個の死





「げほっ…っえェっ…!」




痛みは、風化する。

怒りは、薄れていく。

記憶は無くなっていく。

感情は失われていく。

それが、人という種族の欠点でありながら、その一方での強みである。忘却とは人に与えられた最大の祝福なのだ。



膝が腹部にめり込み、反吐を吐きながらクシーが地面に横たわる。その倒れた首を狙って大剣を振り下ろした。

しかし瞬間、その身体は実態を無くし、洞窟の岩壁にとぷりと溶けていった。これもまた、いつも通りのこと。



「……逃げ回りやがって」



無意味な悪態を吐いて、周りを見渡す。

何処にいるのか?それは、答えは無い。

この力は同化の力。岩との、無生物との。

同化し、それそのものよりもその強みを引き出し、更にそれらを手足のように自由自在に動かすことの出来る力。


それは、ドルイドの能力だった。



不死の、人間態との戦いなどとうに慣れている。その戦いだけなら、たとえそれが竜であろうとも負けるはずが、無いのだ。

そう、それが本当に、ただの竜であるならば。

だが、最早目の前にある怪物は、そうですらない。


とぷり、と少女の身体が浮き出てきた瞬間に剣をぶん回す。




「ぐぎゃっ!」



それは彼女の骨を折る感触はあったが、切り飛ぶ感触は無い。代わりにそこの部分にあるものは、赤く、気持ちの悪い色をした少女の肉体。溶鉄が、害意を持って動き出したかのような醜い姿。赤褐色の、岩のような皮膚を持つ醜い竜。


二度ほど見た、その姿。

これについても、こうなってようやく分かる。

これは、この堅牢は、ゴーレムの不死の力。

皮膚が硬質化するという単純にして、究極の守り。




「…あはは、は。イド、すごい。

なんで全部わかるの?色々攻撃してるのに、ぜんぶ避けられて、ぜんぶすごく痛い反撃ばかりするの、どうやってるの?」



「答えると思うか」



「たしかに」




とうに再生しきった少女の華奢な身体を揺らして楽しそうにくすくすと笑う。その姿を見て、様々な感情と共に目を閉じた。


クシーの攻撃は単調がすぎる。如何に怪力があろうと、その勢いと力を利用したカウンターを行えば、その怪力が牙を向くのは自分自身だ。そうして、幾度も幾度も叩き伏せ、地を這わせている。


戦いの経験値の差は歴然。

対処の仕方もわかっている。

それでも、勝てない理由がある。

その度に、俺はクシーに負けている。



「じゃあ、これはどう?」



「……ッ!貴様……!」




彼女の、片方しかない手から先がばらばらと別の生き物に分解されていく。牙の生えた蜥蜴がぞろぞろと動く、眷属となりてこちらに向かっていく姿を見て、ぞっとする感覚に襲われる。




「…………喰ったな。セーレを」


「うん。一緒にいたかったから。

これを見せたら、イドも喜ぶかなって」





……そうだ。

この旅で、クシーは人の身体になる力を熟達した。

人化の本質はつまり、身体の変質だ。魔術を用いて自在に形を変え、骨格も種族も超えた存在となること。


そして、それができるということは何を意味しているのか、ということの認識こそが、変革と変質であり、真骨頂。


何かに変化ができるということは、何にも変化ができるということでもある。透明であるということは何色にも染まることができるということ。


そして、体の変形とはつまり。

何かの模倣を完璧にできると言うこと。


透明にして白、始まりの竜は種族を超える力を。

種族をも超越する力を得ていた。

彼女が『喰った』不死の力を得る形で。



赤褐色の堅牢を保つゴーレム。

同化の力を司るドルイド。

そして、疾病と眷属を産み出すバンパイア。


今やそれが全て、彼女であり、それ以上。それまでの旅の全てが彼女であり、それまでの経験の全てが、この竜だった。




「ぐ…う、おおおッ!」



滂沱のように流れてくる眷属。

そのあまりの物量にただ薙ぎ倒される。その一つ一つが皮膚を削ぎ取り、牙を突き立てて死を与えんとする。血が、みるみる失われるのを感じた。


瞬間。それらが一つに固まり少女となる。

見知った、クシーの姿になって俺に跨っていた。

その怪力に抗う手段は、もう無い。



「…ぷはあ。今回も、わたしの勝ちだね。

ごめんね。痛かったよね」



「……」



「もう。目を逸らさないで私を見てったら」




ぶつり。

そう言いながら、クシーが首筋に噛み付いた。

吸血鬼が吸い出す行動のように見えるそれはしかしむしろその逆。彼女の中の血を、俺に送り続ける行動だった。


そうしてまた、俺は完璧な不死に近付く。

身体が、人を離れた怪物になっていく。

もうとっくに手遅れな気すら、するけれど。




「…はっ、はっ、はぁ…

…好きだよ、イド、好き、愛してる、好き…」



『輸血』を終えたまま、跨ったまま、息を切らして胸に耳を当ててうわごとのように延々と繰り返す。

愛している。好き。

それ以外の言葉を忘れたように、延々と。


その息切れは血を失った消耗か、失った正気の残響か、はたまた俺を更に支配していくことの高揚か。

ただ、それを聞きながら、意識を失う。



この薄暗い洞穴で、何年経っただろう。

何回、負けただろう。

幾度、人離れを加速させられたか。


もう、数えることも考えることもやめていた。









……







痛みは、風化する。

怒りは、薄れていく。

記憶は無くなっていく。

感情は失われていく。


恨みや怒りが保つ期間など、短い。

だから風化が一番恐ろしい。

だから必死に俺は恨みを思い出す。

心の古傷に爪を立てて、無理やり血を流す。

そうして流れた血だけが燃料になっていた。

それが、少し前までの俺だった。




では、今はどうだろう。考える時間だけは、ずっとずっとあるから、余計なことばかりを考える。


こんな最低の沙汰となり、実感する。

俺は、今、何をしようと動いているのか。

そう言われれば、まだ、『復讐』だろう。



復讐とは。

お前に殺された親の仇。友の仇。恋人の仇。もしくは失った人生の仇とでも言うか。それを行うこと。


だが、その本質はきっとそうではない。

復讐の本質とは、変化を求めることなんだ。


お前は何かの仇だ。そうわざわざ宣言することも、殺さんとすることも。きっと人は狼狽えたり、逆上したり、もしくは開き直ったり。物言わぬ肉片になったり。自分によるその変化をこそ求めるのだと。



じゃあ、俺の復讐はそれができているか。


王都に対する復讐は、出来ていなかった。

復讐すべき相手は、皆俺の手の遠くで壊れた。


そして今の復讐は?化け物にした竜への復讐は?

それもきっと、答えはノーだ。


なぜこんな事をしたと聞けば、愛しているからとだけ答え、復讐を望む旨を伝えれば、嬉しそうに笑う。

お前のせいだと言えば、ただそうだね。とだけ笑い、殺そうにも死なず切り刻んでもすぐに姿を戻す。


変化が無いものへの復讐心など、これでは、天災や落下してきた岩に復讐を誓う道化となんら変わりない。風車を怪物と勘違いをして征伐の旅に出た喜劇と、何が変わろうか。




じゃあ、俺は何の為に生きているんだ?

最早達成されない復讐のために生きて、何があるというのだろう。

それでも、死ぬことは許されない。

自分自身、何を殺したいのかすらわからない。

俺は本当に、あの子を殺したいんだろうか。


おれはおれがわからなくなりそうだ。









……





あれから、またずっと、ずっと経った。

実際の時間は、わからない。

本当は俺が思っているよりずっと短い時間かもしれない。



俺は人の感情を持った不死がなぜ狂うかを実感した。

不死者としての、記憶。

それは、忘れる事が出来ないのだ。

不死になってからの記憶は忘れることがない。

だから不死者の恋愛譚は悲恋しか残らないのだろう。



ただ、問題は、その先だった。

問題は不死になってからの記憶が失われないことでは無い。それなのに、『人であった時の記憶だけは』そのままに薄れていくことだった。



この無為な死んでいないだけの無意味な生の記憶が、脳の容量を圧迫して、人として生きてきた己を押し潰して消していく。


俺は誰だったのか。

俺の名前は何か。

俺は、どうして全てを壊そうとしたのか。

今はまだ、思い出せる。


いつか忘れたことすら、自認できなくなるだろう。

いつか、自分が何者だったかがわからなくなるだろう。

そうして、目の前の伴侶の存在が自分を思い出させるのだ。

ただ、『竜を殺さんとする』俺を。イドを。



そうすればいつかは、俺が生まれる。

それはクシーの事しか知らない『俺』だ。

クシーのみを考え、クシーだけを憎み、クシー以外を鑑みる事なく、クシーただ一人だけを愛し続ける、『俺』。


我考える故に、我有り。

ならば、俺が俺であると認識できない俺は果たして何になるのだろう。今、考えている自分自身は、一体どこに消えるのか。


それはきっと、『死』なのだろう。

俺という個体の、存在の死だ。

その死を看取り、その上で俺に殺される。

なるほど、同じ死の痛みを感じる事ができる。

まさしく、彼女の言う『愛の形』だろう。




なんとまあ、敏辣で悪辣な事だ。

誰からこんな手法を学んだのだろう。


考えてから、くすりと自嘲した。

そんなもの、決まってるじゃないか。


なあんだ、俺か。

そうだ。

ぜんぶ俺だ。


俺に不利益を与える存在は今、全て俺が産んだんだ。俺がやったことの全てが目の前に立って、俺を終わらせようとしている。今、ここで自分を考える『俺』を。


俺は、俺がこうなるだけのことをしたんだ。それだけのことをしたんだ。その為に何を捨てても、どうなってもいいと思っていたのだから。当然の事だろう。





「………クク、クククク…」


「……ッハ、ハハハハ!ハハハハハッ!

ハハハハハハハ……」




…『あの時』。全てを失い、復讐を誓った時。

なんで俺がこんな目にと、納得いかなかった。

どうして俺は、全てを奪われる苦しみを味わったんだろうと。こんなことをされるような事をしたのかと。



ありがとうクシー。

ようやく、罪と罰が釣り合った気分だよ。

ようやく、世界と噛み合った気分だ。



俺は今。

俺が行った罪の罰を受けているんだ。








……






ぱちり、と目を覚ました時。

その時はとても頭が澄んでいた。

一つの答えが出たからだろうか。


納得が、心に浸った狂気という霧を一時的に払ったのか。自分でもそれはわからない。ただ、清々しいような気持ちだった。





「あ、おはようイド。

今日は調子いいみたいだね」



「…ああ。わかるのか」



「うん。いつもより目がすごくすごく綺麗だから。でも、私はいつもみたいなイドの目も好きだよ。ずっとそのまま取っておきたいくらい…そうだ。治るだろうし、幾つか貰ってもいい?代わりに私のもあげるから」



「………いらん。やらん」



「けち」




拗ねたように口を窄める少女を見て、ぼうとした。

こんな風にまともに会話をする事も、いつぶりだろう。

いつかのこと。

陽だまりの中で、ゆっくりと話をした事。

互いを知ろうと、話した事。


ああ、そうだ。

あれが、不幸せの全てだったんだ。

俺はただ、お前を代用品と見做せばよかった。お前をただの兵器として、便利である以外の感情を持たなければ良かったのに。

お前を知らなければ。

俺はお前を…




「……少しだけ、くだらない話をしよう」



「うん。聞かせて」




それを口走ったのは、少し晴れやかな脳が過去の記憶を虫干ししようと思ったからだろうか。まだ、俺が人としての記憶を保ってるうちに思い出しておきたかったからか。

…お前に、俺を知ってもらいたくなったからか。

もう、わからなかった。

それでも、言っておきたかった。




「もう、知っているだろう。

不死の生物を殺す唯一の方法とは、なんだ」



「共喰い、だよね」



「そう、共喰いだ。

竜が竜の血を喰らう時。スライムがオーガを取り込む時だけ。マンドレイクがグリフォンを呪い殺す時だけ。その身を死に横たえた。理由も理屈もわからん。が、同じ不死を殺そうなどという重罪こそが、そうせしめているのかもしれない…」



「…」




クシーは、言葉を敢えて挟まない。

この無意味に見える蘊蓄が、俺に関わる事だと、わかっていた。この話が即ち、俺の過去の話であると。




「…当然、人には対抗手段が無い。

だが、ヒトにはヒトにしかない強みがある」


「膨大なトライ・アンド・エラーを繰り返すことのできる種族単位のおぞましい数。どうあろうと、自分より上のものを引き摺りおろさずにはいられない異常なまでの執念…」


「…そして、途方もない悪意だ」




鎧を脱いでいく。素肌を晒す事は、どれくらいぶりかも思い出せない。鎧の下は枯れ果て、焼き焦げた枯れ木のようだった。

これでも不死の力を得て、だいぶマシになったのだ。



「不死身ではないヒトには、不死は倒せない。

ならば、不死身の怪物から生み出た人間なら、あれらを殺せるのでは無いか。そう考え、捕えた化け物を母胎に、ヒトを産ませた。

ヒトと不死を結合させ、苗床にして」



「……そうして出来上がり、最初に傑作として産まれた存在が、あのニコ、だ。25番目」



「…!」




「……わたし、やっぱり気になるよ。

イド。あなたの、ううん。

あなたたちの過去には何があったの?」


「……貴方が愛した【クシー】って、だあれ?」



「そう急かすな。時間は、たっぷりある」




ぐい、と目を輝かせ、前のめりになった少女の姿を見て、少しだけ笑う。このように笑うことも、一体いつぶりだったろう。

君に、憎悪以外の感情を抱くことも、どれくらいぶりだったか。

ため息を一つついてから、話し出す。




「…ただ、あまり期待はするなよ。

良く、ある事だ」


「ただの、よくある復讐だよ。

語る事すら、恥ずかしいくらいのな」





そうして俺は、自分を語る。

ただ、懺悔のように。


そうして俺は、彼女に俺を曝け出す。

ただ、何かに駆られて。




これは俺が全てを失った昔の話。

個としての俺が死んだ、よくある話だ。



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