享楽
ああ、やっぱり。
まだ生きてたんだ。
そんな気はしてた。
あのくらいじゃ、死なないんじゃないかって。
少し不安だったんだ。
だから、来たの。
うん。
大丈夫。
私が、ちゃんと殺してあげる。
もうきっと、生きていても辛いだけでしょ。
もうずっと、生きていたく無いんでしょ。
でももう、殺してくれる人は居ない。
だから、代わりに私がやってあげる。
……うん。
その通り。
そんな、優しさだけで此処に来た訳じゃない。
彼がね。これを知ったらきっと貴方の介錯をしようとするだろうと思う。苦しみながら、それでも目を逸らさないで。
それが、嫌。
彼にとっての、救うべき不死は私だけでいい。
彼が慈悲を持って殺す、不死は、私だけじゃないと。
苦しむのも、私についてだけでいい。
これまで、については諦めても。
これから、は。ずっとそうあってほしいから。
軽蔑した?
……そっか。
そう言ってもらえると、嬉しい。
じゃあね、セーレ。
私も、すぐに行くと思う。
その時はもっと普通に。
ダンティ達とも一緒に、ともだちになろうね。
…
……
ある洞窟に足を踏み入れる少女の姿がある。
片方の腕が無く、ずたずたの、雑巾のような服を着ている見窄らしい姿とは裏腹にその歩みは確固としていて、何を恐れると言わんばかりに堂々としていた。その意気も、揚々としている。
当然の事だ。彼女はまた、最も愛している人に逢えるのだから。とてもそうならない筈が無い。
ああ、ただ。『人』と呼ぶには、少しもう不適切かもしれないけど。そう思ってくすりと笑う。少女の揺れた頬から、少し血が落ちた。
クシーは口元にべたりと付いた血を乱雑に拭う。ぐしぐしと、掌で拭い、その手をべろりと舐めた。
せめてこの味を忘れないように。
罪の味を、残すように。
…本当はただ、憂鬱だった。
少女が行った事はそのまま心を蝕んでいる。
愛する人の為なら何をしてもいいと思えた。
何を犠牲にしようが、ただそれでもいいと。
そう思ったのは、嘘ではない。
その決心は揺らぐことはない。
それでもただ、堪える。
だけれどあの人が私だけを見てくれるなら。
そうであっても、笑顔でいられる。
帰ればそこに、彼が居るのだから。
そうして少女は洞窟へ。
簡易的な寝床には一人、寝ている男がいる。死んだようにゆっくりと寝息を立てる姿は、死を冀っているようにも見えた。
まだ生々しく傷の残る身体は、しかしそれを裏切るかのようにじくじくと音を立ててその傷を治していっている。魘す宿主を生かす為だけに。
安心したように息を吐く。急に顔が綻んだ。それは強いて喩えるならば、何かしらの中毒患者が、毒物を喰らい、その禁断症状から脱した時のような、そのような歪なものだった。
歪んだ笑みを浮かべたまま顔の前にしゃがみ込む。
そうして、その唇にキスをした。
糜爛した唇をこじ開け、舌を入れる。
口腔を蹂躙するように、目を閉じた男を貪った。
最中。
ぶぢり。嫌な音がした。
目の前から聞こえた異音に咄嗟に離れた少女は、痛みから、舌が無くなった事に遅れて気が付く。
べっ、と、騎士の口から千切れた肉片が吐き出された。三角錐のような形をしたその肉は小さく、未成熟なもの。半ばから先を奪われた竜の舌は、口を閉じて、開けたその動作の間だけでその傷を再生した。
「なんだ、起きてたんだ」
「起こされたんだ。貴様の下手なそれのせいでな」
貴様。
呼び方が、ずっとずっと以前のものに戻っている。
ただそれだけは、クシーは悲しかった。
抑揚の無い、低い声。
それには確かに怒りが含まれていた。眠りを妨げられた、そんな為ではない。更に奥底から湧き上がる憤怒。
それに気付きながら、痛みを喜びながら少女が笑う。
「ただいま」
「…」
そっと拒否を感じる身体に腕を巻きつけた。
怒りと怨みが、愛を塗りつぶすような感覚。それを感じる度に、大事な何かが削げ落ちていくような気がする。
ただそれが、彼女にはこの上なく心地良いのだ。
…
……
どれだけ時間が経ったか。
騎士がそれを数えるのは最初の数ヶ月だった。外界と遮断されたこの空間でそれを数える事は、一体何の意味があろうか。数えた跡である膨大な数の削った線だけが、放棄までの時間を物語っている。
「はい、お待たせ。
一緒に食べよう。一緒に」
そうしていると、いつものごとく、クシーが『肉』を差し出す。初めの、ただ血の滴る生肉を出していた頃に比べれば、幾分か料理を施されたそれは飛躍的な進化を遂げたと言うべきだろう。それがどれほど拙いものであっても。
それが何の肉なのかは一度も問わなかった。
人の味ではない。ただ、つい先ほどまでには無かった、彼女自身の血。それに塗れたクシーの姿を見ればそれは簡単に類推できそうにも思えた。
その上で考えることをやめて、かぶり付く。
喰わねば死ぬ。それは当然の事。
疑似的な不死の身体を得た所で、再生する為の力そのものが無くなれば死ぬ程度の身体でしか無い。そもそものイドの身体が、全体にヒビが入った水瓶のように、今にも壊れる限界だったこともあり、そうせねばあっという間に生き絶えるだろう。
彼は、まだ死ねなかった。
「…何故」
「!…ようやく、イドから話しかけてくれた!やった、やった!どれくらいぶりかな、ちゃんと数えておけばよかったかな。でも、数えられるのもイドは嫌だろうし。ああでも…」
イドの暗い声と対照的に、少女はあたふたと明るい歓喜の声を上げた。その姿をただ無感情に男は見つめる。
そうしてからまた話し出す。
「何故、こんな事をする。俺を嫌ったか」
「嫌う? ……?」
クシーはその問いに心底、不思議そうな顔をする。
イドとて、その問いが見当違いだということはとうにわかっていた。それでも聞かずにはいられない。
何故こんな事をするのか。
何が終着点であるのか。彼女の目的は何か。
「嫌ってるならこんな事、できないよ。貴方を愛しているからこそ、貴方にとって一番残酷なことを出来るんだ。貴方に恋しているからこそ、貴方が最も厭う事が、解るんだから」
「…」
「…でも、だけど私、貴方が苦しむ顔を見て、私自身も苦しいことは本当だよ。出来れば貴方を苦しめたくなんてないし、こうしなくてもいいなら、したくなかった。それだけは信じて欲しい」
「…信じるも、信じないも無い。
それは、『これ』から嫌というほど分からせられる」
そう言って左腕をぷらりと前に振る。
その薬指の赫い契約は、輝きをくすませている。
「えへへ、そうだね。私も、『それ』からわかってるよ。イドはこんなことをされても、私を信じてくれてる事。こんなひどい目に遭っても、それでも私の事を嫌いになりきれて無いって事」
騎士は反応せず、ただ肉に齧り付いた。少しだけ処理のし損ねた透明な鱗が、彼の口蓋を裂いた。
「あと、もう一つ」
「私が、貴方に最初に抱いていた思いが恋や愛なんかじゃなかったことも。イドが私を、都合のいい駒にする為に恋をさせようとしてたのも」
ぴたり。
両腕が止まった。
その様子を見て、クシーが、ほう、とため息を吐いた。生唾を飲み込み、震える息を吐きながら、そっと背後から、乗り出すように彼の肩に頭を乗せる。
「恋慕も友愛も、不死を心酔させる毒酒になる。
だからイドは私の感じた想いの全てを恋だと、思わせた」
「……やはり気付いていた、か」
「えへ、へへ。うん。どうだったかな?」
「私は、貴方が思う私のように、上手に愚かでいられた?」
片腕でぎゅっと抱きしめて、耳を食むように近い距離で囁き続ける姿は、見窄らしい少女の姿に見合わず、売女のように官能的で、そうしてまた白蛇が獲物を締め殺すように、破壊的だった。
「……今のこれは、その復讐か?」
「復讐?まさか。私はイドの事を一度たりとも恨んだ事なんて無いよ。気付く前も、恋した後も、気付いたその後も」
「その時に持っていた感情がどうだなんて関係ない。だって、今私は、イドが好きで好きでたまらないんだもの」
「…分からないな。何故そんな俺に従った。どうして、そんな俺を愛した」
「イドがそう仕向けたんでしょ?」
「だが、俺のそれはお粗末なものだった。貴様を乱雑に扱い、怒りのまま縊ることすらあった。そんな俺を好きになるような所なぞ、無かった。それが例え、何も知らない竜であっても」
「…私にだってわからない。
もう、好きになっちゃったんだもの。
そんなこと、もうとっくに忘れちゃった」
「でも、きっと。だから、たぶん」
「貴方がはじめて私を、愛してくれたから。
きっと、そうだったんだと思う」
そうだ。それが、善意につけこみ騙そうとする偽りの優しさであったとしても。その好意を利用せんとする詐欺師の三文芝居であったとしても。向けた優しさは、愛は、何一つ間違いなく真実だった。例え気づいていようと、抗う必要があろうか。例えもっともっと早く気付いても、抗えただろうか。
それが歪でも、利用の為でも。
はじめて竜に愛を向けたのは、この騎士だったのだから。
「……そうか」
「うん、そう。
それに、イドはちゃんと私を愛してくれた。
だから復讐なんか、そんなわけないよ」
クシーは肩に置いていた顔を浮かして、そのまま彼の後頭部に顔を埋める。そのまま、ぐりぐりと首を動かし、擦り付けた。
「ならば、なんだ。
今の貴様の目的はなんなんだ?
何を目的に、俺に憎まれようとする」
「あれ。一度、言わなかったっけ。
ただ、ずっと貴方と一緒に居たいの。
こうでもしないと、イド、死んじゃうから」
「…違うな」
「ん?うふふ、ふ」
「違う。それも、そうなのだろう。
だがそれが全てじゃない。本当の目的はなんだ」
「ふふ、大袈裟だなあ。
私、イドに隠し事なんてしないもの」
どくん、どくん。
瞬間、脈打つように。
心臓が、血液を全身に運ぶように。
薬指のくすんだ烙印が対手の思考を運ぶ。
否応なしに。竜の想いを、騎士に。
それはきっと、隠すつもりも、必要もないのだ。
私は、イドの感情のぜんぶを私だけに向けさせたい。憎しみも怒りも恋も愛も恐怖も性欲も食欲も、思い出の中であっても、空っぽになったイドに全部詰め込んで、私以外を考えなくなってほしい。これから先ずっと、私だけを永遠に想い続けて欲しい。
「…ずっと一緒に居たいのは、確か。でもいつかは終わりが来るのはわかってる。いつかは、貴方と交わした契約が終わって、貴方は私を殺してくれる。きっとその時が来る。でしょう、私の騎士」
そうなって、終わった後。私が居なくなった後の世界で、イドはまた何処かを旅して、誰かを愛するんだろうか。
私以外の物を見て、私以外を想うのだろう。
それは、嫌だ。
「だけど、ね?
私は、その後のことを考えてみたの」
なら、貴方の持つ世界を壊そう。
貴方と、私以外の全てを壊して、わたしにはイド以外。イドにはわたし以外、見ないように。世界とは、彼の中の観念。彼の持つ認識。精神とも言うべきもの。
愛を与えよう。私の味を教えよう。私の気持ちよさはどうだろう。私から苦痛を与えよう。最後のものだけは、とてもいやだけど。
一度それを壊して、全てを私で埋め尽くしてから死ねば、私が死んだ後もずっとずっと、彼は私を考え続けてくれる。
そうすればいい。
そうしてから死のう。殺してもらおう。
そうすれば、彼の中の私は永遠になる。
私はイドと、ずっと一緒のままになる。
そして、そうすれば。
思い出の中の、復讐に駆り立てた存在をも、上書きしてくれる。追憶すらも、私で埋め尽くす。そうだ。きっと、そうすれば。
…前に彼が愛していた【クシー】より、もっと。
私の事を、愛してくれる。
「なんだか、恥ずかしい、ね。
言葉にできないことも、ちゃんと伝わっちゃうの」
「…」
頬を桃色に染めて目を逸らす姿は、ただ可愛らしい姿にしか見えない。それが、先程のような邪悪な愛を贈ったのだと、到底結びつかない程に。
ふと、昂った、感情が伝わってきた。
想いの丈をぶつけた、その情欲。
後ろから少女の唇が、イドの頬を幾度も、舐めるように密着していく。男の手を取って、自らの腹部に手を当てさせた。
とく、とくと高鳴る音をその掌に味合わせて。
「ねえ。いつも通り、何してもいいよ」
……その言葉を最後に、会話が途切れる。
ただ獣の唸り声のような音だけが響く。
洞窟に、体液が散る。
赤いものの割合が、ほとんどの。
そんな、血生臭い交合だった。
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