ!? そんなのひどいよ……っ!」


 ああ。


 どうして、ずっと勘違いしていたんだろう。いや違う、目を逸らし続けてきたんだ。アルエは、私の中に同居している別人だ、なんて言い聞かせて、見ないふりをしていたんだ。少し考えれば、すぐにわかることだったのに。


「そっか、そうだったんだ」


 暗い夜空を背負ったリビングの掃き出し窓が、天上の蛍光灯の明かりを照らし返して、鏡のように部屋の中を映し出している。


 窓には、リビングに立つ、私が映っていた。もっと有名になりたい。もっとわたしを見てほしい。少女のような高いキーで、大きく腕を振り回しながら、Vtuberの『鳥羽アルエ』として声高に訴える、誰でもない『安方沙也加』が。


 始めからすべてわかっていたことだ。私とアルエは、二重人格だって。アルエは私から生まれた副人格だ。


 簡単な話だ。アルエは、私。私の夢だったのだ。


 始めはアイドルとして、ステージに立って喝采を浴びる声優さんたちに憧れて。些細なことで挫けて、卑屈になって、背を向け続けていた夢。それでも諦めきれなくて、デジタルの世界で新しい肉体を得るVtuberの存在を知って、きっと自分には演じきれない理想の自分推しを妄想して。


 アルエは、未練がましく捨てられなかった、私の夢だ。私は、私を飲み込んでしまいそうな底なしの承認欲求を、アルエに押し付けていたんだ。理想のVtuberを推すファンのふりをしながら、いよいよそれだけでは我慢がきかなくなると、今度はアルエのママとして隣に置いてもらって。


 なのに今になって、違う形で欲求が満たされそうになり始めた途端に、ずっと私の夢を請け負ってくれていたアルエから、すべてを奪おうとしていただなんて。


「私、こんなに自分勝手だったなんて」


 あんまりな身勝手さに、笑ってしまう。


 結局私は、ずっとアルエを利用し続けていたってことだ。考えてみれば、真央が手引きしてくれた案件だって、トントン拍子に進んでいるのは、きっとアルエのネームバリューがあるからだろう。私は、アルエを至高の推しだなんて言いながら、自分のための踏み台にしようとしていたわけだ。


「……ごめん、ごめんなさい、アルエ」


 両の腕に、そっと温かさが触れる。シオネとリリシアが、眉をひそめ、あるいは不安げに私の顔を覗き込んでいる。


「ちょっと、落ち着いてよ。ひとりで……じゃなくて、二人でヒートアップしないで」


「そ、そうですよ、アルエさんもサヤカさんも、落ち着いて話し合いましょう」


 お願い、やめて。私に、二人に手を添えて支えてもらう資格なんてない。アルエの時間を奪うということは、二人の、【ふりーくしょっと!】としての時間すら奪おうとしていたんだ。三人が大事に育ててきたユニットをも、踏みにじろうとしたんだ。


 二人が支えないといけないのは。


 窓に、アルエが映っている。泣きじゃくり、シオネとリリシアに支えられている鳥羽アルエが。


 ああ、そうか。簡単な話じゃないか。


 私の無自覚のせいで、アルエたちにひどいことをしてしまうところだった。けれど、アルエが私の一番の推しで、シオネもリリシアも、大好きなVtuberであることに疑いはない。


 だったら、最初からこうしていればよかったんだ。


「アルエ、シオネ、リリシア。ごめんなさい、大好きでした」


 そうして私は、意識を手放した。



 意識が水面に浮かび上がるような感覚と共に、ゆっくり目を開ける。目を開ける? なにか変だ。”わたし”が身体で目を覚ますことなんて、いままで一度もなかったのに。


 いつ眠ったのだろう。普段と違うけれど見覚えのある天井。ここは、シオネの部屋だ。だんだんと記憶が戻ってくる。そうだ、”わたし”たち、大喧嘩をして……それで?


「よかった、気が付いた?」


「大丈夫ですか? びっくりしたんですよ、急に気を失ってしまって」


 シオネとリリシアの顔が覗きこんでくる。どうやらリビングのソファに横たわっていたらしい。窓の外はまだ暗いままで、それほど時間は経っていないように思えた。


 けれど、なにかがおかしい。なにか、とても大事なものが足りていない。ずっとずっとそばにあったはずの、大事なものが。


「シオネ、リリシア……」


 起き上がって部屋を見回す。シオネと、リリシアと、”わたし”。部屋には、他は誰もいない。背筋を冷たい震えが駆け上る。


「ねえ、サヤカは、どこ?」


 わたしアルエとずっと一緒だったはずのサヤカの姿が、どこにも見当たらなかった。

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