第29話
収録が始まった。個別に歌録りをするという話の通り、まずリリシアがブースに入ると、私とアルエ、それにシオネも廊下で待機することになる。
ブースでの歌の収録というと、ガラス張りの室内にマイクとヘッドセットだけが設置されていて、別の部屋でレコーディング機材を操作するイメージだったが、いくら高級マンションといえどここはあくまでシオネの個人宅だ。機材もすべて室内にあるので、曲の再生や録音も、収録する当人が自分で操作する必要がある。
ただし、マイクが拾う歌声だけは、部屋の外のヘッドセットに飛ばして聞けるようにしたらしい。その方がリテイクも出しやすいから、とはシオネの談だが、どこまでもガチ勢なその姿勢に、もはや簡単を通り越して笑いしか出てこない。いまもそのヘッドセットで、まさにブースの中で収録されている最中のリリシアの歌声を聴いているシオネの表情は、真剣そのものだ。わずかに目を伏せ、全神経を耳に集中させている。無意識にだろうか、頭が小さく前後に揺れて、リズムを取っているのがご愛敬か。
無遠慮な私の視線に気づいてか、シオネが顔を上げる。
「……なに?」
怪訝そうに首を傾げられ、私は慌てて首を横に振る。
「ご、ごめんなさい。かっこいいなって思って、つい見ちゃった」
自然と口から出てきたのは、正直な感想だ。私が見ていたのは、自分の好きなことに、志している道に、真摯に取り組んでいる人の姿だったから。
「……サヤカ、だよね」
「え、そうだけど」
なぜかシオネは、眉根を寄せてため息をつく。
「アルエに変な影響受けてるんじゃないの」
「へっ? ど、どこら辺が?」
「……別に、なんでもない」
シオネの妙な態度に思わずアルエを振り返るが、アルエも首を傾げて肩をすくめていた。
そうするうちにブースの扉が開き、リリシアが姿を現す。
「ど、どうでしたか?」
「悪くなかったよ。でも、やっぱり少しテンポが遅れるところがある」
「うぅ……できるだけ直したつもりだったんですけど」
「別に、そこだけ録りなおせばいいから。今度はオケを二番の頭から流して」
「はいっ、わかりました!」
なるほど。こうして繰り返し収録し、リリースするときは、上手く歌えていたテイクをつなぎ合わせた音源で公開するのだ。プロの歌収録と同じやり方だ。知識としては知っていたが、こうして目の前でその工程を見ると、完成品として世に出ている楽曲の裏側にある、アーティストたちの苦労を実感できるようだった。
基盤となる曲作りに、日々の練習やトレーニング、そして本番となる収録。その労力の積み重ねの末に、果たして【ふりーくしょっと!】のユニット曲がどんな姿になるのか、ひとりのファンとして楽しみで仕方がない。
程なくしてリリシアの収録は終わりを迎えた。リテイクは2回。かなり順調だったのではないだろうか。
「じゃあ、次はわたしだねっ! 見ててね、一発でOKにしてみせるからっ!」
なんて言いながら、意気揚々とブースに入っていったアルエであった。私は今回も、邪魔にならないように廊下で待機だ。
ぼんやりとした、私ひとりしかいない廊下に取り残され、壁に背を預けてずるずると座り込む。こうなってしまうと、私には本当にできることがない。一緒に歌うユニットのメンバーでもなければ、みんなのためにお茶の準備をすることも出来ない。ただぼんやりとしているだけの存在だ。
いままでの私も、そんなようなものだった。自分でなにかを生み出すこともなく、ただ与えられたものを消化して、生きているから生きているだけの日々。
でも、アルエが生まれた。
天真爛漫で、自由奔放で、なにかと私を振り回しながら、それでもママと慕ってくれる彼女が、私にもなにかを生み出す力があったことを教えてくれた。
だから、置いて行かれたくない。シオネの作ったあの歌のように、どんどんと先を目指して進んで行こうとする彼女たちに、ぼんやりとしたままのここに置いて行かれたくはない。
私の実力がどれほどのものなのか、自分ではまだよくわかっていない。けれど、わからないから挑戦しないことだけは、したくなかった。真央が手引きしてくれたゲームの案件、いい方向に転がってほしいな。
廊下でひとり、やることもなく物思いにふけっていると、ブースの扉が開いてアルエが出てくる。
「どうだった?」
立ち上がって声をかけるが、表情はもうひとつ明るさがない。釈然としない表情で、しきりに首を傾げている。どうしたのだろう、入っていくときはあんなにやる気満々だったのに。
「なんか……あんまりうまく歌えなかったかも」
「そうなの?」
表情が晴れないのは、廊下で聴いていたシオネも同じだった。
「音程やリズムは取れてる。けど、それだけ。これなら前のほうがよかった」
「うっ、そこまで言うー……?」
「お世辞言っても仕方ないでしょ。緊張してるのか知らないけど、肩の力抜いて、もう一回歌ってみて」
しきりに首をひねりながらブースに戻ったアルエだったが、リテイクも成果は芳しくなく、結局通しで3回歌ってもなお、納得のいく歌にはならなかったようだった。
一度休憩を入れよう。シオネの提案でリビングに戻るなり、アルエは席に沈み込み、テーブルに突っ伏してしまう。
「うあーん……なんでうまく歌えないのー……」
「お疲れさま、大丈夫?」
いままでになく萎れたアルエの頭を、撫でてあげると、ぐりぐりと頭を押し付けてくる。よかった、疲れてはいるようだけど、落ち込んでいるほどではないらしい。
アルエの向こう側では、同じく席に座ったリリシアが、シオネから受け取ったヘッドセットを耳に当てている。
「……確かに、綺麗に歌えてるとは思うんですけど、なんだかアルエさんらしくないですね」
「私も同意見。すごくつまらない歌になってる」
シオネとリリシアの容赦のない評価に、またアルエからうなり声が漏れる。
本当にどうしてしまったのだろう。自宅での練習を聴かせてもらっていたときも、カラオケで歌っていたときも、アルエは本当に楽しそうに歌声を響かせていた。私には、聴いているこっちの気持ちまで踊ってしまいそうな、アルエの爛漫さがあふれた歌声に思えていたのに。それとも、単なる身内贔屓だったのだろうか。
「上手く歌おうって意識しすぎじゃない?」
シオネが差し出したはちみつレモンティーを受け取りながら、アルエは首をひねる。
「そんなつもりはないっていうか……」
「もしかして、練習のし過ぎで、歌うのが楽しくなくなってしまったとか」
「ううんっ! 全然そんなことないよっ、昨日まではすっごく楽しくて、思わず踊っちゃいそうなくらいだったもんっ!」
「……じゃあ、今日は?」
まっすぐにシオネに見つめられ、アルエは、ぐ、と言葉に詰まる。リリシアを見て、そして私を見て、観念したように口を開いた。
「……なんだか、ブースに入ってからあんまり楽しくなかったかも」
はちみつレモンティーに口を付け、ほう、と温かい息を吐き出す。
「昨日までは練習してても、わたしたちの歌でみんなが喜んでくれるかなとか想像して、すごくわくわくしてたのに。今日はそういう気持ちが全然わいてこなかったんだ……」
どうしてだろうか。昨日までと今日で、アルエになにか変化があったようには思えない。環境は違うかもしれないが、以前の合同練習では、逆にダメ出しされてしまうほど気持ちが逸っていたというのに。
そもそも、今日のアルエの歌がどんな具合だったのか、ずっと廊下にいた私はまだ耳にできていない。身を乗り出して、リリシアに手を伸ばす。
「ねえ、私にも聴かせてもらっていいかな。どんな風に歌ってたのか聴いてみたい」
するとなぜか、リリシアは怪訝な表情で首を傾げる。
「え、でも、サヤカさんは聴いてたんじゃないんですか?」
「ううん、私は廊下で待ってたから」
「……アルエが中で歌ってたのに? なにそれ、幽体離脱してんの?」
シオネまで表情を歪め、あまつさえ仰け反って私から距離を取ろうとしている。自分でも変な話だとは思うが、その反応はちょっと傷つく。
「うーん、実際に私が廊下に出てたわけじゃなくて、意識の中で別行動してる感じ、なのかな。アルエも、そうやって私のいないところで練習してたし」
するとアルエは、照れ臭そうに頬を掻いた。
「ほんとは、あんまり歌ってなかったんだ。お風呂でひとりで歌っても、あんまり気持ちが乗らなくって。だからひとりのときは、ずっと音程を取る練習とかしてたの」
おや、そうだったのか。それは知らなった。
「もしかして、それが原因じゃないですか?」
ぽん、と手を打つリリシアに視線が集まる。それ、とは?
「サヤカさんが一緒にいなかったからですよっ! いままで練習で歌うときは、いつもサヤカさんがいたんですよね? だからアルエさんは、ファンの皆さんの姿が想像できて、楽しく歌えてたんです。だって、すぐそばに一番のファンがいるんですから」
ええ?
まさか。私がいるかどうかで、そこまで如実にアルエのテンションが変わるとは思えない。アルエはいつだって、ファンを楽しませて、自分も楽しむ天才だった。いくらママだからって、私ひとりの有無が大きな影響を及ぼすなんてことは。
「そう……かも?」
ない、はずなのに。どうしてアルエは、そんな宝石を見つけたみたいな顔で私を見るの。
「ううん、そうだよっ! だってサヤカってば、わたしが歌ってるとき、いつもすっごく楽しそうな顔で聴いてくれるんだもんっ! そしたら、わたしももっともっと楽しくなって、きっとみんなも楽しんでくれるんだって気持ちになってっ!」
待って待って待って、そんな、二人の前で私の赤裸々な様子を語らないで! ほら、シオネだってめちゃめちゃ呆れ顔してるから!
「……はあ。じゃあ次は、サヤカも中に入って。まったく、二重人格ってもっと一心同体なのかと思ってた」
そんなわけがない。アルエは私の中に生まれたけれど、私とはまったく別人だ。
「ほらっ、行こうよサヤカっ!」
「ちょちょ、行くから、慌てないでっ」
アルエに腕を引かれてブースに入りながら、なおも理解できていなかった。アルエと私は、まったくの別人。私はこのときまで、本気でそう思っていたのだった。
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