2-8 怖いに打ち勝つ方法

「……拓人くん、エトワールさん、あたし」


 微かに震えた声を漏らしながら、結衣子は拓人とエトワールを見つめる。瞳は潤んでいて、気を抜いたら俯いてしまいそうで。

 だけど必死に堪えながら、結衣子は言葉を零す。


「誰かを応援するのが、怖いの」


 零れ落ちた声はあまりにも弱々しいものだった。

 でも確かに拓人の耳に届いて、隣でエトワールも頷いている。

 心の中を蝕んでいる大きな傷があって、それを受け止めてくれる人が目の前にいる――きっかけなんて、ただそれだけで良かった。


「あたしが誰かを応援すると、その人が失敗してしまうの」


 少しずつ、結衣子は本音を漏らし始める。

 それは、結衣子が中学生の時のことだった。


 学校のテストや、運動部の試合。片思いや、友達や家族などの人間関係。

友達が多かった結衣子は何かと応援することが多かった。しかしその度に失敗したり、怪我をしたり、振られてしまったり。

 必ずと言って良いほど散々な結果になってしまっていた。


 そのことを気にしているのは自分だけかも知れない。

 でも、結衣子はどうしても「あたしが応援したら駄目なんだ」と思い込んでしまっていた。そこから人との距離感がわからなくなってしまい、今の結衣子の性格が出来上がったのだという。


「深月はあたしにとって誇れる存在だし、応援したいって思ってる。……自分が応援すると失敗するなんて、ただのトラウマだってことも本当は理解しているの。だけど……自分のせいで大切な家族が失敗したらどうしようって思うと、やっぱり踏み出せない」


 小さく「ごめんなさい」と囁いて、結衣子はまた俯いてしまう。

 きっと、あと一歩なのだろうと思った。拓人とエトワールと向き合って、本音を漏らして、トラウマだとも理解して……。

 そこから「怖い」に打ち勝つ方法は、いったい何があるのだろう。

 まっすぐ結衣子を見つめながらも上手く言葉が出てこない自分が情けなかった。


「結衣子ちゃん」


 そんな中、結衣子の方にポンと手を置いたのはエトワールだった。


「結衣子ちゃんはきっと、怖いっていう気持ちが大きすぎると思うんだ。もっと別の感情に目を向けてみるのが良いと思うよ」

「別の感情……?」

「そう。例えばこんな、ね」


 言って、エトワールはウインクを放つ。

 その瞬間、辺り一面が暗闇に包まれた。『幻想』だと気付いた時には、ふわりと身体が宙に浮く。例え二度目だとしても慣れない感覚で、拓人は瞬く瞳を結衣子に向けてしまう。結衣子もまた、戸惑いを露わに見つめ返していた。



『姉ちゃん、俺……やってみたいことがあってね』


 やがて見えた光景は、雨夜家のリビングだった。

 外ハネショートヘアーの結衣子と、結衣子の手を握る坊ちゃん刈りの男の子がいる。今とだいぶ雰囲気が違うが、幼稚園の頃の深月なのだろう。


『なぁに? お姉ちゃんが聞いてあげる!』

『あのね……ピアノ、やってみたい』

『ピアノ?』

『うん。俺、涼子りょうこ先生が好きで、だからお歌の時間が好きで……。だから俺も、ピアノができるようになりたい!』


 幼い深月の言う「涼子先生」とはつまり、歌の時間にピアノを弾いている先生なのだろう。もしかしたら、彼の初恋の人なのかも知れない。


『えー、凄い! 深月かっこいーじゃん!』

『でも……皆、男の子なのにピアノは変って言うんだ』

『そんなことないよー。お姉ちゃんがかっこいーって言うんだからかっこいーんだよ! 結衣子、深月のこと応援してる。頑張れ深月っ!』


 両手でガッツポーズをしながら、結衣子は満面の笑みを浮かべる。拓人が好きだった、片えくぼが覗く優しい微笑み。

 だけど、


『そっか。……そうだよね。ありがとう姉ちゃん! 俺、お母さんにやってみたいって言ってみるね!』


 結衣子に負けないくらい、深月の笑顔も輝いていた。

 さっきまでのハの字眉毛はどこへやら。琥珀色の瞳は見つけたばかりの夢へと向かってまっすぐ伸びていて、誰にも触れられないくらいに眩しい。

 まだ幼稚園児なのに。小さな身体なのに。

 深月の姿は希望の光で満ちていた。



「…………」


 そんな幼い二人のやり取りを、結衣子はただ黙って見つめていた。

 きっとこれは、結衣子の記憶に強く残っている思い出なのだろう。

 高校生になった今とは違う、初々しい二人の姿。だけど確かに深月にとっては大きな一歩を踏み出したシーンであり、その時の表情を結衣子もずっと覚えているのだろう。


「結衣子ちゃん、どうする?」

「……え?」

「キミの記憶の中には、様々な思い出が残っている。深月くんが初めてピアノ教室に行く日のこと。レッスンで躓いて、挫けそうになった時のこと。初めての発表会の日のこと。キミが応援して、深月くんが笑う。ただそれだけの記憶が、キミの中にはたくさんある。それらの記憶をすべて見ていくかい?」


 訊ねながら、エトワールは小首を傾げてみせる。

 いつもの得意げな笑み。だけど、拓人にはその表情がどこまでも頼れるものに見えてしまった。だって、拓人も気付いてしまったのだ。

 結衣子の瞳だって、あの頃の深月に負けないくらいに輝いているということに。


「エトワールさん、ありがとうございます。だけどもう、大丈夫です。あたしはちゃんと、全部……覚えていますから」

「それは、怖いっていう気持ち以上の感情をってことかな?」

「はい」


 迷いなく、結衣子は頷く。

 彼女の様子を見て納得したように、エトワールは「じゃあ、戻ろうか」と囁くのであった。



「拓人くん、エトワールさん。今日はありがとうございました」


 拓人達が『幻想』から戻ってくるや否や、結衣子は二人に頭を下げる。

 確かにトラウマの話を聞き出せたのは拓人だが、結局のところ結衣子を前向きにしたのはエトワールだ。つい「僕は別に何も」と頭を掻きながら言いそうになる。

 しかし、結果的に何も言うことができなかった。

 だって、


「気付かなきゃいけないことに気付かせてくれて、本当にありがとう」


 久しぶりに見たのだ。

 片えくぼを覗かせながら優しく微笑む結衣子の姿を。

 大好きだったあの笑顔が、過去形ではなく目の前にある。


 たった今、本当の意味で雨夜結衣子と再会したような気がした。

 嬉しくて、小っ恥ずかしくて、胸が温かくなる。

 調を亡くした今、新しい出会いや再会に足を踏み入れるのは怖いことだと思っていた。だけど結衣子だってトラウマに立ち向かおうとしていて――。


 自分も逃げたくない。

 そう思える自分がここにいるから。


「じゃあ、行こうか。深月くんを応援しに」


 拓人はそっと手を差し伸べる。

 一瞬だけ驚いてから、結衣子はその手を取ってくれた。思った以上に力強く握り締めてくれて、彼女の覚悟を感じる。


 きっと、自分は今エトワールのような得意げな笑みを浮かべているのだろうなと思った。

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