第32話
「サヤカ、サヤカっ! ねえ、どこにいるのっ! 隠れてないで出て来てよっ!」
リビングにも、廊下にも、録音ブースにも、どの扉を開けて、どこを見回しても誰もいない。どこを探しても、サヤカの姿が見つからない。
いままでこんなこと、一度だってなかったのに。もともとこの身体はサヤカのもので、シャワーやお手洗いに行くときや、集中してイラストを描いているときに、席を外すのはいつもわたしのほうだった。配信や歌の練習でわたしが身体を使うときだって、サヤカはいつもそばにいてくれた。
離れていても、サヤカの存在をずっと感じていたのに。いまはそれが、少しも感じ取ることが出来ない。
マンションを出て行ってしまった? そんなこと出来ない。サヤカはわたしの主人格だ、物理的には決して離れられないはずだ。けどもしかしたら。
一縷の望みにかけて玄関を出ようとしたわたしの腕が、後ろから掴んで引き留められる。
「ちょっと待ってアルエ。少し落ち着いて、いったいなんなの」
「なにがあったんですか? サヤカさんがいないって、どういうことですか」
シオネ、リリシア。二人の姿を見た途端、鼻の奥がつんとして、目頭に熱く込み上げてくるものがある。上手く息が吸えない。それが涙が出る前兆だって、わたしはお気持ちブログの騒動のときにはじめて知った。
「どうしよう、どうしよう……サヤカがいないの、どこにもいなくなっちゃったの」
「だから、それどういう意味なの。あんたたち二重人格なんでしょ。その片方がいないって、それじゃまるで」
「……まさか、サヤカさんの人格が、消えてしまったんですか?」
視界が滲んで、のどが引きつって声が漏れる。いやだ、そんなはずない。でも、そうとしか思えなかった。
「はあ……いいから、順番に話して。さっきはなにを突然言い争い始めたの」
シオネに手を引かれ、リリシアに支えられながら、リビングの椅子に腰を下ろす。目の前にカップが置かれて、はちみつレモンティーの甘い香りが漂ってくる。
わたしとサヤカの会話は、きっと全部が全部口に出ていたわけではなかったんだ。ほっとするやわらかな香りが、心の波が少しだけ落ち着かせ、ぼんやりとそんなことを考える余裕ができた。もしかすると、わたしの言葉はなにも聞こえていなかったかもしれない。なら二人とも、なにが起こっていたのかわからなくても仕方がない。
けれど、わたしにもわからない。どうしてこうなってしまったのか。
はちみつレモンティーをひと口と、鼻をひとつすする。
「……わたしが、サヤカに怒ったの。サヤカがほんとにプロのイラストレーターになっちゃったら、わたしはどうなるんだって」
わたしとは違う道へ進んで行こうとしたサヤカのこと。ひとつしかない身体のこと。わたしというVtuberが生まれた、そもそもの発端のこと。
事情を知らないシオネたちに向け、これまでのわたしたちをひとつひとつ言葉にしていくにつれ、わたしの中に渦巻いていた激情と混乱はなりを潜め、代わりにぽっかりと空いてしまった空白が、深い孤独の中に引きずり込もうとする。
蓋をするように、納得がひとつ降りてくる。
「サヤカはもう、わたしが必要なくなっちゃったのかな。だからわたしを置いて行こうとしたり……いなくなったりするの?」
「なんでそうなるの。サヤカにそう言われたの?」
首を横に振る。言われてはいない。でも、きっとそういうことなんだとしか思えない。
「だって、わたしはサヤカの願いで生まれたのに。サヤカが望んだから、もっともっと有名になって、みんなにわたしを見てもらおうとしたのに。なのに」
「サヤカさんが独立したら、もう自分はいらないって言われると思った、ってことですか?」
人から言われると、その言葉は鋭いナイフのように心臓を貫く。そんなのいやだ。
「で、それを全部サヤカに言っちゃったわけね」
頷くと、返ってきたのは深いため息だった。
「なんだってあんたはこう……それで、どうするつもり。消えた人格って、呼び戻せたりするものなの?」
「わかんないよ。わたし、これからどうすればいいの? サヤカがいなかったら、わたしなんて、なんにもないのに」
真っ暗でなにもない穴の中に、たったひとりで置いて行かれる。右も左も、前も後ろもわからなくて、どちらに進めばいいのか、進んでしまっていいのかもわからない。伸ばした手の先すら見えない暗闇が、突然わたしを飲み込んで閉じ込めようとする。そばで導いてくれた人は、もうどこにもいない。
「ちょ、ちょっと待ってください。サヤカさんのことも、本当に消えちゃったのかとか、いろいろ気になるんですけど。アルエさんになにもないだなんて、どうしてそう思うんですか」
「わたしは……わたしは、サヤカが喜ぶことをしてただけなんだもん。シオネみたいに自分で曲を作ったり、リリシアみたいにお芝居もできない。サヤカが喜んでくれるからゲーム実況したりしてただけだし、サヤカがユニット活動とか観てみたいって言ったから、二人に出会えたんだもん。わたしひとりじゃ、なんにもできない」
シオネには歌がある。リリシアには演技がある。そしてサヤカには、イラストがある。わたしだけ、なんにもない。ゲームで遊んで、楽しくおしゃべりして、それだけだ。
サヤカはともし火だった。一緒にいた私に気付く前から、ずっとわたしを観て喜んでくれていた。サヤカが喜んで、楽しんでくれる方へ、迷わずに進み続けてきた。一番そばでわたしを照らしてくれる、暖かな光だったのに。
置いて行かないで。サヤカから、イラストレーターとして独立したいという話を聞かされたとき、わたしにあったのはその一心だけだった。
「……あのさ、この二人って」
「たぶん同じこと考えてると思います」
ぼそぼそと話す声に顔を上げると、シオネもリリシアも、頭痛をこらえるように眉根を寄せ、頭を抱えていた。わたしのせいだ。またお気持ちブログのときのように、わたしが足を引っ張っている。
「ごめん、ごめんね……わたしのせいで、また二人にも迷惑かけて。サヤカはわたしたちのサポートもしてくれてたのに、わたしが見放されちゃったせいで」
「違う違う、どうしてそうなるの」
「だって」
「まあ、確かにいろいろ言いたいことはありますけど……でも見放されたなんてことだけは、きっとないはずです。いずれにしろ、話はサヤカさんに戻ってきてもらってからです」
「賛成。私はむしろサヤカにいろいろ言いたいことできたし」
思いがけない二人の言葉に、瞼が勝手にぱちぱちとまばたきをする。残っていた涙が零れたけど、それどころじゃない。
「で、でも、サヤカはもうどこにもいなくなっちゃったんだよ。それなのに戻ってきてもらうなんて、どうやって」
「正直、そればっかりは……お医者さんでもないですし、そもそも多重人格の主人格が消えちゃうなんてことがあるのか、聞いたこともないです。アルエさんたちがどういう状態なのかも、お二人から聞いた話でのイメージでしかわかりませんから」
返ってきたリリシアの言葉に、明るい展望はちっとも見えない。わたし自身、自分がサヤカから分離した、希望や欲求を具現化した人格だという自覚以外は、なにも詳しいことはわかっていない。シオネたちはもっとなにもわからないはずだ。そんな状態で、サヤカを呼び戻すなんてできるとは思えない。
やっぱりもう、サヤカには二度と会えないのかもしれない。これから先、わたしはきっとひとりで取り残されていくんだ。目の前に待ち構えている光のない世界に、また涙が込み上げてくる。
だというのに、どうしてかわたしを見るリリシアの瞳には、なにか確信めいたものが宿っているように見えた。シオネにもだ。
「ですが、私たちもお二人と過ごしてきて、それなりに時間が経ってますから」
「あんたたちの面倒くささは、だいたい理解してる」
なんだか酷いことを言われている気がする。
「とりあえず、そういうことなら真っ先に相談するべき相手がいるでしょ」
「だ、誰……?」
こんな事態で相談できる相手なんていただろうか。首を傾げるわたしにリリシアが告げたのは、本当によく知った人物だった。
「決まってるじゃないですか。アルエさんのパパさんです」
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