第15話
熱いシャワーを頭から浴びると、今日一日緊張に強張っていた肩や背中が温められ、筋肉がほぐされていくのを感じ取れる。ずっと乗っかっていた重い荷物を、ようやく降ろせたような心地だ。いや、実際のところは、まだなにも降ろせてはいない。お気持ち長文ブログという火種は燻ったままで、なにか少しでも間違えれば、すぐさま火の手を噴き上げることだろう。
けれどひとまず、火種を吹き飛ばすための準備は進んだ。【ふりーくしょっと!】の二人の協力も得られた。燃え上ってからアルエが謝罪をする、などという最悪のシナリオは、いまのところ回避できそうだ。
ちなみにだが、アルエとの邂逅依頼、すっかりチェックするのを忘れていた私のSNSアカウントは、久しぶりに覗いてみると笑ってしまうほどフォロワー数が増えていた。ほとんどが例のブログが公開された後で増えたフォロワーだ。『配信で晒されたことにコメントはないんですか』『あのブログあなたが書いたんじゃないんですか』なんてコメントまで来ていて、一層おかしくなってしまう。結局、このアカウントを一番晒してくれたのは、他でもないあのお気持ちブログだったわけである。
バスチェアに腰を下ろし、全身をくまなくお湯で温めていく。頭を洗うと乾かすのが面倒だが、サボるわけにもいかない。まだこの後、やらなければいけないことも残っているし、手早く済ましてしまわなければ。
シャワーを止め、シャンプーを取ろうと鏡台に手を伸ばし、「へ?」私は凍り付いた。
鏡に、私のものではない白い裸体が、私の背後に立っていて。
「サーヤカっ! お背中ながすよっ!」
「きゃあああああぁあぁッ!?」
転がるように飛び退いて、床に尻を、湯船に背中をぶつけて、あちこち痛いけれどそれどころではなくて、だって目の前に、知らない女とか長髪黒髪の亡霊とかじゃなくて、一糸纏わぬ姿の推しがいたら私はどうすればいいんですか!?
「だ、大丈夫っ? っていうか、そんな悲鳴上げることないじゃんっ!」
心配したり頬を膨らませたりと忙しないアルエは死ぬほどかわいいが、かわいさより先に爆動する心臓で死にそうです。
「待ってだって、なん、なんでいるの! わあああほんとに待って待ってダメ見えちゃうから見えてるから!」
「えー、わたしは全然気にしないよっ! 女の子同士だし、サヤカはわたしのママだもん!」
そうかもしれないけれど! まかり間違っても私はもう女の子なんていう歳じゃないし、ママかもしれないけどそれ以前にアルエは私の推しであって!
崇め奉る推しの裸体を見てしまうなど到底許されざるという、拗らせた限界オタクの繊細な心なんてアルエに通じるはずもなかった。あわあわと二の句が継げずにいる私は、本当になにも気にした様子のない、胸のひとつも隠そうとすらしないアルエにさっさと引っ張り起こされ、鏡のほうを向いてバスチェアに座りなおさせられてしまう。アルエはと言えば、鼻歌を歌いながらタオルにボディソープを泡立てている。まさか、本気で私の背中を洗おうと……?
「ア、アルエ、本当にどうしたの? いつもシャワーは別々にしてたのに」
このままではなにか大変よろしくないことになってしまう。戦々恐々とする私に、アルエは「んふふ」と含み笑いを漏らす。
「前からサヤカと一緒にお風呂入りたいな~って思ってただけだよ? ほら、親睦を深めるのには裸の付き合いって言うじゃんっ」
ひぃぃんっ! 言いながらふわふわしたスポンジが背中を撫でていく……ッ! いけないこれ以上は本当になにかがおかしくなる!
「それに」
とん、と。スポンジでも手でもない、少し硬い感触が背中に当たる。さらさらとした金糸の触感が、もどかしくうなじを撫でる。
「アルエ?」
「サヤカにお礼がしたかったんだ。今回のこと、ううん、それだけじゃなくて、いつもいつも、本当にありがとうって」
「私は、別に何も……」
「そんなことないよっ」
背中に当たっていた額が離れ、入れ替わるようにしがみついてきた暖かな感触に、私は息を詰まらせる。両の肩口から回された、白くほっそりとした腕。肩に乗っかった顎と、頬を撫でる金の髪。背中には、柔らかなぬくもりがぴったりと張り付いている。
「わたし、いままでずっと、サヤカに迷惑かけてばっかりだった。サヤカの気持ちも考えないで、自分の気持ちばっかりでサヤカのイラスト紹介したり、【ふりーくしょっと!】のみんなに引き合わせたり。そのせいで今みたいなことになったり。それなのにサヤカは、いつでもわたしのこと見てくれて、わたしのこと考えてくれてたっ」
声は少しだけ震えて、お風呂場の湯気とは違う湿り気を帯びている。
「それに……最初からずっと、わたしのことに気付く前からずっと、サヤカはわたしを応援してくれてた。だから、ね」
ありがとう。
思えば、そもそもアルエが私の前に姿を現したのも、ただそれを伝えるためだったんじゃないか。あまりにいろんなことが起きすぎて、すっかり忘れていたけど。
「当り前だよ。だってアルエは、私の一番の推しだから。私にできることなら、なんだってするよ」
それに、もう理由はそれだけじゃない。
「私だって、アルエに恩返しがしたかったし」
「……? わたし、サヤカになにかしたっけ」
「たくさん、いろんなものをくれたよっ!」
いつもひとりのファンとして観ていた楽しい配信、ばかりではない。
「アルエが来てくれてから……ってまあ、私が気付かなかっただけでずっと一緒だったんだけど。ともかく、こうして話せるようになってから、いままでしたこともない体験ばっかりさせてもらってるもの。配信の裏側を見せてもらったり、シオネやリリシアに挨拶させてもらったり。そりゃあ、最初はびっくりしてばっかりだったけど、でも、楽しいことばっかりだった」
この炎上騒ぎだって、初体験といえば初体験だ。こんな風に気の許せる仲間と、降って湧いた問題にみんなで取り掛かるなんて、学生時代にも経験しなかった。仕事場では日常茶飯事な気もするが、あそこに仲間と呼べる相手はいない。さすがに不謹慎だから口にはしないが、自分も解決への一助に慣れそうなことに、少しわくわくしてしまっていることは否定できない。
「だからアルエも、いつもありがとう」
「…………えへへへへぇ」
わあ。いままで見たことのないふやけた顔をしている。これは表にはお出しできないやつだ。
「じゃあわたしたち、両想いだねっ」
「へぁぇっ!? そそそ、そうなるっ!?」
「サヤカがわたしのこと大好きなのは知ってたけど」「あの、アルエさん!?」「そこまで思ってくれてたなんてな~っ! あ、前も洗うねっ!」「待って待ってお願い前は自分でひゃぁっ!」
それから。
どうにかあっちこっち身体の敏感なところを洗われる前にスポンジを取り返したり、自分も洗ってくれ、なんていうアルエの身体を震えながら洗ったり。湯船にお湯を張っていなくて本当に良かった。あのままの流れだったら、確実に一緒に入ろうとか言いだしていただろう。一人暮らし用マンションの風呂の湯船がそんなに大きいはずがない。どれだけ密着すれば二人で入れるというのか。もうただでさえ心臓が限界に近いというのに!
さておき。
お気持ちブログ問題への打開策の仕込みは、おおよそ整った。私もアルエも、シオネとリリシアも、そして真央の準備も。果たして私の作戦が、事態をどの方向に転がすかは、やってみなければわからない。
ただひとつだけ確かなのは、この作戦を実行に移せば、なにかが大きく変わるということだけだ。私にとっても、私以外の全員にとっても。
***
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