第5話

 瞼の向こうに、カーテンの隙間から差し込む明かりのまばゆさを感じる。だいぶゆっくり寝てしまったらしい。私はベッドに寝ころんだまま、ぼんやりした頭で真っ先に考えた。今日が休日でよかったと。


 私の身に天地がひっくり返るような出来事が起きたところで、天と地は変わらずそこにあるので、時間は当たり前に流れて、朝は当たり前にやってくる。


 昨日は本当に、とんでもない一日だった。私の推しであるところの鳥羽アルエが、突然モニタの中から現実に飛び出してきて、私のことをママだと呼ぶのだ。しかも、親友の真央まで結託して、アルエは私の中にいる、なんて言い始める。妄想にしたって、あんまりに都合がよすぎる。


 うん、そんな都合のいい話があるはずがない。ということは、やっぱり夢だったのかもしれない。気付かないうちに疲れがたまっていて、自分を主人公にした妄想を炸裂させてしまっていたのかも。それにしたって、推しを巻き込んでしまうなんて、不敬が過ぎるというものだ。やはり労働はよくない。今日はもう、なにもせずにゆっくり心と身体を休めよう。


 そう結論付けて、布団を手繰り寄せる。布団と一緒に、なにか大きな塊を一緒に抱き込んだ。


「え」


「んぅ……」


 大きな塊は、私の腕の中でもぞもぞと動いて、布団の下からさらさらの金髪をこぼれさせ、その隙間から碧い瞳を覗かせる。


「あれ……もう朝……?」


 推しの。


 寝起き声が。


 腕の中から。


 する。


「ひぁわああああああああああああああああ!?」


「うええええなになになになに!?」


 私は悲鳴を上げてベッドから転がり落ち、アルエは突然の奇声に飛び起きて辺りを見回している。大きな音に驚いた小動物みたいだけれど、かわいさを堪能する余裕なんてあるはずもない。


「なん、なんで、一緒に寝てるの……!?」


「え、だってサヤカ、昨日帰って来るなりベッドに倒れこんじゃったから、わたしももう寝ようって思って……ダメ、だったかな?」


 上目遣いッ!!!!!!


 それはダメ! 寝起きのオタクには光が強すぎる!


「や、その、ベッドは全然、使ってもらっていいんだけど」


 咄嗟に顔を覆った手の隙間から見ても、やっぱり彼女は、そこにいる。


 推しが。アルエが目の前にいる。昨日の話は夢じゃなかった。鳥羽アルエは、私の中にいる。目の前にいるのは、正真正銘私の最推しVtuber本人なのだ。


 記憶と認識がはっきりしてくると、突然の推しの寝顔に跳ね上がっていた心拍が、また別の加速をし始める。


 推しが目の前にいて、ころころと甘い声で私の名前を呼ぶ。どんな顔すればいいの。むしろ、私いまどんな顔してる? はたと気付いて頭に手をやると、案の定髪の毛は、寝起きでぼさぼさに荒れ放題だった。


 やだやだやだ、とてもアルエの前に存在していい状態じゃない。


「サヤカ? どうしたの、大丈夫?」


 慌てて手櫛で整えていると、背けた顔をアルエが覗き込んでくる。やめてぇぇ。


「だ、だめ、見ないで、い、いまほんとにひどいから、無理……」


「えーっ! そんなの気にすることないって! あ、寝ぐせならわたしが直してあげるっ。ほら、こっち来てっ!」


「ひっ、いいいいいい、いいです大丈夫自分でやるから」


「そんなこと言わないで、ほらほらっ」


 この推し、押しが強い。


 抵抗もむなしく、私はアルエの前に座らされ、気付けば後ろから髪を梳いてもらっている。絡まった心をほぐすように、細い指が髪の流れを整えていく。その手が優しくて暖かくて、推しになんてことをさせているんだという居た堪れなさが、久方ぶりに誰かに慈しまれている感触に、そっとあやしつけられていく。


 乱れに乱れていた拍動が落ち着いてくると、同時に実感も湧いてくる。


 やっぱりアルエは、いるのだ。幻覚ではない、というと嘘になってしまうが、少なくとも妄想ではない。確かに私とは分け隔てられた別の人格として、私の中に存在している。


 正直に言えば、自分が二重人格……いまは解離性同一性障害というのだっただろうか……だと言われて、病院に行くべきだろうかと考えなかったわけではない。知らないうちに自分の脳内に別の人格が生まれていて、しかも彼女は、Vtuberとして確固たる自我を持ってバーチャル受肉してしまっている、というのは、とても正常な状態だとは言えないだろう。


 状況を冷静に俯瞰してしまえば、医者に診てもらう以外の結論は出ないことはわかっている。いるのだが。


 悪いことに彼女は、なにものにも代えがたい至高の推しで。わたしのことを認知して、なんてせがんでくる推しを、脳だか心だかの異常だなんて切り捨ててしまえるほど、私のメンタルは強くない。


 かといって、どう考えても私なんかと一緒にいるべきではない推しが、あろうことか私の中にいるなんて事態を、どう呑み込めばいいのだろうか。


「ね、ねえ」


「んー? なーに?」


「アルエは、ずっと私の中にいたんだよね? いままでって、食事とか寝るときとか、どうしてたの?」


 ふと湧いた疑問を、率直に投げかけてみる。彼女を理解すれば、今の状況に心の折り合いを付けられるだろうか。


「えっと、なんて言えばいいのかなあ。ずっとサヤカの中にいたのは確かなんだけど、普段は半分寝てるというか、サヤカの中に溶け込んでるみたいな状態だったんだ。配信するときとか、マオと話したときみたいに、わたしが表に出ようっ! ってしたときだけ、はっきり起きてるみたいな感じっていうか」


「なる、ほど……?」


 わかったような、わからないような。さらに聞けば、日中は基本的に私の中で微睡みながらVtuberとしての活動の企画を立て、私が帰宅すると、こっそりと表に出てきて準備をしたり、実際の配信に臨んでいたらしい。


 本当に、まったく、これっぽっちも気付いていなかった。昨日まで私は、ずっとこの部屋にひとりで住んでいると思っていた。だが実際には、ずっとアルエと一緒に暮らしていたのだ。私が彼女を推すようになる、さらにその前から。


 ということは。


「待っっっっっっって」


「えっ、ごめん、痛かったっ?」


「違うの痛くないしむしろ気持ちいいけどそうじゃなくて。ってことは、わ、私が描いたファンアートとか、描いたけど表には出してないイラストとか、SNSで呟いてたこととか、全部見てたってこと……?」


 私のパソコンのハードディスクには、とてもではないが人にはお見せできない、アレやコレがたくさん眠っている。中には、その、アルエのも、少し。今更気付いたことだが、アルエが私の中にいたということは、まさか、そういうのも全部見られて……?


 恐る恐る尋ねると、アルエは首を横に振った。


「ううん」


 ああ、よかった、さすがにその辺のプライバシーは保たれていたのか。


「それだけじゃなくって、サヤカがわたしの配信観ながらかわいいかわいいって呟いてたのとかも、ぜーんぶ聴いてたよ! サヤカってばわたしのこと好き過ぎて、ときどき恥ずかしくなっちゃったもんっ!」


「殺してください」


「なんで!?」


 なんでもなにもない。


「旅に出ます、探さないでください」


「窓! そこ窓だからーっ! 5階の窓から出て行こうとしないでーっ!」


 しがみついて止めようとするアルエの腕を外し、はず、取れない! 力が強い! 離して、死なせて! 私がアルエに向けていた好意妄想劣情その他もろもろ、すべて筒抜けだったとか、さらし者にされるよりずっとひどい……!


「こんなところにいられるか、私は自分の部屋に帰る……!」


「ここサヤカの部屋だよーっ! もう、落ち着いてってばっ!」


 ぎゅむ、と。全身で押し倒され、天地がひっくり返った。ベッドに横たわらされた私の上に、馬乗りになったアルエが、いる。その顔が、ちょっとだけ怒っていた。


「聞いて。わたしはね、サヤカがわたしのこと好き好きって言ってくれて、ほんとに嬉しかったんだよ。サヤカがわたしを好きって言ってくれるだけで、わたしは生まれてきてよかったんだって、いっぱい元気をもらってたんだよ」


 ふわり、と。黄金色の髪が、私の胸の上に降りてくる。


「だから、言わせてよ。わたしを好きでいてくれて、ありがとうって」


 私の推しは、押しが強い。そんなことを言われたら、どうやったって逃げられない。あんまりにも恥ずかしい、私自身から。


「あ、あの、もう、暴れたりしないから……」


 一度、私の上からどいてもらって。それでようやく、私は身体を起こして、アルエと向き合えた。こうして正面から顔を見合わせるのは、昨日から今日までで、もしかすると初めてかもしれない。本当に、ものすごく照れ臭いけれど、まっすぐに向けてもらった気持ちには、まっすぐに向けた気持ちで返したい。


 私はまっすぐに、星を散りばめたアルエの瞳を見つめ返す。


「えっと、私も、アルエの元気いっぱいな配信に、いつも助けてもらってました。だから、なんていうか……ありがとう、ございます?」


「……~~~~~っ! サヤカーっ!!」


「ひゃあううああああ!」


 感極まったのか、全力で胸元に飛び込んでくる推しに、落ち着いたと思った脳は一瞬でパンクする。


 けれども、衝撃の事実を知らされてから一晩。私は、ようやく私の中に潜んでいた推しと、初めて向かい合えたのかもしれない。


 まだこの時は、本気でそう思い込んでいた。


「あはっ! わたし、ほんとに嬉しい! これからはずっと、こうしてサヤカと一緒に暮らして、いっぱい触れ合えるんだっ!」


 胸の上から聞こえた声に、沸騰していた脳が一気に冷静さを取り戻す。


「え、待って、私たち、これからここで一緒に住む……ってこと?」


「? 違うの?」


 なんの疑いも邪気もない瞳が、わずかに右に傾きながら見上げてくる。


 どんな無理難題も100万人に頷かせる必殺の甘え顔……! そんな顔をされて違うなんて言えないし、言うつもりはないけれども。けれども、同じ身体の中にいる以上、百万歩譲って一緒に暮らすのはともかくとして、私の部屋にはベッドがひとつしかないわけで。当然寝るときは、二人で同じベッドに横たわることになるわけで。


 無理だ。


 死んでしまう。推しと同じベッドで寝起きするなんて心臓が、保たない。とかそれ以前に、アルエを私なんかと同じベッドで寝起きさせていいはずがない。不敬が過ぎて私の精神が耐えられない!


「え、買うか? 新しいベッド……いや、この部屋にベッド二つは無理……引っ越し……?」


「待って待ってなんでそういう話になるのっ! そんなお金使わなくていいよ、一緒にここで寝ようよっ!」


「無理無理無理無理そんなの許されるわけない、だったらせめてアルエがベッド使って、私は床で寝るから……!」


「そんなのダメだってばっ、身体壊しちゃうよーっ!」


 這って逃げる私を、飛び掛かるようにアルエが追いかけてくる。


 こうして。


 私と、私の推しVtuberの、奇妙な共同生活が始まったのであった。

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