第2話

「無理無理無理無理、もう無理です、ダメです。私は死にます、探さないでください」


『あの、ムリなのはわかったスから、ちょっと落ち着いてほしいスよ安方サン。嬉しくて死んじゃう、のテンションじゃないスよねそれ』


「違うの、絶望で死にそうなの!」


『まーた情緒ぶっ壊れてるスね……』


 あきれ半分の声が、スピーカーから聞こえてくる。声の主は、画面に映ったビデオチャット越しに、ツーブロックヘアの剃りこみを指先で掻きながら、短い眉を困惑に寄せていた。


「だって、だって、うううぅううぅ。私、どうしたらいいか……」


『ああもう、大丈夫スよ、ちゃんと聞いてますから。びっくりしちゃったんスよね。安方サンのこじらせっぷりは、よく知ってるスから』


「真央ぉ……」


 優しくなだめてくれる真央に、思わず視界が滲むのを止められない。


 真央は学生時代の後輩であり、今ではゲーム業界で3Dグラフィッカーとして活躍している、私の一番の親友だ。パープルルージュにシルバーピアスなんていう、いつまでたっても野暮ったい私とは真逆の、強そうなファッションに身を固める真央だが、性根は筋金入りのオタクで、昔からなにかと気が合ってよく一緒に遊んでもらっていたものだ。さらに言えば、私にデビュー配信を控えていたアルエの存在を教えてくれた、キューピッドでもある。


 そんな、今でもこうして頻繁に話し相手になってくれる真央に、一方的に感情を吐き出して困らせているのは心底申し訳ないが、あいにく私の心持はそれどころではなかった。


『でもほら、少しは喜んでもいいんじゃないスか? だって推しに、自分が描いたイラストを紹介してもらえたわけスから』


「無理、そんなのダメ、あっちゃいけないんだから」


 だって私は。


「私なんかが推しに認知なんて、されていいわけがない……!」


 私は、推しに認知されたくないオタクだから。


『はい……そうスね。知ってるス。百億回聞いたス』


「アルエはかわいくて優しくて元気な、太陽みたいな存在なのに、そんなアルエの視界に、私みたいな汚物が入り込むなんて、許されない」


『推しが喜んでくれてたんなら、素直に受け止めればいいのに』


 なんと言われようと、無理なものは無理なのだ。


 自分の存在価値くらい、自分が一番わきまえている。昔からなにをやっても愚図で、画面の見過ぎでメガネが手放せなくて。人と話すのも苦手なら、すぐに後悔や未練をうじうじと渦巻かせる意気地なしで、人に自慢できる資格も技能もなにもない、好きなものを語るのだけは一丁前な、掃いて捨てるほどいる凡百のオタク女。それ以下。社会の汚濁みたいなものだ。


 そんな私を認知なんてしようものなら、至上の存在である鳥羽アルエの汚点になってしまう。自分の存在がアルエを汚してしまうなんて、許されるはずがない。


「ほんとに、私みたいなゴミに触れたりしたらダメ、絶対だめ」


『そこまで言う。いや、とかなんとか言ってるスけど、安方サン普通に絵上手じゃないスか。さっきの配信も観てたスけど、紹介されたイラストだってめちゃめちゃアルエっぽさ出てて、アタシは好きスよ。喜んでもらえたんだから、そんな卑屈になることないスよ』


「ただの下手の横好きだよ、あれくらい描ける人いくらでもいるし」


『安方サン』


 真央の目が、ちょっとだけ吊り上がった。


『それ、ほんと外で言っちゃだめスからね』


「う……」


『安方サン、絵描くのは?』


「好き、です。ちゃんと勉強も練習もしました」


『はい、よろしい。アタシが好きなもののこと、あんまり否定しないでほしいス』


 確かに、絵を描くのは好きだ。アマチュア趣味の手慰みではあるけれど、アニメや漫画やゲームに、そして推しのかわいさにあふれた感情をぶつけるのに、イラストはもってこいなのだ。自分の好きを形にして、こっそりSNSに投稿して、ごくごく稀に同じ好きを持つ人と共有もできる。


 アルエに出会って、イラスト趣味はさらに加速した。私なんかの画力じゃ、そのかわいさの万分の一も再現できないとしても、それでも衝動は止められない。少しでも推しへの想いを昇華したくて、教材を買ったり、通信講座を取ってみたり、16万もする有名メーカーの液タブだって、左手ツールと一緒に買ってしまったり。


 趣味は趣味なりに、誠実に取り組んできたつもりだ。


「わかっては、いるんだけど」


 けれども所詮は素人の横好きに過ぎない、知名度なんて欠片もないインターネットお絵描き女の端くれ。本職のプロなんかには遠く及ばない、オタクの妄想をぶつけただけの代物だ。アルエに見てもらって褒めてもらうなんて、おこがましいにもほどがある。


『だいたいそんなこと言ったら、普段からコメント読まれてる人とかイラスト紹介されてる人はどうなるんスか』


「そ、それはいいの! コメントは配信を盛り上げてくれるし、SNSのイラストタグだって、かわいいアルエがいっぱい見れるし……あれ?」


 そうだ。そもそもなんで、アルエは私の描いたイラストを捕捉できたのだろうか。SNSに投稿するときは、タグもコメントも、一切付けていなかったっていうのに。他の人のイラストから関連付けされてしまうほど、同じ界隈で拡散されているようなこともないはずなのに。


『安方サン?』


「待って、もしかしてアルエって、イラストタグだけ巡回してるわけじゃない? ど、どうやってエゴサしたのかわからないけど、もしかして今までの他のイラストも全部見られてた……?」


 どうして今まで気付かなかったのだろう。考えればすぐにわかることだったのに。問題はそれだけじゃない。


『ちょ、安方サン? あんまり思い詰めちゃだめスよ? 安方サン?』


「だ、だってあのアカウント、たまにほんとにくだらない愚痴とか、しょうもないことも呟いてて……」


 私の心底どうしようもない日常や、くだらない人間っぷりが、一切合切アルエの目に触れてしまっていたとしたら。


「無理、無理無理無理、ほんとにダメ。やっぱり消えます。っていうか消します」


『ちょ、なにをスか!?』


「イラストアカウント削除するの。むしろインターネットから消える。っていうかもう私なんかがイラスト描いて投稿してるのが間違いだったんだ」


『だめスよなに言ってるんスか! そんなことしたら……ああもう、だからやめとけって言ったのに! 安方サン、安方サン!』


 優しい真央の制止を振り切るように、なにも言わずにビデオチャットを終了する。今までだったら、その優しさに縋り付いてだらだらと絵を描いてしまっていたかもしれない。けれど今回の一件は、いい機会だ。もうこれ以上、私みたいな人間の老廃物をネットに垂れ流すのは、おしまいにするべきだ。そのきっかけを、アルエがくれた。


 やっぱり私の推しは最高で。だから私は、これ以上なにかの間違いで近づくようなことがあってはならない。


 SNSの管理ページを立ち上げて、アカウント削除のボタンにカーソルを合わせる。一度クリックすると、確認画面が現れる。ここでイエスを押せば。もうあと一押しだというのに、やっぱり私は未練がましくて、指先はなかなか動こうとしない。


 ええい。


「この、」


 エンターキーに叩きつけようとして振り上げたこぶしは、しかし、


「だめえええええええええええええええええ!!!」


 背後からの声に阻まれ、振り下ろされることはなかった。


「え、な、なに!?」


 振り返って、私は今度こそ固まることになる。身体も、思考も、呼吸すら止まったまま、私は目の前にいる声の主を、ただ見つめることしかできない。


 金の髪に碧い目をした、二次元の世界から飛び出してきたような出で立ちの、鳥羽アルエの姿を。

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