4-3 夏の始まり

「よし、終わった!」

「え、嘘、マジで終わってるじゃん……」

「ごめん深月くん。そういうことだから父さんの手伝いに行ってくるよ」


 元々、拓人も宿題は早めに終わらせるタイプだったのだ。

 調を亡くしてからは手付かずになってしまっていたが、本来なら八月中旬には終わらせるつもりでいた。つまり、残っていたのは本当にあと少しだったということだ。


「調ちゃんも拓人くんもエトワールさんも、行ってきて良いよ。深月のことはあたしに任せて。何とか今日中には終わらせるから」

「きっ、今日中……?」

「じゃないと、調ちゃんの思い出作りの中にあなたの姿はいなくなるから」

「それは嫌だぁ……。俺、死ぬ気で頑張るぅ……」


 血の涙を流しながら宿題に向かう深月を気の毒に思いながら、拓人は調とエトワールとともに庭へと向かう。

 すると、ちょうどエプロン姿の星良も顔を出したところだった。


「お父さん、そろそろそうめんの準備を……。あら、家族が勢揃いね」


 しっかりとエトワールの姿を見つめながら、星良は呟く。どうやら、星良にとってエトワールは家族も同然の存在のようだ。


「うう……エトワールちゃん、ありがとうね。ずっと調の傍にいてくれて……」

「星良さんは泣き虫だね。調ちゃんの傍にずっといたのは、キミ達家族の方だろう?」

「でも、私は嬉しいのよぉ」


 昨日、家族で抱き合って泣いてからというもの、星良はすっかり泣き虫キャラと化してしまった。調かエトワールと視線が合うと途端に瞳が潤み、感情が溢れ出てしまう。

 でも、今は感情を隠すよりも前に出した方が良いことはわかっていることだ。ひっそりともらい泣きしそうになりながらも、感情を前に出してくれて嬉しいと拓人は感じている。


「母さん……。エトワールちゃんも良いが、たまには俺の胸で泣いてくれても良いんだぞ……?」

「それは嫌よぉ。今は調かエトワールちゃんしか抱き締める気はないわ」

「……まぁ、それもそうか……」


 納得しつつもどこか寂しそうに目を伏せる雪三郎。

 しかし、すぐにはっとして顔を上げた。


「そうだ、あとはセッティングするだけなんだよ。凄いだろ?」


 半分に割って節を削り、紙やすりで整えた竹。組み立てるための支柱。スタート地点には水を流すためのウォータージャグ。ゴール地点には取り損ねたそうめんを拾うためのザル。

 手伝うも何も、ほとんど雪三郎が仕上げてしまったようだ。


「す、凄い……けど、父さん本当に大丈夫? 昨日、あれから読者の皆様へお詫びって言って、SNSにイラスト上げてたけど……。あれ、深夜だったよね?」

「まぁ、結局復帰できなかった訳だからなぁ。やれることはやっておきたかったんだよ」

「でも、朝から竹を受け取りに行ったり、流しそうめん作りをしたり……慣れない力仕事ばっかりだったでしょ?」

「ああ、すっごく楽しいぞ!」


 拓人の心配とは裏腹に、雪三郎は爽やかな笑みでサムズアップをする。

 その瞬間、気がかりだった思いがさらさらと消えていく。あぁそうか、と拓人は思った。読者へお詫びイラストを描くことも、慣れない力仕事をすることも、普通だったら大変なことなのかも知れない。でも、結局は吹き飛んでしまうのだ。

 調と一緒に過ごせる。ただ、それだけで。



 それから拓人達は流しそうめんのセッティングをして、星良はそうめんの準備を始めた。時刻は昼の十二時半。まだまだ終わりそうにない深月の宿題は、一度切り上げることにしたようだ。

 快晴の空のもと、そんなに広くはない庭に七人が集合する。そこに雪三郎作の立派な流しそうめんが鎮座しているものだから、正直狭くて仕方がない。


 でも、そんなことはどうでも良かった。


「えっ、私が一番近くて良いの?」

「調が流しそうめんを提案したんだから、そりゃあそうだよ。隣は誰が良い?」

「エトワールちゃん!」

「あ、うん……そうだよねエトワールだよね……」


 元気良く即答する調に、拓人はわかりやすく肩を落とす。

 仕方なく拓人はそうめんを流す係をすることにした。雪三郎と星良は「俺達は一番遠い場所で良いよ」と言っていたが、「あとで代わってね」とちゃっかり付け加える。拓人は内心グッジョブと思うのであった。

 誰がどこに立つかを決めるだけで楽しくて、わくわくしてしまう。実際に流しそうめんが始まると、


「わっ、速い! でも取れた、取れたよっ」


 調が嬉しそうにそうめんが入った器を掲げていて、微笑ましい気持ちに包まれる。しかし、拓人はすぐに気付いてしまった。調の隣に立つエトワールは、誰よりも食い意地を張っているということに。


「これ、エトワールに全部取られちまうな……? 俺らが食べるの、無理ゲーだな……?」

「……エトワールさん、少しは自重して? あたしはともかく、深月にはたくさん食べさせないと、午後からのエネルギーが……」


 半笑いの深月に、割と本気で頭を抱える結衣子。

 調が取り損ねた分をエトワールがすべて掴み取ってしまうため、それ以降の人達は流れる水を眺めることしかできない。雪三郎と星良もさぞかし困惑しているだろう。

 と、思ったら、


「俺、調が楽しそうってだけで腹がいっぱいだ……」

「そうね……本当にそう」


 二人は別の意味でお腹がいっぱいになっているようだった。その気持ちはもちろん拓人にもわかる。しかし、このまま雨夜姉弟があまりにも可哀想だ。


「拓人くん、そうめんというのは凄い食べ物だな! こんなにも暑くて食欲も落ち気味なのに、するすると食べられてしまう。これは魔法の食べ物だよ!」

「それはわかってるよ! わかってるけど二番目の人が本気出しちゃ駄目なんだよ! 深月くんと結衣子さんにも譲ってあげて!」

「しかし箸が勝手にだな……」

「とりあえず、一回僕と交代しよっか?」


 エトワールをガン見しながら訊ねると、彼女の頑なな気持ちもようやく動いてくれたようだ。

 こうしてエトワールがそうめんを流す係になり、雨夜姉弟に調の隣を譲ることにした。しかし、何故か調も一緒に動き出してしまう。


「私、最後尾に行くよ」

「……あー。特別扱いばっかりじゃ嫌だった?」

「そうじゃなくて、私も『なかなかそうめんが流れてこないー』っていうのを経験したい。これも流しそうめんの醍醐味でしょ?」

「な、なるほど」


 遠慮している訳ではなく、本気でそう思っているのが爛々と輝く瞳から伝わってくる。驚く素振りをしながらも本当は嬉しくて、拓人も調の隣に立つことにした。

 まだそうめんを口にすることはできないだろうが、今は食欲とは別のものが満ちている。そう言い切れてしまう自分がいた。


「あ」


 すると、エトワールの間抜けな声が聞こえてきた。

 まだそうめんは流れてきていないようで、拓人は首を傾げる。


「エトワール、何かあった?」

「いや……私は私で、ここでそうめんを食べてしまえば良いのではとないかと……気付いてしまったんだ」

「それ流しそうめんの意味ないから! あと皆が食べる分なくなっちゃうから! ホントに勘弁して?」

「ちょっと言ってみただけじゃないか。まったく、冗談の通じない拓人くんだな」

「…………」


 これ以上全力で突っ込みを入れていては自分の体力が持たない。

 そう感じた拓人は何とかエトワールをスルーする。頬をぷくーと膨らませる姿は確かに愛らしいが、何とか堪えることに成功する拓人だった。



 度々立ち位置やそうめんを流す係を交換しつつ、拓人達は流しそうめんを楽しむ。見慣れたはずの庭なのに、初めての経験をするだけで、大好きな人達と過ごすだけで、ここまで景色が変わるものなのかと思った。


 食後のデザートはスイカで、皆で縁側に座って食べる。

 ジリジリと照り付ける日差しに、金魚が描かれたうちわ。涼しげな音を奏でる風鈴に、ブタの形をした蚊取り線香。

 自宅で過ごしているだけなのに、こんなにも夏色に染まるだなんて思わなかった。スイカに塩をかけるかどうかとか、早食い競争をしたら当然のようにエトワールの圧勝だとか。どうでも良いことがどうしようもなく楽しくて、誰かと目が合うだけで気分が高揚する。


 でも、拓人達の夏はまだ始まったばかりだった。

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