第23話

 すぅ、はぁ。


 落ち着きなく暴れる心臓を抑え込むように、大きく息を吸って、深く吐き出す。胸に手を当てて気持ちを落ち着かせなければ、きっと次に来る衝撃には耐えられない。情けなく悲鳴を上げて腰を抜かしてしまう、一瞬先の未来が容易に想像できる。


 すぅ。私のものではない、息を吸い込むかすかな音が聞こえ、身を堅くする。


 けれども、ささやかな抵抗はきっと無意味なのであろうことも、ここまでの短い経験で理解していた。させられてしまっていた。


『そんなに顔を強張らせないでくださいませ、お嬢様。なにも怖いことは致しません。こうして囁くように優しく、優しく、あなたを蕩かせて差し上げるだけでございます』


「ひぃ……ッ!」


『ああそれとも、もしかして望んでいらっしゃるのですか? 無理やり、強引に、かき乱すようにいじめられるほうがお好みでしたか? だったら、ご期待に添えられるよう振舞わせてもらうぜ。どうなんだ、お嬢サマ?』


「ふぐっ……」


 無理です限界です耐えられませんこんなの。耳に、ヘッドフォンから聞こえてくる、低く甘い声に、私はあっけなくパソコンデスクに崩れ落ちた。


「わ、すごい、効果は抜群だ、って感じになってる」


『だ、大丈夫ですか? なにかおかしなところありました?』


 横から聞こえる、まるで他人事のようなアルエの声。うぐぐ、すべての発端だというのに。ちらりと目を上げれば、パソコンモニタの中で、ビデオチャット画面に映るリリシアが、先ほどまでの低音ボイスから一転して素の少女の声で心配してくれている。


「う、うん、平気……とんでもない破壊力でした」


 デスクに突っ伏す私の心拍を爆走させた、Sっ気たっぷりな執事風の低音ボイスは、誰あろうリリシアから発せられたものだ。演技派Vtuberとして名高いリリシア・ランカスターの名に恥じない、脳みそ破壊ボイスでした……。


『えっと、こんな感じのシチュエーションボイスを出そうと思ってるんです。なので、そのイメージキャラクターのデザインと立ち絵をお願いしたいと思っていたんですけれど』


 なんのことはない。イラストコミッションを始めるなら、ぴったりの話があるよ、なんて言っていたアルエが紹介してきたのは、すっかりおなじみになった【ふりーくしょっと!】のメンバーのひとり、リリシアだったのである。


 映画にドラマ、舞台にミュージカルに、果てはアニメにドラマCDにと、類を問わない演劇好きで、本人も演技の勉強をしているというリリシアは、これまでもVtuberの活動の一環として、自身で脚本を書いたASMRやシチュエーションボイスを披露して人気を博してきた。


 つまり、今しがた本人に生演技してもらった艶めかしいセリフは、リリシアが準備している新作のシチュエーションボイスの一部というわけだ。


 だが、いままで発表されてきたボイス作品は、いずれもリリシア・ランカスターという女性Vtuberの声で演じられている。一方で、今回収録されるのは、リリシアが演じる、リリシアではない登場人物のボイス作品になるとのことで、そのため新しいキャラクターのデザインが必要になったという次第だ。なかなか込み入った話だが、最近ではVtuber名義でアニメ声優を担当することもあるので、その類例だろうか。


『あとキャラクターがもうひとりいて、お嬢様系妹キャラって感じなんですけれど……んんっ。さあ、お兄さま、もうお休みになる時間ですよ。ほら、ゆっくり横になって、目を瞑ってくださいませ』


 ひゅっ。


 喉から変な音が漏れそうになるのを慌てて呑み込む。リリシアのお兄さま呼び……! 脳が溶ける!


「な、るほどっ。わかりました、じゃあ二人分のキャラクターデザインと、立ち絵ということですね。納期はいつ頃までにしましょう?」


『来月中にリリースしたいので、それに間に合うように……ただ、もし可能だったら、デザイン画のほうはユニットの1周年配信で披露したいなと思ってるんですが、出来ますか?』


 となると、リテイクや修正を含めて、デザイン画の締め切りまで1か月。他のタスクにだだ被りだが、ユニット曲のジャケットイラストなどはもう仕上げに入っている。また睡眠時間を削る日々になるかもしれないが、やってやれないことはないはずだ。


「わかりました、お引き受けさせてください!」


『本当ですか! じゃあ、あとでキャラクター設定や、サンプルボイスも送りますね。すみません、すでに私たちの配信のためにいろいろお願いしてるのに』


「全然大丈夫です。むしろ【ふりーくしょっと!】の、リリシアのためにイラストを描かせてもらえるなんて、こっちがお金払わなくていいのかってくらいですから」


『もう、またそんなこと言うんですから。ダメです、成果に対する報酬は、渡すのも受け取るのも誠意の証なんですから』


 頬を膨らませるリリシアの言葉に、そうだった、と頭を掻く。つい先日アルエに似たようなことを考えたばっかりだというのに。


『それから、イラストのこととは無関係なんですが、もうひとつ気になってたことがあって』


「はい?」


 なにかあっただろうか。いや、むしろ私のことなんてわからないことだらけか。【ふりーくしょっと!】の面々と会うとき、主に用があるのはアルエのほうであり、私はお気持ちブログの件以降、あまり彼女たちとじっくり話したことはない。イラストのラフなどを確認してもらうために連絡はしているが、あくまで業務的な内容だ。


 もしかすると、ときどき出てくる、絵がちょっと描けるけど信用できない謎のオタク女と思われているのでは。そうですよね縁があったからって私みたいな限界Vオタが馴れ馴れしくしすぎましたよね。


『サヤカさん、もしよかったら、敬語はなしにしませんか、って思って』


「へ?」


 反射的に自虐思考が駆け巡った脳みそに届いたのは、まるで逆の言葉だった。


「あっ、それっ! わたしもちょっと気になってたのっ! サヤカって、どうしてわたしには普通なのに、シオネやリリシアには敬語なのっ?」


『サヤカさんのほうが年上ですから、もっと楽にしてもらえたらいいのにって、シオネさんとも話してたんですよ』


「い、いやでも、推しというか、雲の上のようなみんなにため口なんて。アルエに対しては、最初が衝撃的過ぎて忘れちゃってたけど」


 それに、いくら年上だからって、親しくもない相手に馴れ馴れしくされるのは、嫌なのではないだろうか。


『そんなこと言ったら、私だってサヤカさんのイラストのファンですよ! それに、ブログ騒ぎのときに私たちをまとめてくれたの、すごくかっこよかったです!』


 やめてやめて、私はそんな輝いた眼で見てもらえるような立派な人間じゃない。


『だからもっとたくさんお話して、普段どんなふうに絵を描いてるのかとか、聞きたいなって思ってたんです。敬語とかなしにして、その、お友達みたいになれないかなって』


 うう。


 Vtuberとしてのリリシアはすらりとした美女だが、中の人である彼女は、小柄で守ってあげたくなるような美少女だ。そんな彼女に、上目遣いで仲良くしてください、なんて言われて、断れるような血も涙もない冷血漢が、果たしてこの世界に何人いるだろう。


 でも、いいのだろうか。私みたいなただのオタクが、一線で活躍するリリシアたちに、友達のように接するなんて。


 答えかねている私の肩に、拳がひとつ、軽い勢いでぶつかってくる。


「もうっ、サヤカっ! リリシアがここまで言ってるんだよっ、答えてあげてよっ!」


「う、え、はいっ、ごめんなさいっ」


 ものすごい恥ずかしいし、いろんな方面に頭を下げなければいけない気がしてならないけれど、覚悟を決める。


「……け、敬語じゃなくて、普段通りに、だよね。えっと、こんな感じでいいかな、リリシア」


 ぱっと丸い瞳が大きく見開かれ、笑顔が輝く。優しく照らす木漏れ日のような、その光に照らされて開く花のような。


『はいっ! ふふ、シオネさんに抜け駆けしちゃいました。改めて、よろしくお願いしますね、サヤカさん』


 うあ。頬が熱い。Sっ気執事のボイスを聞いたときのような、オタクのオーバーリアクションではなく。心臓が大きく早鐘を打って、身体が火照ってしまう。ちょっとこれ、年下の女の子に見せていい反応ではない。


 顔を伏せて蚊の鳴くような声でしか返事できない私の肩に、上から圧し掛かってくる暖かい重み。


「むーっ、リリシアばっかりじゃなくて、わたしとももっと仲良くしなきゃやだよっ!」


『アルエさんは、いつもサヤカさんと一緒じゃないですか。ずるいですよ』


「へっへん、サヤカはわたしのママだもんっ。っていうか、リリシアこそ敬語だけどいいの?」


『あっ、それはその、この口調が染みついちゃってるので……こほん。やあ、とうとう私の愛に答えてくれて嬉しいよ、サヤカ! これからもっと、私たちと愛を交わしていこうじゃないか!』


「うぁーーーーーー待って待ってそれだめオタクにとどめ刺さないでリリシアの夢女になっちゃうから!」


「ちょっとっ、ダメだよっ! サヤカの最推しはわたしでしょっ!」


「近い近い近い近い当たってるいろいろ当たってるからダメ待ってアルエ恋しちゃうからー!」


 そんなわけで。


 リリシアから、新たにイラストの依頼を請けることになったわけだが。


 そうじゃない、そうじゃないんですよ。これでは、いままでとなにも変わらない。私がコミッションを始めたいのは、アルエや【ふりーくしょっと!】という枠の外で活動したいからだ。根本的なところが、私とアルエの間で、どうしてかすれ違っている。


 けれど結局、はしゃぐアルエやリリシアを前に、そんなことが言い出せるはずもなかった。

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