2-6 レベルアップ
翌日の午前十時。
拓人は再びエトワールとともに雨夜家に来ていた。
最初は結衣子と二人きりで話をした方が良いのではないかと思っていたが、初恋の人と二人きりになって平常心になれるほど拓人のコミュニケーション能力は高くない。緊張して喋れないのでは話にならないので、今回もエトワールとともにやってきたということだ。
「お姉さんが代わりにチャイムを押してあげようか?」
「いや大丈夫……っていうかこの流れ昨日もやった気がするんだけど。本当に大丈夫だから」
今日も今日とて、半ば勢いで呼び鈴を鳴らそうとする拓人。
しかし、
「……あれ?」
その前に門扉が自動で開き、玄関から結衣子が顔を出した。
ギンガムチェックのチュニックに黒いスキニーパンツ姿の結衣子は、大きめのショルダーバッグを肩に下げている。
まるでこれからどこかへ出かけるような風貌だ。
「…………」
少し遅れて、結衣子も二人の姿に気付いたのだろう。
立ち止まり、気まずそうに視線を逸らしている。深月に外出しないでと言われていたけれど、それでも結衣子は出かけようとしていたのだろう。
「あー……っと。ごめん、急に来ちゃって。今日は用事があったんだね」
言葉を探しつつ、拓人は頭を下げる。
すると、結衣子はすぐに首を横に振ってくれた。
「いえ、あたしの方こそごめんなさい。昨日も今日も、あたしはあなた達から逃げようとしているから」
か細い声で呟きながら、結衣子はショルダーバッグのベルトをぎゅっと握り締める。拓人と目を合わせないまま、結衣子は言葉を続けた。
「別に、用事なんてないよ。ただ現実逃避がしたくて出かけようとしてただけだから」
「そうなんだ。ちなみにどこへ?」
「……海だけど」
「う、海ぃっ?」
あまりにも予想外の回答に、拓人はついつい素っ頓狂な声を上げてしまった。
結衣子は拓人の反応に驚いたようにこちらを見つめてくる。
ようやく視線が合ったのは良いものの、不自然に見つめ合う形になってしまった。幼稚園の頃とは違う、大人っぽい結衣子の姿。三つ編みハーフアップも似合っていて、切り揃えられた前髪から覗く琥珀色の瞳は透き通っていて、頬はほんのりと赤くなっている。
外ハネショートヘアーだったあの頃では、まず見たことがない表情で。
自然と自分の鼓動が速くなっていくのがわかってしまった。
「あの、僕……水着持ってきてないんだけど」
「…………泳がないし、だいたい何故か白縫くんがついて来る流れになってない?」
「いや、エトワールもいるからデートにはならないかな、と」
「冷静な口調でいったい何を言っているの?」
結衣子の冷ややかな視線が突き刺さる。
確かに「水着」だの「デート」だの、緊張するあまりによくわからないワードを零しまくっている気がする。
でも、もう今日しかないのだ。
今日を逃してしまったらもやもやを残したまま深月がコンクールに出ることになって、良い結果が出せなくなってしまうかも知れない。そしたら『とある姉弟の願い』が叶わぬまま終わってしまう訳で、もしかしたら調の願いにも辿り着けなくなってしまう可能性だってある。
(……いや、こんなのは言い訳かな)
拓人は今、調の願いを叶えるために頑張っている。
でも、エトワールと出会ったきっかけで結衣子と再会した。深月とも出会えた。
嬉しくて、どこか寂しくて、だけどやっぱりこの出会いを手放したくない自分もいて。
「僕は……結衣ちゃんと再会できて嬉しいって思ってるから。迷惑でなければ、ついて行っても良いかな?」
「っ!」
ビクリと、結衣子が肩を震わせる。
これは拓人が「結衣ちゃん」と呼んだことに対する反応なのか、「再会できて嬉しい」に対する反応なのか、「ついて行っても良いかな?」に対する反応なのか。はたまた、全部なのか。
わからないまま結衣子の反応を待つと、頬がますます赤く染まっていってしまった。
「馬鹿じゃないの」
「ご、ごめん。でも、結衣ちゃんと水着デートしたいって言ってる訳じゃなくて」
「……ねぇ」
「ひいぃごめん冗談だからっ」
結衣子に睨まれ、拓人は観念したように両手を上げる。
でも、拓人だって必死なのだ。結衣子はきっと複雑な事情を抱えていて、シリアスなテンションで問いかけては尚更自分の殻にこもってしまうかも知れない。
だから頑張って明るく振舞っているのだが、どう考えても空回りしていた。自分のコミュニケーション能力の低さに改めてショックを受けそうになる。
「そんなに顔を真っ赤にして頑張らなくて良いから。……その呼び方、やっぱり今は恥ずかしい。結衣子さんで良いし、あたしも『拓人くん』って呼ぶくらいで勘弁して欲しい」
言って、結衣子は心底申し訳なさそうに目を伏せる。
今、結衣子は何と言った?
拓人も顔が真っ赤になっている――というのはともかくとして、問題は『拓人くん』だ。聞き間違いでも何でもなく、結衣子は『拓人くん』と呼んでくれた。『白縫くん』から大幅のレベルアップだ。嬉しいったらありゃしない。
「良かったな、少年」
「急に喋ったと思ったらニヤニヤするのやめてくれないかな」
「まぁまぁ良いではないか。そんなことより、海に行くのだろう? 私達も付き合おうではないか。気分転換も重要だからね」
何故か得意げに笑いながら、エトワールはいつものようにウインクを放つ。
しかし、今ばかりはエトワールの存在に感謝していた。きっと、二人きりだったらこの空気に耐えられていなかっただろう。
「まぁ、ついて来るだけなら」
少しだけ考える素振りを見せてから、結衣子はぼそりと呟く。
こうして、二人(+エトワール)で海に行くことになった。
果たして、海に行くことで結衣子の本音を引き出せるのかどうか。そんな不安とともに、違った意味での緊張もほんのりと感じている拓人だった。
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