第13話

 ふううぅ……。


 ビデオチャットの画面が閉じると、こわばった肩と肺から一挙に力が抜け落ちる。き、緊張した。誰かのむき出しの感情を、カメラ越しとはいえ真正面から浴びせられるなんて、久しくなかった経験だ。


 とはいえ致し方ない。今回は私とアルエの事情に、二人を巻き添えにしてしまった形だ。どう謝っても償いにはならない。とにかく早期に、まかり間違ってもシオネとリリシアに類が及ばないように鎮火しなければ。


「安方サン、大丈夫スか?」


 一連の騒ぎを後ろで見ていた真央が、案ずるように顔を覗き込んでくる。


「どうにかする、って言ってたスけど、どうするつもりスか?」


 どうするつもりかって? そんなのもちろん……。


「どうしようどうしよう……っ! 大見得切っちゃったけどどうすればいいのかなんてさっぱりわかんないよっ!」


「え、なんか算段があって言ってたんじゃないスか!?」


「ないよそんなのーっ! 炎上なんてしたことないし、ただもうさっきは、私のせいでギスギスしてるみんなを見てられなくて……」


 そうだ。見ていられなかった、その一番の相手は。


「アルエ……」


 アルエは、私の中に同居する、私の最推しのVtuberは、普段の快活さをどこへ失くしてしまったのか、ベッドの隅で膝を抱え、顔を俯かせて肩を縮こまらせている。虚空を見つめる視線は焦点が合わず、血の気の引いた顔には、まるで覇気が感じられない。


「ごめんなさい……ごめんなさい、わたし、そんなつもりじゃなくて……」


 袋に空いた穴からこぼれ落ちるように、ぽろぽろと繰り返される謝罪の言葉は、きっとどこにも届いていない。


「アルエ、落ち着いて。こっちを見て」


 刺激しないようにそっとベッドに乗って、アルエの頬に手を伸ばす。できるだけ優しく触れたつもりだったが、それでもアルエの肩はびくりと跳ね上がった。怯え潤んだ瞳が、ためらいながら私を見ている。


「ごめんなさい、サヤカ……わたし、タグが付いてるとかついてないとか、全然そんなこと考えてなくて……あんな風に、思ってたとか」


「待って待ってお願い、聞いてアルエ。私は、あのブログみたいなことなんて」


「でも言ってたよ! 推しに認知されたくないって!」


「それ、は」


 言った。それは確かに、私の言葉だ。


 推しに認知されるのなんて耐えられない。いつだって表になんか出ないように、ひっそりと人目に付かないように推していたし、イラストを投稿したSNSだって、フォロー二人、フォロワー数一桁の壁打ち用アカウントだ。私みたいな陰キャで、なにをやっても中途半端で、自分の夢もまっすぐに追いかけられなかったような、臆病で軟弱で、情けない人間が、推しに認知されるようなことがあってはいけないって、そう思ってたし、いまだってそう考えている自分がいる。


 だからこそ、あのブログ主の気持ちは、理解できる。


「わたし、サヤカがわたしのことを推しだって言ってくれてたし、サヤカが描いてくれるイラストが好きだったから、みんなにも見てほしいって思って……それが、サヤカが、みんなが嫌がることだなんて、全然想像してなかった」


「違うの、私はただ、」


 汚点だらけの自分なんかで、推しの世界を穢しちゃいけない? アルエには、もっと明るく輝くものだけ見ていてほしい?


 そうじゃない。私はただ。


「恥ずかしかっただけ」


 情けない自分なんかを見られるのが、恥ずかしかっただけだ。


「私は自分に自信がないから、アルエに見られるのが恥ずかしかっただけなの。確かに、いきなりアルエに配信で取り上げられたのはびっくりしたし、もうちょっと段取りって言うか、心の準備させてほしかったとは思うけど、それだけだから! 私はアルエに怒ってなんかないの!」


「怒ってるじゃん……」


「怒ってない! 私が認知されたくなかったのは私の問題なんだから、怒ったりなんかしない!」


「怒ってるってば! 怒られるようなことしちゃったんだもん!」


 アルエのわからず屋! 私は怒ってなんかない。驚きはしたし、自分なんか恥ずかしくってアルエの前に出られるわけがないって思ってたけど、だからと言ってアルエを責めたりなんかしない。そう言ってるのに、どうしてこんなに頑固なの!


「私は、」


「安方サン」


 ぽん、と。優しい手で肩を叩かれ振り返ると、真央が目を細め、苦笑いのような、慈しむような笑みを浮かべていた。


「真央……?」


「安方サンは、怒ってるスよ」


「だから、怒ってなんて」


「怒ってるし、怒っていいスよ。だってアルエのやり方、強引だったスもん。あんまり自分の感情に頑固にならない方がいいスよ」


 すとん、と。胸の中で燻って、頭の中をかき乱していた感情が、収まるべき所に収まった。


 なるほど、私は怒ってたんだ。ここ数日、私の身に立て続けに起きた、想像を超える出来事の数々。平々凡々と繰り返されていた毎日を引っ掻き回す、常識外れのイベントたち。極めつけにこの騒ぎだ。突然こんな騒動の真っただ中に連れ出されて、結局のところ私は、怒っていたらしい。


 笑ってしまう。真央に言われるまで、自分の感情さえ理解できていなかっただなんて。


「そっか、私、怒ってたんだ」


「お、やっと認めたスね。もー、安方サンは昔から、一度自分を抑え込もうとすると頑固になるスからね」


「う……毎度ご迷惑をおかけして……」


 あはは、と真央は笑って首を振った。


「安方サンのそういうところも好きスから。けど今は、とりあえずアルエを叱ってあげてほしいス」


 わかってる。私はまず、アルエを叱らなくてはいけない。彼女の行動が軽率だったのは、間違いないから。改めてアルエに向き直ると、こちらを見上げる彼女の顔色は、先ほどより少しは血の気が戻って明るくなっている気がする。


「さっきも言ったけど、配信でイラストが紹介されたこと、私は心の準備ができてなかったから、すごく驚いた。突然あんな風に引っ張り出すんじゃなくて、先に事情を説明してほしかった。私があなたを認識できていなかったから、難しかったのかもしれないのはわかるけど」


「うん……ほんとにごめんなさい」


「アルエはすごく有名人だから、不用意なことをすると今回みたいな騒ぎになりかねないことも、理解できたよね」


 アルエは頷いた。素直な子だから、自分が取った行動の思わぬ余波に、きっと心底打ちのめされて、十分に反省してくれているだろう。


「ならよし!」


「えぇっ!? よ、よくないよ!」


「いいの! 当事者の私がいいって言ってるんだから! もともとタグの付いてるイラストだけ紹介しようって意識はあったんだし、今回は事情が特殊だっただけ!」


「でもでもっ、ブログの人とか、コメント付けてた人とか、みんなすっごい怒ってたし……っていうかやっぱりサヤカもまだ怒ってない!?」


「そりゃ怒ってるよっ!」


 当然だ。怒るに決まっている。私はいつも自分の意見をはっきり言うのが苦手で、人目を気にして委縮してしまって、人見知りで意気地なしだけれど、怒るときは怒る。だって。


「だって、私に起きたことに便乗して、アルエを炎上させようとするなんて、怒るに決まってる!」


 確かに発端になったのはアルエの軽率な行動であり、ファンにいらない心配をかけさせてしまったことは事実だが、それはそれだ。よりにもよってこの自他ともに認める限界Vオタアルエオタクの私をダシにして、お気持ち長文ブログで火を付けようとするなんて、これが怒らずにいられるだろうか!


「突っ込まれる隙を作っちゃったのはアルエの落ち度だとしても、わざわざ粗を探して炎上させようとしてなきゃ、あんなブログ出てこないよ! それに推しに認知されたくない気持ちが本当だったとしても、まずもってそのやり玉に挙がった張本人は私でしょうが! その私を無視して、まるで自分が被害者みたいにお気持ち表明されて、怒らずにいられる!?」


 ぜい、ぜい。思わず一息に吐き出してしまった。感情が昂ると饒舌になるオタクの悪いところだ。


 とはいえ吐き出したのは、れっきとした私の本心だ。推しが気に食わなくなったのなら、そっと離れればいい。改善してほしいなら忠言すればいい。直接言いに来るでもなく、匿名で一方的に悪し様に書き捨てて、賛同者が場を荒らすように仕向けるなんて、はっきり言って卑怯だ。


 深呼吸をする私にアルエは、なにか始めて出会った生き物を見つめるように、丸い目を向けていた。


「……なんで、そこまで怒ってくれるの?」


 私は首を傾げる。アルエの疑問の意味が本当に分からなかったから。


「なんで、って……?」


「だ、だって、わたしはサヤカを傷つけるようなことをしちゃったし、わたしたちのイラストレーターになってって話も、乗り気じゃなかったし」


「関係ないよ。だってアルエは、私が大好きな一番の推しVtuberで、私と真央の大事な娘なんだから。ね、真央?」


 顔を向けると、真央も当然とばかりに頷いてくれる。その表情はどこか嬉しそうだ。


「もちろん。安方サンはアルエのママだし、アタシはパパなんスからね。言っとくと、アタシも結構腹立ってるスから。協力できることはなんでもするスよ」


 真央の力も貸してもらえるなら、こんなに心強いことはない。


 しかし……この炎上騒ぎをどう決着させるかは、いまだ問題のままだ。どうにか解決策を打ち出さなければ、シオネたちとの仲を取り持つことさえできない。


 ああもう、私はアルエのママだっていうのに、その私が足を引っ張ってるんじゃ……。


「あ、そっか」


 なにを悩んでいたのだろう。私はアルエのママなんじゃないか。


「なにか思いついたスか?」


「上手くいくかどうかはわからないけど……アルエ、まずはシオネとリリシアに連絡しよう。もう一回会って、きちんと話さなきゃ」


「う、うん、わかったっ!」


 よーし、気合を入れろ安方沙也加。私はアルエのママなのだ。推しにして大事な娘のために、回せるだけ頭を回せ!


 決意も新たに握っていた拳に、白い手が重ねられる。顔を上げると、輝きを取り戻し始めた碧い瞳が、私を見上げていた。


「サヤカ……ごめんね、わたしのせいで、こんなことに巻き込んじゃって」


「気にしないで。アルエは私の……ううん、私はアルエが大好きだし、いつだって絶対アルエの味方だから」


 涙交じりの笑顔で頷いたアルエに、もう一度決心する。絶対に、彼女のことを守らなければ、と。

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