第30話
シオネ宅のお手製録音ブースに連れ込まれ、防音された部屋の中に二人きり。なんだかちょっと緊張してきたかもっ、なんて顔を赤らめるアルエに、危ういところで不純な気持ちを押し殺した。
にわかに悶々とさせられた邪悪なオタクのことはさておくとして、一度マイクに向かってしまえば、アルエは本当に、心の底から楽しそうに歌っている。
それぞれの持ち味を歌うメロでは、飛び跳ねて弾むように。高みを目指すサビでは、前へ前へと突き進んでいこうとする強い意志を湛えて。シオネやリリシアをして、「平坦でつまらない歌」だなんて評されていたのが信じられないほど、鳥羽アルエという少女の性格や魅力をこれでもかと伝えてくる、そんな歌が、ブースの中で舞い踊っている。
よかった、この調子ならOKを貰えるんじゃないだろうか。
ただし。先述の通り私は、アルエのような純粋さなんてとうに忘れてしまったダメな大人で、ついでに目の前にいるアルエの限界オタクなのだ。だからどうか、歌いながらちらちらとこちらに視線を投げるのだけは、勘弁していただきたかった。
◆
その後。一度気持ちが入りすぎて、テンポが乱れたがためにリテイクはあったものの、最初の評価を完全に覆す形でアルエの収録は終わった。これで【ふりーくしょっと!】の三人ともが、無事にユニット曲の収録を完了したことになる。
そのことで一番安堵の表情を見せていたのは、音楽プロデューサー役でもあるシオネである。
「安心した。このあと編集もしないとだし、収録押してたら寝れなくなるところだった」
「よかったーっ! でもでも、すっごく楽しかったし、もっと歌いたいくらいっ」
「一番の不安要素だったの自覚してる?」
ちっとも気にした様子のないアルエに、ジト目を向けるシオネ。一番の功労者なのだから、年長者としてはあとでなにか労ってあげたいところだ。
そんな二人に苦笑いを浮かべていたリリシアだが、アルエの言葉に顔をほころばせてひとつ頷いた。
「けど、私もすごく楽しかったです。あんな立派な機材で収録したことなんて、これまでありませんでしたし」
「そういえば、リリシアはいつもどんな風に収録してるの?」
彼女もASMRだのシチュエーションボイスだの、音源をリリースすることが多いVtuberだ。配信機材は卓上マイクにカメラ程度で、コントローラだのキャプチャボードだの、ゲームを配信するための設備のほうが多いアルエの環境に見慣れた身としては、どんな投資をしているのか気になるところだ。
私の問いかけに、リリシアは少し恥ずかしそうに視線を泳がせる。
「私も、一応マイクとかはそれなりに気を遣ったものを買ってるんですが、場所がなくって。配信は普通にデスクでやってるんですけど、ボイスとか録るときはクローゼットの中でやってたりします」
「クローゼット? どうして?」
「収録は、どうしても周りの音が気になっちゃいますから。部屋の中で一番雑音が入らないところ、って思ったら、他に選択肢がなくって」
「そういえば、リリシアは実家だっけ。親乱入とかしない?」
「大丈夫ですっ! ドアに配信中って札下げてるときは、絶対入らないでって言ってますから!」
自信満々に胸を張るリリシアの、あまりに健気な対策にこっちも思わず頬が緩んでしまう。これが配信になると、あの芝居がかった耽美なリリシア・ランカスターになるのだから、本当に分からないものだ。
「………………」
ところで、さっきから隣でそわそわしている子がいるんだけれど、どうしたのだろうか。
「ね、ね、それで、いつみんなで歌うのっ!?」
いよいよ我慢できなくなったのか、がばっと身を乗り出してアルエが声を上げる。そういえば、二人分の収録が終わったら、一緒に歌おうという話になっていたのだった。
「そうでしたっ、私もせっかくですから、三人でパート分けして歌ってみたいです!」
「ああ……まあ、歌うのはいいんだけど、時間平気なの。アルエたちはともかく」
そう問いかけるシオネの視線は、リビングの向こうにある窓を見ていた。釣られて私も目を向けると、ベランダにつながる掃き出し窓の外は、もうすっかり日も落ちて暗くなっている。昼過ぎから収録をはじめ、リテイクや休憩を経て、気付けば結構な時間が経っていたようだ。
確かに私とアルエは全く問題ないが、まだ実家暮らしの高校生であるところのリリシアは、門限に引っかかったりしないだろうか。
「大丈夫です! 友達の家に行くけど、もしかするとちょっと遅くなるかも、って伝えてあるので!」
「……一回連絡しときなよ」
気の回るシオネに諭され、リリシアはわたわたとスマートフォンを取り出す。
さて、ということは、私は三人の生歌を目の前で聴けてしまうのか……いいのかな。いや、こんな機会を独占してしまっていいはずがない。それこそいつか後ろから刺されかねない。
「せっかくなら、三人で歌うバージョンも収録して、ボーナストラックみたいにどこかで公開してもいいんじゃないかな」
「あっ、それいいっ! みんなにも聴いてもらいたいよねっ!」
ファン目線でそう進言すると、アルエは喜んでいるが、シオネは難しい顔をして腕を組む。
「あの部屋じゃ、同時に歌っても綺麗に録れない。ヘッドフォンだって人数分ないから、オケも後ろで流さないといけないし。需要ないと思うけど」
「あるあるあるある、絶対あるよ! 三人で一緒に歌いました、って情報だけで、オタクは無限に妄想広げられるんだから!」
「えぇ……まあ、そこまで言うなら収録はしてもいいけど。サヤカ、やっぱりちょっとキャラ変わってきてるでしょ」
欲望を率直に吐き出しすぎたかもしれない。でもどうにかこれで、全国のふりしょファンに殺される未来は回避できそうだ。
リリシアも家族への連絡を済ませ、今度は三人と私で録音ブースに入ろうと立ち上がった、そのときだった。
「あれ? ごめん、ちょっと待って」
テーブルに置いていた私のスマートフォンが震えだし、画面を見ると、本当に珍しく、メールやメッセージではなく着信が入っている。真央からだ。どうしたんだろう、という疑問と、もしかして、という期待が同時に沸き上がる。皆に断りを入れ、廊下に出て通話ボタンをタップする。画面に伸ばす指先が、震えていた。
「もしもし、真央?」
『あ、安方サン! いま通話しても大丈夫スか?』
「うん、平気だけど、もしかして」
『そうス! この間話した、ゲームのキャラデザの件スよ! 送ってもらったポートフォリオを先方に見せて、がっつり安方サンのこと売り込んだスよ。そしたら、一度直接会って詳しい話をしたいって!』
「ほんとに!?」
勝手に左手が、拳を握りこむ。その場で飛び跳ねるのだけは、ギリギリで我慢できた。仕事だ、イラストの仕事。ゲームのキャラクターデザイン。趣味のインターネットお絵描き女ではなく、商業イラストレーターになれるかもしれない、大きなチャンス。私が私として、皆の前に立てるかもしれない、千載一遇の機会。
「ありがと……真央、ほんとにありがとう……!」
鼻がつんとして、目頭が熱くなる。いけない、まだ結果が出たわけじゃないのに。
『もー、泣くのは早いスよ。まだ本決まりってわけじゃないスから。といっても、向こうの反応見る限り、かなり好印象なのは間違いないスけどね』
「うん。あとは私が話してどうなるか、だよね」
『大丈夫スよ。アタシも一緒に行くスから』
不安はある。けれど真央がいてくれるなら、こんなに心強いことはない。
『で、場所と時間スけど……』
「……うん、その日なら大丈夫。わかった」
面談の予定を打ち合わせると、いよいよ話に実感が湧いてきて、また鼻をすすってしまう。でも、これで私も、前に進めるかもしれない。いや、進むんだ、絶対に。
『安方サン、絶対ものにするスよ』
「うん、絶対」
通話を切り、大きく息を吸って、吐いて、膝に走る震えを小さく足踏みして逃がす。誰かに話したくて仕方がなかった。私が、私の結果を残せるかもしれないと。
駆けるようにリビングに戻ると、振り返ったシオネとリリシアが目を丸くする。
「サ、サヤカさん? 大丈夫ですか?」
「……なにがあったの」
「え、あ」
そうだった。目頭を拭うと、指先が濡れる。きっと鼻も赤くなっている。何事かと思わせてしまった。
「ちが、違うの、いい報せなの」
駆け寄ってきてくれた二人を手で制し、もう一度深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。全部話してしまいたかったが、あまり詳しく話すことも出来ない。頭を整理して、言葉を探す。
「まだ確定じゃないけど、もしかするとイラストの仕事を貰えるかもしれないって」
「えっ、本当ですか!?」
「マジで? やったじゃん」
「今度先方と会って話して、その結果次第だと思うから、どうなるかわからないけど」
「わあぁ……頑張ってください、サヤカさんなら平気ですよ!」
「通ったらお祝いしなきゃじゃん。私らの専属イラストレーターが、プロデビューするかもしれないわけだし」
二人とも口々に祝福と、応援をくれる。まだ決まったわけじゃない、という一抹の不安が、きっと大丈夫という安心に塗り替わっていく。いつの間に私の周りには、こんなにたくさん味方がいてくれてたのだろう。
それに、そうだ。一番このことを伝えたい相手は。隣に並びたいって思わせてくれた、その人は。そばにいるのは、二人だけだった。
「……アルエ?」
部屋を見回せば、すぐに見つかった。アルエは、リビングにの真ん中でひとり、ぽつんと立ち尽くしている。
「ねえ、アルエも聞いて、あのね」
「なに、それ」
ぽつんと立ち尽くし、飛び出さんばかりに目を瞠り、唇を震わせていた。
「なんで、そんな話するの」
アルエの瞳に、星の輝きは見つけられなかった。
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