第3話

 パソコンデスクの椅子に座っている私の目の前に、私の推しがいる。推しの、鳥羽アルエがいる。


 いやいやいやいやいや。そんなことがあるわけがない。だってアルエは、Vtuberだ。3Dグラフィックのアバターと、カメラと紐づいたモーションキャプチャソフトによって、コンピュータの中だけの肉体を得た配信者たち。中の人の存在はともかくとして、パソコンモニタの外に立って存在していられるはずがない。


 はずがないのに。


「待って、待って! ね、消しちゃだめだよ。そのアカウント、すっごく素敵なイラストがいっぱいあるのに、消しちゃうなんてもったいなさすぎるよ! っていうか、絵描くの辞めるなんて言わないで、わたしサヤカのイラスト大好きなのにっ!」


 確かにアルエは、そこにいる。ぎゅっと握ったこぶしを胸の前で振りながら、ネットの世界から消えようとする私を、必死に押し止めようとしている。碧い目が、私を見ている。


「あれ?」


「ッ!」


 突然顔の前で手を振られ、私の身体はばねのように跳ね上がって、足をもつれさせ、傍らのベッドに転がり落ちる。


「え、え、うそっ」


 私を跳ね上げさせた張本人はと言えば、みっともなく腰を抜かした私の姿に、どうしてか丸い目をさらにまん丸にして、その瞳にきらきらと星を瞬かせはじめる。


「もしかして、わたしのこと見えてるの!?」


「は」


「見えてるよね、わたしの声聞こえてるよねっ! やったーっ! やっとサヤカがわたしのこと見てくれたっ! もうずっとずーっとお話できるの待ってたんだよっ!」


 途端に頬を紅潮させたアルエらしき少女は、興奮のままにずいと顔を寄せてきて、近い近い近い近い!


「ね、ね、ずっとわたしの配信見ててくれたし、わたしのファンアートも描いてくれてたよね! いつかお礼を言える日が来たら、絶対にいっぱいいーっぱいありがとうって言おうって決めてたんだよ! なのにサヤカってば、全部消そうとしちゃうんだもん。そんなのだめーって思ったけど、こうしてお話できるようになるなんて思わなかった! それにわたし、他にもサヤカとお話したいことたくさんあるんだよ! ねえ、大丈夫? 聞いてる、サヤカ?」


 まくし立てながら胸の下で腕を組んで、また更に顔を寄せられて。


「サヤカ? 見えてる……んだよね?」


 見えてるかって? そんなの。


「見えてない!」


「えー!?」


 両手で視界をふさいで、断言する。目の前には誰もいない、いないったらいない。


「見えてない見えてない聞こえてもいない! いくら私が限界強火鳥羽アルエオタクだからって、幻覚なんて見え始めたら本当にもう終わりだよ! 夢! これは夢です!」


「違うよ幻覚じゃないよ! わたしはここにいるもん! ほらほら、はろーっ! ネットの世界からみんなに"楽しい"をお届けする、非実在ストリーマーの鳥羽アルエだよーっ!」


「非実在ストリーマーが実在してるわけないでしょいい加減にして!」


「あー! ひっどい、そんな言い方しなくてもいいじゃん!」


 ちょっと怒ったような声まで私の知っているアルエそのもので、きっと頬を膨らませているんだって、見なくてもわかる。なんて克明にイメージできてしまうのがますます居た堪れなくて、私は萎れるようにベッドの上でうずくまった。だってそんなの、あまりに罪深い。


「鳥羽アルエが私の部屋に現れるなんて妄想、それだけでも許しがたいのに、幻覚を見て会話してる気になってるなんて、アルエに申し訳がなさすぎる」


「だーかーらー! わたしがその鳥羽アルエだってば!」


「脳内幻覚がアルエを名乗らないで!」


「もおおおー! サヤカのわからず屋! こうなったら……」


 ぎし、と椅子の軋む音。カチカチとマウスをクリックする音。耳に届いた音に、思わず顔を上げる。待って待って待って、なんで幻覚のくせにパソコン操作なんてしてるの。


「え、なに、なにするつもり?」


「わたしがアルエだって、パパに証明してもらうの!」


「へ!? パパ!?」


 アルエの姿でなにいかがわしいことを口走っているんだ、と思いかけ、慌てて首を振る。違う違う、そうじゃない。Vtuber界隈でパパと言えば、アバターのモデル、アルエで言えば3Dモデルの肉体を作成した人のことだ。


 けれど、証明してもらうもなにも、アルエのパパも、ついでにキャラデザインを手がけたママの存在も公表されていない。


 いったい何をするつもりなのか。アルエの幻覚は、戸惑う私に構いもせずにビデオチャットアプリを立ち上げると、誰かをコールし始める。程なくして画面に映し出されたのは、あろうことか、ついさっき通話を切り上げたばかりの真央の姿だった。


『おわ、安方サン。よかった、もっかいコールするか、いっそ電話しちゃうか迷ってたんスよ。まだ全部消しちゃったりしてないスよね? 一回落ち着いて、ちょっと話しません? いまからでも……』


「マオ、聞いてっ! とうとうサヤカとお話できたのっ!」


 気づかわしげな真央の言葉をさえぎって、アルエの幻覚が身を乗り出す。でもそんなことをしたって、私が見ている幻がカメラに映るわけが……。


『あれ、アルエじゃないスか。え、安方サンとコンタクトしちゃったスか!?』


 どうして、真央まで、幻覚相手に普通に対応してるの!


「うんっ! サヤカがイラストアカウント消そうとするから、必死で止めようとしたら、やっとわたしのこと見てくれたんだよっ!」


『あー……やっぱり消そうとしてたスね。ったくもう、絶対めんどうなことになるからやめとけって、アタシ言ったスよね?』


「う、だ、だって~……」


『強引なんスよやり方が。で、安方サンはどうしてるスか?』


「いまはね、後ろにいるよ」


 碧い瞳がこちらに振り返り、私はまたひとつ肩を跳ね上げる。これ、いったいどういう状況なの。


『代われるスか? 安方サンも混乱してるスよね。ちょい話させてほしいス』


 真央がそう言うと、アルエの幻覚が私を手招きする。


 ど、どうしよう。目の前で起きていることのなにもかもが飲み込めなくて、身体が動かない。このアルエらしき少女は、幻覚じゃないの? なんで真央は、この子をアルエだと認識して、さも当たり前のように会話しているの?


 頭の中に湧き出るのは疑問符ばかりで、答えの欠片もヒントも姿を現してはくれない。焦れたアルエの幻覚にもう一度手招きされ、私はようやく、恐る恐る腰を上げる。幻覚と入れ替わるように椅子に腰を下ろし、カメラの前に座った。


「あの、真央? いったいどういうことなの。これ、なにが起きてるの。なんで私の見てるアルエの幻覚と、真央が普通におしゃべりしてるの? それともこれ、やっぱり全部夢? 真央も私の見てる幻覚ってこと?」


 脳内で渦を巻いて吹き荒れる疑問が、堰を切って口からあふれ出る。捲し立てる私に、真央は気まずそうに頬を掻いて目を逸らした。


『ん、安方サン、スよね? いろいろ込み入ってて説明が難しいんスけど、とりあえず夢ではないス。アタシは中里真央本人だし、どんな風に見えてるのか分かんないスけど、アルエがそこにいるなら、それは鳥羽アルエ本人なんスよ』


 ますますわからない。鳥羽アルエ本人がそこにいるって、どうしてそうなるの。


「意味が分かんない……頭痛くなりそう……」


『あー、そうスよね。混乱、してるスもんね。モニタ越しじゃちょい話しにくいな。安方サン、直接会って話しません?』


 もうすぐ日付が変わろうとしていたが、そんなことを気にするよりも先に、私は首が取れそうなほど何度も頷いて答える。


 会いたい。なにが現実でなにが幻なのかも判然としないいま、真央に直接会って、その手を握りたくて仕方がなかった。

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