2-9 純粋な気持ち
再び電車に揺られて雨夜家に戻る頃には、すっかり空は橙色に染まっていた。
深月を応援しに行こう。
そう決意してからの結衣子は、今までのネガティブモードがひっくり返るほどに生き生きとした表情をしていた。
背中を追う拓人の心は激しく揺さぶられていた。
大切な誰かのために頑張る姿があまりにも眩しくて、羨ましくて、目を逸らしたい気持ちも心のどこかにはあって。
だけど。
「深月……っ!」
家に着いた途端に、結衣子は叫ぶ。
ちょうど深月もピアノのレッスンから帰って来たところだったのだろう。
中庭の噴水の前で足を止め、振り返る。深月はただまっすぐ、結衣子の瞳を見つめていた。拓人とエトワールの姿に気付いているのか、それすらもわからない。
必死に深月を見つめる結衣子に、驚いたように目を剥く深月。
二人が見つめ合うと同時に、まるで時が止まったかのような空気が流れる。でもそれは、ほんの一瞬のことだった。
「頑張れええええええええぇぇっ!」
大きく息を吸い、ありったけの力で結衣子は叫ぶ。
目を瞑って、前のめりになって、両手をぎゅっと握り締めて。
クールな結衣子からは想像もできないがむしゃらな姿は、どこまでも眩しかった。
驚いたままの深月の瞳から、音もなく涙が伝う。
手にしていた鞄を落とし、一歩、また一歩と結衣子に近付いていく。
「深月がピアノをやってみたいって言った時も、初めての発表会の時も、周りのレベルについていけずに落ち込んでいた時も、やっぱり向いてないんじゃないかって悩んでた時も、ずっと……ずっと! あたしは、深月のことを応援してた!」
今まで心の奥底に眠らせていた感情を吐露しながら、結衣子もまた深月に近付く。震えた声も、潤んだ瞳も、全然格好悪くなくて。むしろ輝いているように見えた。
「ごめんね、深月。あたし、すっごく弱いお姉ちゃんでさ。……ずっと、怖かったの。あたしが誰かを応援すると失敗しちゃうってことが中学生の頃から続いてて……。それで、深月ことも応援できなかった。あたしのせいで深月の夢を崩したらどうしようって、怖くて」
「…………っ」
結衣子の言葉に、深月は再び驚きを露わにする。
瞬きをすると同時に、深月の瞳から涙が溢れ出た。
――俺が夢に突き進んでいく度に、姉ちゃんのことを傷付けてるんじゃねぇか。
まるで、そんな勘違いが水に流れていくように。
迷いも後悔も、すべてが消えてしまったようだった。
「姉ちゃん」
「……何?」
「姉ちゃんは弱くなんかねぇよ。だって、俺のために頑張ってくれてるんだろ? そんなでっかいトラウマ抱えてさ。流れ星にまで願ってくれてさ。……こんなにも強くて優しい、自慢の姉ちゃん……他にいねぇだろ」
結衣子の目の前に立ち、深月は照れ笑いを浮かべてみせる。
深月は恥ずかしがり屋なイメージがあったが、今は恥ずかしい気持ちよりも嬉しさが勝っているようだ。へへへ、と鼻を掻きながら笑う深月の姿は途方もなく幸せそうだった。
「っていうかさ。安心してくれよ、姉ちゃん」
徐々に頬を赤らめていく結衣子の手を取りながら、深月は堂々と言い放つ。
「そんなトラウマ、俺が捻り潰してやるからさ」
――と。
こんなにも格好付けたセリフを放っては、また「ぐわああぁぁっ」と叫び出したくなってしまうのではないか。
一瞬不安になる拓人だったが、今はやはり照れている場合ではないようだ。若干目が泳いでいる気がしないでもないが、呻き声を上げる様子はなかった。
「ありがとう、深月」
「え? 何で姉ちゃんがお礼言うんだよ。そういうのは応援してもらった俺が……あ、いや。ちゃんとグランプリを獲ってから言うセリフだな」
「……そうね。深月なら大丈夫だから。頑張って」
「うおっ、また応援された。さっきの叫びで一生分の応援はもらっちまったのに、カンストしちまうよ」
「さ、さっきの叫びとか……やめて。恥ずかしい」
「いーや、一生忘れないね!」
瞳と頬を真っ赤にさせながら、雨夜姉弟が楽しそうに微笑み合っている。
昨日の様子からは想像できなかった光景に、拓人はほっと息を吐いた。結果はもちろん明日のコンクール次第だが、自分達にできることはもうないだろう。
そう思ってエトワールと視線を合わせようとすると、
「う、ううううぅぅ……」
――何故かエトワールが苦しそうに口元を押さえていた。
もらい泣きでもしているのかと思ったが、それにしては様子がおかしい。
やがてその場にうずくまり、これでもかというほどに眉根を寄せている。
「エトワールっ?」
「ああ、すまない。今になってちょっと……ね」
「今になって……?」
声を出すのも辛そうで、顔色もみるみるうちに悪くなっていく。
今になって、という言葉が拓人の心に引っかかる。エトワールは『流れ星の宇宙人』であり、拓人にとってもまだまだ未知の存在だ。
だからこそ、拓人は考えすぎてしまう。
「も、もしかして……。エトワールの『幻想』って、何か代償みたいなものがあるとか……ない、よね?」
恐る恐る、拓人は訊ねる。
例えば、『幻想』を使うことでエトワールが人間としての姿を保っていられなくなり、身体に不調が現れる――とか。ただの想像でしかないが、現にエトワールという非現実的な存在が目の前にいるのだ。拓人の憶測もありえない話ではなくて、ついつい瞳は不安定に揺れてしまう。
「いや、違う。そうじゃなくて……」
「じゃなくて……?」
「太陽だ」
――太陽?
予想外の言葉に、拓人は思わずポカンとしてしまった。
さっきから不安げな表情で見守っていた雨夜姉弟も、思いもよらない返答に戸惑っている。
「それって、もしかしてあれ? アニメとかでよく見る、吸血鬼的な?」
吸血鬼が太陽の光を浴びると砂になる。という話は、漫画や小説、アニメなどで拓人もよく知っていた。『流れ星の宇宙人』も同じような感じなのだろうか。
「え、つまりは砂になっちまうってことかっ?」
焦った様子で深月も訊ねる。
しかし、エトワールは至って冷静な様子で首を横に振った。
「ん、いや、砂にはならないぞ。でも、私は普段暗いところで生活しているからな。日の光を浴びることに慣れてなくて、酔ってしまうんだ」
「……酔う?」
再びポカンとする拓人達。
いや、何も酔うという感覚がわからない訳ではないのだ。拓人も三半規管が弱い方だし、乗り物やゲームで酔うこともある。
だけど、流石に『日の光酔い』は初耳だった。
「ごめんエトワール。全然気付けなくて」
「いや、良いんだ。言っておかなかった私も悪かったからね。ところで少年、家にコーラはあるかな? あのしゅわしゅわが酔いに効くんだ」
「あ、そこは血とかトマトジュースじゃないんだ」
「……さっきからキミは何を言っているんだ」
「ごめんごめん。コーラなら家にあるから、帰ろうか」
珍しく不貞腐れたようなジト目を向けてくるエトワールに、拓人は微笑ましい気持ちに包まれる。
何故だろう。初めて優位に立った気分になって、笑みが止まらなかった。
「楽しそうだね、少年」
「まぁ、うん。エトワールの新しい一面が見られたからね」
「そうじゃないだろう?」
若干青い顔のまま、エトワールは雨夜姉弟を見つめる。
釣られて拓人も見つめると、そこには夕陽に負けないくらいに
「あー……。せっかく意識がエトワールに向いたっつーのに、また俺達に注目されちまった」
「仕方ないでしょ。……二人にはそれだけ、感謝しているんだから」
結衣子と深月は見つめ合い、やがて観念したようにこちらに頭を下げてくる。
たったそれだけで胸が熱くなる。
嬉しいのだという事実を思い出してしまう。
結衣子は拓人の幼馴染で、初恋の人。だけどそれは幼稚園の頃の話で、今の拓人には関係ないはずだったのに。
再会してしまった。
いや――エトワールのおかげで、再会することができた。
それだけじゃない。弟の深月とも出会えて、色んな姿を知って、それで……。
「明日、僕も応援しに行っても良いかな?」
思った以上に、その言葉はするりと零れ落ちた。
でも、もう迷いはしない。再会した結衣子と、出会った深月と、もっと仲良くなってみたい。あまりにも純粋でまっすぐな想いは、自然と自分の中に芽生えていた。
「当ったり前だろ。拓人はもう、俺の友達なんだからさ」
「……友達……」
「な、何だよ。別に良いだろ拓人には感謝してるんだから。それとも何だ、こんな面倒臭い姉弟には付き合い切れないってか?」
「そんな顔に見える?」
間髪を容れずに聞き返すと、深月が心底恥ずかしそうに「ぐううぅっ」と唸る。
深月の反応が嬉しくて、楽しくて、気付けば心がぽかぽかと温かくなっていた。隣で微笑ましいものを見るような顔をしている結衣子と目を合わせると、心の温度が少しだけ上がる。
恋だとか友達だとか。
そんな感情はいつの間にか自分にとって遠い存在になっていた。
なのに今、ちょっと触れただけで胸が躍っている。
「まぁ、その、何だ。拓人もエトワールも本当にありがとうな」
「ちょっと深月。それはどちらかと言うとあたしのセリフ……」
「いや、コンクールで結果を出したいっていうのは結局のところ俺の願いじゃん。……それに、ただグランプリを獲りたいってだけじゃないんだよ。俺、ピアノは好きだけど音楽自体が大好きで、だから……ちゃんとピアノで結果を残したら、本当に自分のやりたい道に進もうって思ってる」
深月は結衣子の瞳をじっと見つめながら言い放つ。
本当はアニメオタクで、アニメの音楽にも興味がある。
昨日の深月の言葉を思い出しながら、拓人は彼の瞳に灯る炎に気が付いた。ただ「頑張れ」って言うだけで。トラウマと向き合うだけで。今まで避けてきたことから逃げないだけで。人の心はこんなにも熱く燃え上がることができる。拓人とエトワールはその手伝いができたのだと思うと、やっぱり嬉しい気持ちに包まれていた。
「そっか」
意外にも、結衣子は驚く様子もなく優しく頷く。
もしかしたら、心のどこかでは深月の本当の夢に気付いていたのかも知れない。
トラウマのせいで応援できないという足枷があっても、弟を想う気持ちは何も変わらないということだろうか。
「拓人くん、エトワールさん。今日は本当にありがとう。……それから」
やがて結衣子は、清々しいほどの優しい笑みを浮かべながらこちらを見つめる。
思わず目を逸らしそうになってしまうのは、単に茜色の空が眩しいからか、それとも――幼稚園の頃に大好きだった笑顔が間近にあるからか。
「また明日ね」
トクン、と鼓動が跳ね上がる。
夕焼け空が眩しいなんてただの言い訳だった。控えめに手を振る結衣子の姿があまりにも愛らしくて、幼稚園の頃とのギャップで胸が高鳴ってしまう。
それに、拓人は知らなかった。
また明日という言葉が、こんなにも心地が良いということを。
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