第6話

 はっきり言って私は、推しと同じ屋根の下で生活する、という言葉の意味を、まったくと言っていいほど、微塵も、欠片も、1mmも、なにひとつとして理解していなかった。


「ダメだよサヤカ、ジュース一杯だけだなんて! 朝ごはんはちゃんと食べないとっ!」


 どうにかこうにか身支度を整え(休日にもかかわらず、なんとメイクまでしてしまった。すっぴんのまま推しの前にいるわけにはいかないでしょう!?)、とりあえず朝食を済ませてしまおうと、冷蔵庫から取り出した野菜ジュースをグラスに注いだ矢先。


 かけられた声に振り返ると、両手を腰に当てたアルエが、ぷりぷりとおかんむりの様子で睨みつけている。


「え、でも、いままでずっとこれだったし……」


 朝は食べない派なのだ。寝起きはどうにも食欲がわかないし。だがこのいまを時めく人気Vtuberアルエに、そんな寝言は通用しないらしい。吊り上がった眼も可愛い、とか寝ぼけてしまう私の脳を、鋭い叱責がたたき起こす。


「前から言いたかったんだけど、そんなんじゃ一日元気出せないよっ! たしかまだ食パンあったよね? わたしが焼いたげるから、せめてトーストくらい食べよっ! あ、スクランブルエッグも作っちゃおう!」


「待って待って待って、わかった、食べるから! 自分で作るから、アルエは座っててくださいどうか!」


「どうして? あーっ、もしかしてサヤカ、わたしが料理できないと思ってる? スクランブルエッグぐらい簡単にできるもんっ!」


 違うんですそうじゃないんです。朝から推しに手料理を振舞わせるなんて、何回生まれ変わっても贖えない罪を背負ってしまう。それだけは何としても避けなければ。


 すでに生活習慣や冷蔵庫の中身はおろか、推しに向ける熱情や性癖まで把握されている現実からは目を背けつつ、アルエを押し止めて小さなキッチンに立つ。確かに食パンも卵も残ってるし、牛乳とバターもまだあったはずだ。アルエの言う通りスクランブルエッグは作れるが……こちらをじっと見つめてくるアルエの視線がやたら鋭い。私が調理を投げ出さないか見張っているのだろうか。


 推しに見張られながらそのまま作るのも芸がないし、余った食材を使ってオムレツにでもしてしまおうか。サラダはないがそこは野菜ジュースで納得してもらうとして……。


 慣れない朝食のメニューに頭を悩ませていると、ふと疑問が脳裏をよぎる。


「あのさ、アルエの分は用意した方がいい、のかな」


 彼女は私の中にいる存在だ。食事はどういう扱いになるのだろう。


「んーんっ! わたしは、サヤカが食べてるのを一緒に食べられるから平気だよっ」


「う……じゃあますます食事に手を抜けないじゃん……」


「えへへ、美味しいもの期待してるねっ」


 睨みつけられていたジト目から一転、ほころぶようなはにかみ笑顔に、危うく卵を床に落としそうになる。


 確かに! 子供みたいに感情に素直でころころと忙しなく変わる表情はアルエの大きな魅力のひとつでゲーム実況でもアニメや映画の同時視聴でもことあるごとに笑ったり泣いたり驚いたりときどきは怒ったりルーレットみたいに次になにが飛び出してくるかわからない百面相がアルエの配信の醍醐味であることはファンにとって疑いようのない共通認識であるのだけど!


 それを、対面で発揮されると、オタクは、死ぬんです。


 推しの供給過多に呼吸困難に陥り、思わずシンクに突っ伏してしまう。いやいやいやダメだ、こんなところをアルエに見られでもしたら。


「えっ、えっ、どうしたのっ? 大丈夫っ? サヤカ、具合悪いのっ!?」


 ほらもう全力で心配してくれちゃうアルエが駆けつけてくる!  やめてください近づかないで今の私はただの限界Vオタだからそんな光を浴びせられるとああああああああ



「身が保たない!!!」


 私はカメラに向かって叫ぶ。朝からこの調子で、このままではいつ死んでもおかしくない、と。


 危険なのだ、アルエとの暮らしは。なにかにつけて脈拍が急加速してしまい、このままでは確実に寿命が縮んでしまう。生物の一生の長さは、心臓の拍動数で決まるというのに。


 だが、モニタ越しに窮状を訴えた相手の真央はと言えば。


『なんか、思ったより元気そうスね』


 とかなんとか、のんきな感想を返してくる。


「いまの話でどうしてそういう返答になるの! こっちは毎秒命の危機を感じてるっていうのに!」


『やー、さすがに事態が事態だったスから。昨日もだいぶ悩んだスよ、ほんとに安方サンひとりで帰して大丈夫かなって。安方サン真面目だから、どう折り合い付けるかも悩んだろうし。推しに萌え殺されそうになってるくらいなら、ひとまずは安心ス』


「う、はい、その節は大変ご迷惑を……」


 なにせ真央は、今回の件で一番に心を砕いてくれていたのだ。足を向けて寝られたものではない。


「ほんとに、真央にはどうやってお礼したらいいか」


『気にしないでほしいス! ほかでもない安方サンのことだし、アルエはアタシの娘でもあるスから』


 そうだ、真央は私ばかりではなく、アルエのこともサポートしてくれていた。なによりも、私をアルエに引き合わせてくれた張本人でもある。


『で、そのアルエはどうしてるスか?』


「アルエなら、いまは後ろで……ひぃぁっ!」


「わたしならここだよっ! マオ!」


 後ろでなにかしていたはずのアルエが、また急に背中に圧し掛かり、肩口から顔を覗かせてきた。だから、そのやり方は、顔が近すぎて!


「もー、聞いてよマオっ。サヤカってば、わたしがなにかするたんびに悲鳴あげるんだよっ! さすがのわたしも傷つくよ~」


『あはは。安方サンは繊細スから、あんまり脅かさないであげてほしいス』


 そう、限界オタクは繊細なのだ。


 ただでさえ、陰の中の陰に棲息している私と陽の極みみたいなアルエとでは、属性が正反対過ぎて、その輝きに焼き殺されかねない。しかもそれが、なにより尊い至高の推しともなれば、輝き1200000%増しだ。ほら出たオタクの語彙力消失算数。


「サヤカの限界っぷりはわたしも知ってたけどさっ。でもでも、もっと普通にお話できるように、はやく慣れてほしいなっ」


『だ、そうスよ安方サン?』


 慣れる、だなんて簡単に言ってくれる。こちとらいままさに、さらさらと頬に触れる推しのブロンドの感触に口から魂が出て行きそうになっているというのに!


「お、お願い、一度離れて……」


 まさか手で押しのけることも出来ず、震える声で懇願すると、はっとアルエは背中から降りてくれる。


「あっ、ごめんねっ、重たかった?」


「そんなこと全然ないしむしろいい匂いがした気がするけどそうじゃなくて」


『お、戻ってきたスね。大丈夫スか? 精神溶けてないスか?』


「このままじゃいつ溶け出してもおかしくない……」


『だいぶ追い詰められてるスねえ。けどマジな話、早いところ慣れたほうがいいスよ』


 現実に触れあえるはずなどなかった推しVtuberと生活している、という状況に慣れてしまっていいものかという疑問も過る。だがそれはそれとして、真剣な表情で語る真央の言葉には、なにか差し迫った事情のようなものを感じる。


 この先まだ、私になにか、待ち構えている重大なイベントがあるとでも言うかのようだ。あるだろうか? 推しが自分の中にいて、ずっと私のことを見ていた、だなんて知らされる以上のイベントが。


「で、出来ればゆっくり自分を順応させたいんだけど、まだなにか私の知らない秘密があったりする……?」


『なに言ってるスか、そうじゃなくてスよ。アルエと一緒に暮らすんスから、いるでしょ、面通ししなきゃいけない相手』


「面通ししないといけない相手……?」


 私がママで真央がパパで、この上誰と顔を合わせないといけないというのか。


『忘れたスか? ユニット組んでるじゃないスか、アルエは! ≪ふりーくしょっと!≫スよ!』


「あ、ああああああああああああああああああああ!」

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