誰かがそれを愛と呼んだ
「容態はどうだ?」
「イド…うん、最近は少し寝れるようになった」
「そうか、何よりだ。…こっちの首尾も上々だ。あと何日か以内には関門を通る事が出来そうだよ」
ノック音と一緒に、彼が戻ってきた。
いつものように、ベッドの横に座り込んで、武器の点検をしている。その錆塗れの鎧もちゃんと洗えばいいのに。
そんな軽口を言おうとして、喉が痙攣して止まる。
息が詰まって、そのまま倒れ込む。
明らかに自分の身体が衰弱していっているのがわかる。この身体は魔術による仮初のもの。偽物であって、衰弱することなど有り得ないはずなのに、それでも私は今こうなっている。
それほど心と、身体の波長が狂っていってる。
『私』が、壊れそうになっていることが、身体に反映されるなんて、なんてわかりやすいのだろうか。
「もし」
「…」
「もし私がこのままで、何も出来ないなら。
その時は私をここに置いていく?」
「馬鹿を言え。
何度も何度も、言っているだろう。俺には貴様が必要なのだ。絶対に、お前が居なければいけない」
その理屈は、もう成り立たない筈だ。
彼は私の翼が必要なのだと言った。
私そのものが必要なわけでは無い。
そうでなくとも、この状態が続く限り私はもはや竜じゃなく、ただ死なないだけの、狂いかけの少女。
イドの足を引っ張るだけの存在。
「…本当に、嘘吐き。
このままの私はただの足手纏い。
そんなことイドもわかってる筈なのに」
「………」
「私を連れて行く意味は、もう無い」
それは事実であって、彼もとうに分かっている事。
そしてまた、自分に言い聞かせる文言。そうなのに、自分のそれに、心臓を握り潰されるような気分になった。
静寂と重苦しい空気。
イドの目すら見れず、ただ自分の片方しか無い腕を見る。こうまで痩せ細った腕に、一体何ができるだろう。
「馬鹿め」
「痛っ」
ごつり。
軽く、そして少し痛く。頭に拳が当てられた。殴るという程では無いが、微かな痛みは私に彼の目を見させるには十分だった。
「二度とそんな事を言うな。わかったな」
「…でも、事実で…」
「わかったな」
「………わかった」
不承不承と言うように頷いたけど、本当は私自身、そんな事言いたくなかった。それでも言って、私に突きつけないといけない真実だから、言ったのに。
どかり、と座り込んで、イドはそっと兜を外す。
あの時に見た以来の、彼の顔だった。
少し長い紺色の髪は後ろに纏められ、眉根に寄った、睨む皺が詳に見えるようになっている。何かを憐れむようなその目は、金色の光を放つ。
神経質そうな筋張った高い鼻に、細い眉。
『右半分』を除きさえすれば、整った顔立ちだと思う。
今になっても不思議だ。こんな、線の細い男がなんであんな怪力を出せるんだろう。
「……お前が、こうなった時。
そういった事を考えなかったと言えば嘘になる」
彼は兜を手に持ちながらそう言う。
私の目をじっと、見つめながら。
私はただその言葉に、びくりと肩を震わせた。
「人の姿を取らせてしまったのは失敗だったかもしれないと。俺の我儘で、この世界の有様を、人間の有様を見てもらいたいと思ったのは、ただクシーにとっての不幸だったのかもしれないと悔やんだ。
なればこそ、お前はここに置いた方がいいのかともな」
掌を握りしめて、目を瞑りながら語るイドを、ただ見る。どういった反応をするべきか、よくわからなかった。
「…それでも、お前が横に居てほしい。そう思った。
だからお前を手放したりはしない」
その言葉を聞いた時。
私は驚いた。
それは彼が、そんな事を言うと思わなかったからということもあり、彼が少しでも気まずそうな顔をしたのも初めて見たからでもあった。
でも何より、一番驚くに値したのは。
(同じだ)
ああ、そうだ。
まるで同じ、それだった。
例え何の役に立てなくても共にいたい。
例え実益にならなくても、横に居てほしい。
手放したくない。
手放されたくない。
死なせたくない。
それでもついて行きたい。
イドが今言った想いは、私の持っているそれと、きっととても、似通ったものなのだということに、驚いた。
「なんで」
「さあ。なんでだろうな」
「誰かと、ただ一緒にいたい。
そういうのって、なんなの。教えて」
「さあな。以前も言ったろう、俺はそこまで博学じゃない。その答えを俺はどうにも知らん」
そこまで言ってから、また彼は兜を被った。
こちらから目を逸らして、そっぽを向くように。
そうしてから、再び口を開く。
「…いいや、一つだけ心当たるものがある。
強いて言うならば、それは……」
「愛、かもしれない」
…街の喧騒の音が、うるさいくらいの静寂。その声を最後に、どちらも音を出せなくなったようだった。反応もできず、ただ口を開けた私の姿をどう思ったのか、イドは溜息をついてからゆっくりと立ち上がった。
「…フン、違うな。これはきっと契約のせいだ。
今も、このせいでトチ狂った事を言ってしまった」
「……えっと」
「…忘れろ。俺は狂っているんだ。狂人の言うことなど、鳥の囀りよりも意味の無い音だ。忘れてしまうのが、一番だ」
そう言って、そのまま立ち去ってしまった。イドらしくもなく、何処に行くとすらも言わないで。
「あ、待っ…」
まだ、去って欲しくなかった。
もっと話を聞かせて欲しかった。
イドのそれが、愛だと言うならば。
この胸にあるものは何だと思うのか。
貴方が私をアイしていると聞いて、更に大きく思っているこの何かは、なんなのだろう。
それの答えは愛であるのだと、そのまま当て嵌めて良いのかもしれない。でもそれだけでもまだ違う気がする。
まだ、確かな答えではない。
…答えが出る気がする。
もう少しで、答えが出そうな気がする。
それでもまだ一つだけピースが足りない。
私が貴方に向けた、執念に代わるものの正体。
その名前と、その中身の答えが。
…
……
「おはよう、イド」
「ああ。…かなり、元気そうだな。
数日前までの衰弱が嘘のようだ」
騎士は、些か驚いたようにそう言い放つ。
正直に、彼は彼女がこうまで快復するとは思いもしていなかった。ただ治らなくともという、諦めすらあったのだ。
であるのに、今は彼女は、やつれた姿は戻り。その顔色は、会ったばかりの時よりも寧ろ、良いようだった。
「うん。一つ答えが出そうだから」
「答え?」
「あの時の質問の答え。
イドがした、また竜になれるかの、問い。
もう少しでそれが出る気がする」
イドはそれを聞いて、少しだけ背筋が強張った。
彼女のその発言に、おかしいところは無かった。
だがそれに、少しだけ身が固まった。
否。違う。
固まった理由はそれだけではない。
「……下がれ、クシー」
「っ…」
二人ともが、剣呑な気配を感じていた。
歩いて来るその音に、ぞっとする気配を。
なにか不気味な、気配があると。
扉が開いた。
不慣れに、動きにくく、ドアが動いた。
「イ、ド。みっけ」
そこに立っていたのは、銀髪の女性。
指を指し、見つけた事を喜ぶ姿は、子ども。
いや、更に前。赤子のようだった。
「………え?」
イドがそれを見て。ただ呆然とした。呆気に取られた声を出して、唖然と、手をだらりと垂らしたままで、その女が近付くのを眺めていた。警戒すらもしないで、ぼうと、遠くを眺めるように。
「イドッ!」
「ッ!」
瞬間、竜の声で正気付く。
その声で避けた一撃は彼の喉元を狙っていた。
何とか避けたそれが空を切り、隙を晒す。だがイドはその隙に何をするでも無く、ただ後ろに引いた。
「……ク、ハ。ハハハ。
こうまでするか。こんなことまでするのか。
どこまで侮辱すれば気が済む!彼女をッ!」
イドの息が荒い。
剣をいつものように手に取るも、構えるまでが遅い。
『彼女』とは、何のことだろうか。
少なくとも、彼に縁のある何かなのは確かだ。
そして、その心に何かしらの傷が入った事も。
「殺す。その薄汚い面をそれ以上見せるな。
あるだけで不愉快だ」
弾けるような、世界が弾け飛ぶような殺意がびりびりと発せられる。これまでにも増して恐ろしい気迫。
しかしまだ、動揺が見て取れる。
その握る手にはまだ、震えがある。
そのイドの姿を見て。
竜が、にっこりと笑った。
「ぎゃぁっ…ッ」
「…!?」
飛び掛かり、斬りかかろうとした瞬間。
ずあ、と。
白銀が目の前を遮るように現れる。
彼の目の前に、白い鱗塗れの壁が。
巨大で、強大な腕。
それは、紛う事なく竜の腕。
竜の。クシーの、竜体だった。
そんなクシーの握る手の先には、じたばたと苦しみながらもがく、件の女刺客がある。
人が、羽虫を握りつぶすように。
柔らかな果実を、潰して絞るように。
そのような、形になっている。
「…クシー。貴様、竜に…」
「やっと、答えが出た」
「答え?」
「もう一度、竜になれるか。
イドが出してくれた、その問い。
今なら私、答えが出せる」
「……聞こう」
クシーが、息をすう、と吸った。
その震えながらの呼吸は、嫌悪と高揚。
今からやる事への、自己嫌悪。
そしてまた、今から言うことへの、高揚。
嫌悪を塗り潰すほどに、高揚は色濃かった。
「…私、やっぱり、やりたくない。
誰も殺したくない。もう二度と竜になんてなりたくないし、もう誰かを踏み潰していくのだってこりごり。本当にそう思うし、身体中が嫌だっていってる」
ぎちぎち。
竜の掌の中にあるものが、悲鳴を上げていく。
骨が砕ける音、皮膚が裂けていく音。
話している内容と裏腹に、力が篭っていく。
クシーが、花の咲くように笑った。
「それでも。
貴方の為なら、出来るよ」
ぶちゅり、と潰れる音。
鮮血と臓物が部屋中に飛び散った。
赤い火花が飛び散り、部屋そのものを赤く染める。
握り潰し、殺した。
その竜の手の内に、残酷に潰殺した。
それでも竜の眼は、一所にしか向いていなかった。
ただ一人、彼の騎士の元へ。
「…クシー、お前は…」
「ふふ、なに、その顔。
元気になったんだし、もっと喜んで欲しいな」
「ねえ、イド」
「褒めて」
…
……
ずき、ずきと痛む。
失った左腕が、幻肢痛を放って来ている。
この痛みは常に有った傷み。あの時から常に有って、その度に忌々しく思っていた痛みだった。
だがそれが、今は狂おしくて堪らない。
彼は愛してると言ってくれた。
愛を向けてくれた。
愛と、想いを、それを私に初めて。
それは父性愛や、友愛とか。
それに近いかもしれない。
どれであっても、同じ事だ。
それらを、一度たりとも向けられなかったのだから。どのような愛であっても、私はそれを一度たりとも手にした事が無く、初めて愛してくれた者が、彼なのだから。
ただ、それだけが真実なのだから。
私の答えは、一つ出た。
絶対的で、疑いようも無く、疑う必要もない真理。
私の中にあるこれは、愛であって、愛ではない。
愛だけじゃない。
これは、恋だ。
だから、そうだ。この幻肢痛は、あの人が始めてくれた感情なのだ。私にとっての福音なのだ。切り落とされた左の手はそのまま、私にずうっと残る、感情を向けてくれた証。
血塗れになった腕を、身体を貴方に擦り付ける。
そっと、貴方の兜を取ってみる。
もっと喜んでくれると思ったのに。
イドが追い詰められている所を見て、私はようやくこの答えに辿り着けた。困ってる様子。苦しむ様子。怒る様子。
どの顔も、私にはいやでいやで。
だからもっと喜んでくれると思ったのに。
もっとほめてくれると思ったのに。
ただ彼がしたのは、ずっと変な顔。
「…ふふ。うふ、ふふふ」
そんな彼の間の抜けた顔を見ていると。
口から、そんな息が溢れ出た。
イドを見ていると、そんな声が止まらない。
歪む口先がどうしようもなく治らなかった。
それは、心についてしまった傷のように。
二度と治らない傷のように。
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