5-11 星空の君へ
「エトワールちゃん。私からも……良い?」
「あぁ、星良さん。すまないね。最後の最後に、こんなみっともない姿を……」
「それは良いの、そんなことよりも……」
小さく息を吸ってから、星良は誰よりも温かな笑みを零す。
「調を、幸せ以上の幸せに連れて行ってくれてありがとう」
「……っ」
ビクリ、とエトワールの肩が震える。
対照的に星良の瞳は自信に満ち溢れていた。調は幸せな人生を送っていたのだと、胸を張って言える。それだけではなくて、エトワールのおかげで調の幸せがより一層特別なものになったのだと迷いなく思っている。
一人の母親として、星良は感謝の気持ちを告げていた。
「おお、それなら俺からも言わせてくれ。俺は絵を描くのが好きだ。それで、調も絵を描くのが好きだよな?」
「うん。お父さんに憧れてる気持ちもあるよ。でも……」
「エトワールちゃんの似顔絵を描いた時が一番のきっかけかも知れないって思ってるだろ?」
「……うん。も、もう。お父さんもお母さんも、私の気持ちを代弁しないでよ。ちゃんと自分の口で伝えたいよ」
「でも、俺達だってエトワールちゃんに感謝してる気持ちは変わらねぇんだ。だからありがとうな、エトワールちゃん」
不満そうな調を遮るように、雪三郎はエトワールを見つめる。
浮かべる笑顔はあまりにも清々しくて、傍から見ている拓人が恥ずかしくなってしまうほどだった。
「エトワールさん。調ちゃん。……私からも、ありがとう。あなた達と出会っていなければ、私はずっとネガティブな気持ちに囚われたままだったと思うから。新しく姉と妹ができたような感覚で、凄く楽しかった」
花火の音にも負けないくらいにはっきりとした声音で、結衣子は二人に伝える。
その姿は、トラウマに押しつぶされそうになっていたあの頃とはまったく違う、力強い姿だった。
「あー……っと、次は俺の番か?」
「どう考えてもそうだろう。とは言え、深月くんは私よりも調ちゃんと話したいのかも知れないけどね」
「いやいや! エトワールのおかげで姉ちゃんとも打ち解けられたし、拓人とも友達になれたし、めちゃくちゃ感謝してるぜ。…………でも」
そわそわと揺れる深月の瞳が、エトワールから調へと移る。
ただそれだけで、調はきゅっと両手を握り締めた。花火の灯りだけでは表情はよくわからないはずなのに、一気に恋色に染まったような予感が駆け巡る。
「エトワールの言う通りだ。俺にとっては、調ちゃんと出会えたことがとんでもなく大きなことなんだよ」
「……本当に?」
「そこで不安な顔になるの、実はすっげぇショックなんだぜ? だって調ちゃんは可愛くて、家族想いで優しくて、誰よりも前向きで、笑顔を見るだけでこっちが幸せな気分になって……。たった一週間だけど、こんなにもたくさんの魅力を知っちまった」
へへっと笑いながら、深月は言い放つ。
本来の彼だったら、きっと物凄く恥ずかしい気持ちに包まれているはずだ。「ぐわあぁっ」と叫びたい衝動に駆られているはずなのに、今はそんな素振りなど一切なくて。
ただ、純粋な気持ちを調に伝えている。
「俺、調ちゃんのことが好きだ。……ほんの一瞬だけだって構わない。俺の恋人になってくれませんか?」
それは、花火の音にもかき消されないほどにはっきりとした告白だった。
調の瑠璃色の瞳が丸々と開かれる。薄く開いた口からは様々な感情が行き交っているようで、拓人は彼女の表情から目が離せなかった。
自分が調の立場だったら、きっと思ってしまうだろう。
そんなの駄目だよ、迷惑になっちゃうよ、と。ネガティブな想いがぐるぐると回って、ついつい首を横に振ってしまいそうだ。
でも、調は違う。
「…………私、も……深月さんのことが好き、です……っ! やりたいことにまっすぐで、お姉ちゃん想いで、こうやって……勇気がいる言葉だって、深月さんは頑張って伝えてくれる。そんなところが、大好きです」
一生懸命に前のめりになりながら、調も調の想いを伝える。
まさか、人生の中で妹と友達の告白シーンを見ることになるとは思わなかった。だいたい、調が恋を経験することも普通だったらできないかも知れなかったのだ。
だけど今、二人は見つめ合って照れ笑いを浮かべている。
本来だったら恥ずかしくて気まずいシーンのはずなのに、嬉しさが溢れて止まらなかった。
「お兄ちゃん!」
「ここは僕に話を振るんじゃなくて、二人でイチャイチャすれば良いんじゃない?」
「……手は、繋いでるよ?」
指を絡ませる『恋人繋ぎ』をした手を見せびらかしながら、調は瞬き多めにこちらを見つめてくる。一方で深月は、告白が成功したのが嬉しいのか満面の笑みだ。
「それだけでドキドキしちゃうんだ?」
「うー……お兄ちゃんの馬鹿!」
「でも深月くんの鼻の下は凄く伸びてるよ」
「わっ、ホントだ! 深月さんも……ドキドキしてくれてるの?」
調の問いかけに、深月は全力でブンブンと頷いてみせる。
なんて微笑ましい二人なのだろう。花火が終わるまで、ずっとこの二人のやり取りを見ていたいくらいだ。
でも、きっと――もう、時間がない。
「調、誕生日おめでとう」
覚悟を決めて、口を開く。
今日は八月三十一日。調の誕生日であり、皆で過ごした夏が終わる日。
あまりにも楽しくて、あっという間で、眩しすぎる夏だった。
本当だったら悲しむだけで過ぎていくような時間なのに、エトワールが願いを叶えに来て、幽霊になった調の姿が見られるようになって、世界の色ごと変わってしまった。
「この夏は楽しかった?」
「うん。すっごく楽しかったよ。幽霊としてひっそりとお兄ちゃん達を見守ってる時も、皆で思い出作りをしてる時も、全部。……だけどやっぱり、誕生日の今日が一番特別だった。楽しくて、嬉しくて、恥ずかしくて……こんなにも幸せなの、世界で私だけかも知れないね」
「そっか」
返事をする声が震える。
調が楽しいと言ってくれる。嬉しいと言ってくれる。――幸せだと、胸を張って言ってくれる。
それがどれだけ拓人達の心を救っているのか、調は理解しているのだろうか? 悲しくて仕方がなくて自分自身を傷付けたあの日々が、今はとてつもなく遠い記憶に感じられる。
「エトワール。また僕達の願いを叶えに来てくれて、ありがとうね」
「言っておくが、三度目はないぞ。キミ達にとって大切な存在がいたのだと、ずっと覚えていてくれるのだろう?」
「そうだね。エトワールとの日々は消えてしまうかも知れないけど、でも……。絶対に、忘れないから」
新しい宝物が詰まったくまのぬいぐるみを見て、エトワールのコスプレをした結衣子を見て、最後に調と目を合わせる。
忘れない。忘れたくない。
この想いには、単なる祈りも含まれているかも知れないけれど。
でも、忘れたくないと必死に足掻いた日々は決して無駄ではない。今はそう、はっきりと思うことができるから。
「……わぁ」
拓人はそっと、空を見上げる。
ちょうど、花火大会のフィナーレを飾るスターマインが始まったところだった。今までよりも派手で、色鮮やかで、まるで花火に吸い込まれてしまいそうな感覚に包まれる。
あぁ、終わるんだな、と思った。
キラキラと眩しいこの景色も。ぱらぱらと胸に響く夏の音も。深い悲しみから救ってくれたエトワールとともに、願いを叶える日々も。調と一緒に幸せを紡いでいった毎日も。全部。
二人と過ごした大切な夏が、終わりを迎えようとしている。
辛いだとか、悲しいだとか、嫌だとか。一瞬だけ、そんな苦しい思いが溢れ出そうになる。でも、拓人はすぐに振り払った。
例えそこに強がりな気持ちがあっても、今は笑顔でいたい。
ありがとうでは足りないくらいに温かな気持ちも、自分の中には存在するのだから。
「……あっ」
やがて聞こえてきたのは、深月の間抜けな声だった。
花火が終わり、静けさの中に余韻が混じる不思議な空気が流れる。でも、一番強く感じるのはどうしようもない寂しさだった。
「…………ぁあ」
深月がまた、微かな声を漏らす。
じっと見つめるのはおのれの右手だった。ついさっきまで、小さな温もりがあったはずなのに。まるで虚空を見つめているかのような瞳は、やがて助けを求めるようにこちらへ向く。
「拓人」
ただ、名前を呼ばれる。
それだけで、色んな感情が溢れ出そうになった。だけど、それは駄目だと首を振る。泣きたくはなくて、笑っていたくて、拓人は不格好な笑みを返してみせた。
しかし、深月も笑い返す――訳ではなく、ぐにゃりと表情が歪んでしまう。
「……っ、ぐっ……う……。ごめん…………俺」
左手で顔を覆い隠しながら、深月は堪え切れない感情を漏らした。すぐに結衣子が駆け寄り、行き場のなくなった右手を握り締める。
その瞬間、自分の中の何かがぷつりと切れたような気がした。
「本当は……嫌なんだよ。嫌で嫌でたまらねぇんだよ。だって、あんなに良い子いねぇだろ。好きになるに決まってるし、もっと調ちゃんのことを知りたかったし、恋人としての日々も過ごしてみたかったよ……っ」
心の底から悔しそうに、深月は本音を吐露する。
深月はいつだって調の前では笑顔だった。大袈裟かと思うくらいに浮かれていて、テンションが高くて。かと思えば、ネガティブになりそうになる調の心を引っ張ってくれる時もあって。
彼はどんな時だって、調の憧れの人であろうとしてくれていた。
「深月くん、ありがとう。調のために、本当に……ありがとう」
「……違う。違うんだよ拓人。辛いけど、悲しいけど、それでも…………俺が一番、ありがとうって言えちまうんだよ……! 綺麗ごとでも何でもなく、調ちゃんと出会えて良かったって。……俺、本気で思ってるから」
「…………うん。それはちゃんと伝わってるから、大丈夫。でも……ありがとうって伝えたい気持ちは、僕だって負けられないけどなぁ」
深月を優しく見つめてから、拓人は振り返る。
両親の顔は、すでに涙でぐちゃぐちゃになっていた。結衣子も赤らんだ瞳を気にもせず、深月に寄り添っている。
また、自分だけが泣くのを我慢しているのだろうか?
無意識に気を遣って、無理矢理笑顔を浮かべようとしているのだろうか?
「拓人」
星良が両手を伸ばす。雪三郎がこっちに来いと目配せをする。
答えはとっくにわかっていた。だから躊躇いもなく両親の愛に甘えているのだろう。どうしようもなく悲しくて、ありがとうと叫びたい。アンバランスな二つの想いは、涙となって拓人の頬を流れていた。
でも、何故だろう。
ありがとうという言葉は調の口癖で、拓人にとってもかけがえのない言葉だ。だけど、どれだけ口にしても足りないような気分に包まれる。
涙が枯れるほどに泣き腫らしたあと、拓人はふと空を見上げた。夜空を彩る星々が眩しくて、拓人は無意識に笑みを零す。
――ありがとう。
そっと星空に向かって囁くと、何故か心が軽くなる。
ここにあるのは、悲しいという気持ちだけではない。
心に灯る温かさも、確かにそこに存在していた。
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