…アンド・ビヨンドホープ
結果から言うならば。
その戦いは、ひどく長引いた。
シィ、イイイイッ。兜の奥、深い深い息を吐き剣を中段に構えるイド。
それと対照的に。構えもせずに微笑み、鎌を無造作に持ちながらこちらに向かうニコ。
それぞれの武器の射程範囲は、同程度。故にどちらかが振るう距離はまた、もう片方も振るう距離。
制空圏が触れる。
互いに、動かない。
更に距離を詰める鎌。それを待ち構える大剣。
静寂が途切れた。蒼い火花が幾度となく散る。
そうしてからまた距離を取った。
どちらか、という事ではなくどちらもが。
「……フゥーー…」
「っと。…はははっ」
それぞれ、鎧が削れていた。ニコの右肩の鎧部分が派手に溶解しており、イドの鎧の胸元は、鋼であるのにぱっくりと裂けていた。肉の焼ける音と、血の匂いが充満する。
そうしてまた互いが歩き近付く。
示し合わせたように、演舞のように。
無論、互いにそうしたくしているわけではない。
安易に攻めれば瞬間に自分が殺されるのだと、そう分かっていた。故にこそ、距離を詰める。動ける瞬間を見極める。敵を殺し自分は死なない距離と刹那を。
再び短い静寂。
もう一度、蒼焔がぶつかり合う。
今度は二回。大きな火と音が二つ。
がぎぃん。
イドの兜が弾かれて飛んだ。
兜が無ければ、肉が削げていた場所。
対するニコの手傷は浅い。
脇腹部分の鎧が焦げ付くが、それだけ。
故に今回は、ニコが退きはしない。好機と見て駆ける。鎌をぐいと後ろに引いてから、風を破壊するような突き。半身になって避けた騎士を追うように鎌を振るう。
しかしイドもまたそれを食らうでもなく、逆手で構えた剣で防ぐ。どころか剣をそのまま地より跳ね上げ、ニコの頭部を顎から切断せんとした。
ぐぉ、きん。
鋼の断たれる重い音。ニコの兜が真二つとなる。兜に留まらず顎部がぴしりと裂けた。傷を負いがくりと崩れ込むニコに、しかし追撃はしない。
この崩れ方は、わざとらしい。
蛇のような、卑らしい、絡めとるようなもの。
“こんなもの”、イドが知っているニコは、しなかった。憧れた彼は、ただ実力と洗練された技術だけで、全てを圧倒していたというのに。
目の前の男は軽薄に距離を詰め、構えすら曖昧で、虚策と心の隙間を狙うような、それでいて実力は裏付けられた。そんな歪な戦い方をしている。
「…ははっ、悲しいなぁ。本当に俺たちの幸せを思ってくれるなら、抵抗しないでくれよ。今、ちゃんと襲いかかってくれてもいいじゃないか。それとも、俺らのことはもう嫌いかい?」
「黙れ。あんた…いや、『お前』は。お前が考えてるのは自分のことだけだ!薄っぺらな自己満足に巻き込むな。そんなへらへらと、俺たちの事を口にするな!軽々しく『俺たち』などと言うなッ!」
怒りを。悲しみを。
全部、忘れるように大剣を担いで飛び込む。
勢いのままに叩きつけ、地面が抉れ壊れる。その大振りを咎めるように避けた鎌は鎧の合間を縫って、青い焔で肉をいくつも焼いた。それをすら振り払うように力任せに剣を振るう。当たらない。
(もっとだ、もっと、もっと…ッ)
イドが戦う時。
彼の心にはいつも怒りがあった。その怒りのままに身体を振るう。動かす。凶暴性に身を任せる戦いこそが彼にとっての常勝であったのだ。
だから、イドは困惑していた。彼の心には怒りがある。いつもより、更に強い怒りが。殺されたゴイの恨み。ニコが口走る言葉のおぞましさ、自らを邪魔するもの。それら全てに。
であるのに、それも少しだけ塗りつぶすようにとてつもない、悲しみがあるのだ。それは虚無感に苛まれ力が抜けていくほど。
「ぐッ…!」
鎌が、ぐねりと曲がって右腕を裂いた。
鎧を貫き上腕部分が焼ける。鮮やかな切り口であることと、熱で塞がることにより、失血が少ない事だけは救いである。
代わりに反撃の大剣が、またニコの鎧を剥いだ。
彼の纏う鎧は気付けばずたぼろだ。
戦況は、圧倒的にイドが不利である。肉が抉られ焼かれ、次第に動きが鈍っていく。速さで圧倒的に上回られてしまっているのだ。
しかし一方で、一撃でそれが覆る可能性もあった。鎧が剥がれたということはつまり、その部分に一撃でも当たれば、それは防ぐものも何もなく致命傷になるということなのだから。
ばきぃん。
「「!」」
互いの武器が、互いの手が離れて空を舞う。音叉じみた形の槍剣がそれぞれの刀身を絡み取り、手の内より弾かれて遠くへ飛んで地面に突き刺さる。
だが戦士たちはそれを拾いにいくでも無い。
ただ真っ直ぐに対手に殴りかかった。
みち、と二つの不愉快な音。
イドの鼻骨が折れて鼻血が噴出した。
ニコの鳩尾に拳が半ば刺さり、胃液を吐いた。
どちらもよろめき。
その直後に蹴りが交差した。脚甲が割れていくような激しい衝突を、更に二回、三回。最後に放たれたニコの地を這うような回し蹴りを跳んで避けて、空中よりストンピング。避けられ脚が地面にめり込んだところを狙う刃物の如き手刀を、転がるようにして避ける。
そうして転がり、四つん這いのような体勢になったイドは、そのまま四肢全てで地面を蹴り上げ跳躍し、猛烈な勢いでニコの前に跳び躍り出た。
足の間でがしりと両腕を封じながら、地面に倒れ込み、マウンティングの状態から衝動のままに殴りつける。殴り、殴り、殴りつける。幾度も殴る内に、いくつかがガードをすり抜けてニコの精悍な鼻を、歯をへし折った。
「死ね、死ねっ、死ねッ!」
その発言も、行動も。
喧嘩をする稚児のように幼稚で。
きっとその表情も泣き出す前の童のようだ。
がくり。
身体が揺れた。
全身をうねらせて下半身を浮かし、信じがたいことに。鎧を纏う成人男性という重りが乗っている状態であるにも関わらず、ニコはその状態でぐるりと素早い後転をしたのだ。
予想外の動作に体勢を崩しかけつつ受け身を取る。
次の攻撃に備えたが、それは来ない。
見ればニコは折れた鼻をごぎりと無理矢理元の位置に戻しながら、鎌を拾いにゆっくりと歩いていた。
それを見て、ただイドも同様に剣を拾いに行く。
「ったたた。
はは、これでおあいこの色男だな。
殴り合いじゃあお前にはもう勝てないな」
「……本当に、強くなったな」
ずきり。
正気の残滓のように、最後の一言を言う時のみ、彼の表情からほんの少しだけ狂気の色が失せた。頭が痛むのは、先ほどまでの肉弾戦で痛めた故か、それを見てしまった故か。
「……黙れ。反吐が出る」
「はは、はははハハはハ」
けらけら。何がおかしいのか笑う。
その笑みによる隙の発露は無かった。
肉弾戦による傷で互いに止めを刺すことは出来ない。致命傷を与えるまでの、隙を作る程の傷を負わせることはできよう。だが結局のところ二人の間の実力がこうも拮抗しているのならば、打撲による傷もすぐに治る程度のものしか作れはしない。致命的な傷を負わせることも、隙を作らしめる傷も作れはしない。
だからつまり、斬り合うしかないのだ。
ただ不死者だけを切る為である筈の剣で。槍で。
互いの、血をも分けたような兄弟を。
「さァ、まだまだ時間はたっぷりあるんだ。
ゆっくり、じっくり、楽しもうぜ。
どっちかが死んじまうまでな」
そう宣う男を、ぎしりと睨み立てる。
イドのこめかみに、つうと汗が垂れた。
………
……離れては、近付いて咬合をする。
どちらかが少し崩れる。
それを負って片方が攻める。
また応対し合い、離れる。
そうして咬合をする。
そんな遣り取りを、何度も、何度も、何度も繰り返す。飽きるように、何度行ったか数えるのすらやめるほど、短い命の遣り取りを繰り返し繰り返し行っていく。一度たりとも気を抜けば瞬間に四肢が落ちるような緊迫を、何百と繰り返していく。
気の遠くなるような地獄を繰り返していく……
「……ッ!!ハァッ、ハァ、ハァッ…!」
がらん、と剣を握る握力まで足りなくなる。先に膝を付いた者は、イド。もはや滂沱のような汗すら垂れず、脱水と疲労、極度の限界が彼の身体を蝕んでいた。
その様子を、鎧が壊れ果てた見窄らしい姿で。しかしそれでいて、イドより余裕がある背姿で見下ろすニコ。鎌を振り上げてそのまま殺さんとする。ゆっくりと振り上げ、楽しい時間が終わった子供のように寂しげな顔のそれを、背を向ける勢いで距離を取りなんとか避けた。
「…なんだよ、もう最後か。
楽しい時間っていうのは早いもんだよな」
そうだ、これが最後のチャンス。
最早斬り合いでは、勝てない。
傷の様子も、残った体力も実力も。
全てが足りない。狂い果て、壊れようとも、彼の実力には到底及ばない。それがどうしようもない事実であり現実。
だから、一撃に賭ける。
ほんの少しでも勝ちの確率があるように。
「…!……へえ、いいね。面白い」
中段に構えていた剣。
それは敵との盾の役割を持っていた。
剣のある距離に近寄らせない、盾。
それを捨て、ただ敵を打ちのめす事のみを考えた最上段。それが今構えた状態だった。ただ剣を上に、そのままただ力任せに振り下ろす為だけの構え。ほんの少し残った力を全て、腕先に集める。
それを見て笑ったニコもまた、するりと肩を引いて、鎌を背中に乗せるようにまでじっくりと構えた。
互いに防ぐ事を考えない捨身の構え。
構えて、沈黙と静動が数秒を支配する。
次の一撃にのみ全てを賭ける。
怒りも悲しみも全てを乗せた一撃を。
狂気も信念も全てかなぐり捨てた一閃を。
さあ、いざ。
示し合わせたように、一対の地面を蹴る音。
空が裂けるような閃光が走る。
「オオッ!!」
「しゃあッ!」
…筈、だった。
そう、かち合う瞬間だった。
ぴくり、と。イドの視界に小さな影が映った。
その刹那の動作の翳りが、明暗をくっきりと分けた。
ぐちゃ、ぼろり。
右半分の視界が、真っ暗に途切れた。
そうなって初めてイドは。
自らの顔の右半分が切断されたのだとわかった。
目が見えなくなった唇から息が漏れ出る熱さ。
脳液がじとりと染み出るような感触まである。
「ぐっ……!ああッ!」
痛い。痛くて堪らない。
身体の大事な何かが溢れて溢れていくような痛み。生きていくに必須である体の成分が、みるみる無くなっていくような感触がある。視力を失い、口を失い、嗅覚まで半分を失い、頭蓋の一部まで刈り取られ。ただただ、痛みと熱さの感触だけがある。
だが、そんな痛みすら今のイドにはどうでもいい。
それはその次に来る痛痒の、微塵にも満たない。
ああ。もしそれが無くなるのならば、右半分どころか、首から上のその全てを差し出しても構わなかったろうに。
(………馬鹿な、なぜだ、何故)
彼は、あの時の判断を悔やんだ。
あの時に、短剣を手放さなければと。
彼が生まれてからずっと使い慣れ、共に戦ってきた武器。あれならば、あれを持ったままの熟達であれば、まだ勝てたかもしれないと。戦い慣れたあの武器があればもう少し、戦えたのではないかと。
彼は、あれを常に悔やむ。
死を覚悟して、遺すのではなく、戦うことにのみ重視をしていれば。近距離に於ける戦いを、最期の一騎討ちで、このニコを殺せたのではないかと。命と引き換えに、それでも何かを結果的に残せたのではと。
(なんで。どうして……)
…彼は、一生を以って悔やむ事になる。あの時に、『お前は強い』などと言わなければこうしなかったのではないか。自信をつけさせることなく、戦いからも遠ざければよかったのではと。
時を惜しみ、彼女を不意打ちで気絶させるのではなく、もっとちゃんと説得をすれば。付いてこないようにもっとちゃんと話せば。目覚めた後に自分を追いはしなかったのではないか。
彼は、永遠に悔やみ続ける。
彼の、自己満足で。短剣を授けなければ。
彼女はこんな事はしなかったのではないか。
(…どうして、クシーがここに来ている──)
死合は、長引いていた。それは気絶した彼女の意識を取り戻すに、余りあるほどに。
とん、とニコの背中を狙い短剣を持って襲い掛かる幼女の姿。それが一つ残った目玉に映る。映ってしまう。やめろ、やめてくれ。そう口が動く事も無い。反応も間に合わない。どうしようもなく届かない。庇う身体も動かない。出血と疲労が、全ての出来ることを奪っている。
ああ、そうだ。その、不意打ちが。
俺にすら通らないならば。
ニコに、彼に、通るはずなど。
ば、きぃん。
砕ける音。
彼の半生を共に過ごした短剣が、砕ける音。
…
……
…月が、狂いそうなほど綺麗な夜だった。
太陽すら欺くような灯りが見紛わなく照らしていた。
砕けた剣の破片。
竜の骨から削り出された音叉剣が粉になる姿。
破片が月光を受けて星々のように煌めいた。
その後ろの、まっかな色。
赤い血が。臓物が。
綺麗な紅色に、映し出されていた。
救いようの無い現実として。
変えようの無い事実として。
つきつけられた、本論として。
はらわたから当分された、俺の娘が。
「…………」
なんだ、これは。
今ここに、なにがある。
目の前に、起きたこれは。
こんなことが、あっていいはずがない。
これは、悪い夢だ。
そうでなくてはならないのに。
びちゃり。
頬に、鎧に。
全身に彼女の血を浴びる。
まだ生暖かく、酸素の香りすらする。
目の前にあるものはどうしようもなく事実で。それを疑わせないほどに、目の前の全ては、きれいだった。
美しき光景はそのまま、残酷さだった。
からぁん。
反射で裂いたニコの顔が大きく驚愕に歪んだ。失態をかました自らの、取り返しのつかさに表情が曲がって。
そうして、目を見開いて槍を取り落とす。
鈍麻した時間感覚は、そんな表情の変化も、切断された肉塊から命が失われていく様子も、じっくりじっくり、見えた。
(……無い、だろう。それは無いだろう)
だめだ。そんなの、だめだ。
俺はだって、君のために、せめて君を。
ぱくぱく、と。
上半身だけになった、君が口を動かす。
息もまともに出来ず、ただ、ただ苦痛に喘ぎ。
そのまま死にゆくだけの、最期を表す動き。
散々に見てきたもの。
自分が殺した様々で、よく見てきたものだった。
君は俺を、最後に至るまで呼ばなかった。
直前も呼んだ呼称は、ただ恥ずかしそうにぼかした。
だから最期に初めてそれを聴いたんだ。
君が遺した、最期の言葉で。
「…、て。」
「…おとう、さん」
夢うつつなように。
気が遠くなるような痛みに苛まれながら。
それでもちょっとだけ恥ずかしそうに。
きみはうごかなくなっ
うごかなく
なった
「……ッ…ア、ゥ、アァ」
口も半分が無くなって。
声を出すのもそんな呻き声しか出なくて。
這いずり寄った君は目を開けたまま力を失っていて。血を大半失った君は驚くほど早くひんやりとしてしまって。
感覚が。視覚が。嗅覚が。五感全てが。
月が、石畳が、王城が。世界の全てが突きつける。
現実が、これだと。
「……アアァァァアアァァァァアアア゛アァア゛ア゛ア゛ア゛ァア゛ア゛!!!」
……俺は、散々に人を殺してきた。不死者も魔物も、命を奪ってきた。それはそれで、いい。罰を受けるべきだ。
だけど、なんだ。
彼女が何をした。
クシーが何をしたというんだ。
こうなるほどの罪を犯したのか。
産まれながらにしての咎人だったとでもいうのか?
こんな、どうしようもない死を迎えるような。
そんなはずがないだろう。
無いに、決まってるじゃないか。
なんでどうして、こんなことになるんだ?
「…オ、ゲぇ、ゴボっ、げボっ…」
ニコが、激しい嘔吐をした。
襲い掛かる者をただ反射で切り裂いた彼は、その襲撃者を判断するような時間は無かった。だが、だからそんなつもりはなかったと、そうして赦されるわけでもない。
だからただ正気の残りを全て吐き出すように。
「俺、は、俺、110番、俺は、何が……」
極度の疲労、出血、精神の打撲。
その全てが二人の視界を揺らがせる。正気と意識がぐらぐらと揺らいで、夢の最中のような、幻惑の最中のように世界が広がっている。
だから、それを見たのも夢だったのかもしれない。
幻覚であって、事実は別だったのかもしれない。
そのようなことは、無かったのかもしれない。
だが、確かにその認識で見たもの、それは。
ただ血を流すだけだった、ゴイの生首がざわりと髪を逆立てて。怨念と執念を持って跳ね上がり、嘔吐を続けるニコに噛み付いた。
獣が、喉笛を貪るように。
婢女が、最後の抵抗をするかのように。
「……オ…マエ…」
「……オマエ…ダケ…デモ…」
それも幻聴か、気の迷いかわからない。
何にせよ聞こえなければ良かったのだ。ただそれが聞こえてしまったあまりに、イドは、まだ歩き続けなければならなかった。
お前だけでも。
その言葉がわからない筈は無い。
全てが死に絶え狂ってしまっても。
それでも、尚、それでも。
『せめて、お前だけでも』
そしてまた、娘の最期の言葉。
掠れて、消えかけたあの言葉。
あれがどういう言葉だったのか、わかってしまう。
わかりたくもないのに。
『生きて、お父さん』
「………ッ!……ッ……!
ウ、ゥ…!ォ、オ…」
…希望は生を喚起する病。
ではその先にあるもの。
希望を超えた先にあるものは。
絶望とは死を呼び込む災い足るか。
それは、きっと違う。
そうでなくば、まだこうして、絶望に呑まれた者であろうとも、這いずり、泣き喚きながら、引き摺って逃げて走るものか。
逃げた。
ただただ、出来る限り早く。
足を動かして、逃げていった。
追いかけられることは無かった。
ニコでなくても。ただ、刺客一人でも居れば、その糞みたいな人生も終わらせてもらうことが出来たろうに。
それは、そうはならなかった。
…
……
─夢を。夢を見たんだ。
『およよ。どうしたィ、イド。
すんげえ顔してんぜ。寝てた方がいいんじゃねえか?』
ああ、大丈夫だよゴイ。
ただひどい夢を見ただけなんだ。
びっくりするくらい、救いのない夢を。
『…無理はするなよ、110番。お前の代わりなら務められる。肝心な時に、お前に抜けられる方がよほど損失だ』
そうか、ニコ。
あんたはいつだって、そうやってすました顔で、誰よりも俺たちを心配をしてくれているな。
『ま、でもイケるでしょ!イドったらいつもそんな辛気臭い顔してるしね!ク、アハハハ!』
…ひどいな、ナナ。
最近はそれらしくしてるじゃないか。
そうでないとあの子だって怖がるしさ。
『それに、今日は終わったらみんなでピクニックだから!久しぶりの、パパたちと水入らずでね!だから休んじゃだめだよ!』
『ね、クシー?』
そうして、君が目を向ける先には。
ああ、少し怯えたような目で。
それでいて、それでも、俺に話しかける。
俺の……
『…うん。一緒に行こう?お父さん』
「ーーーッ!!ガ、ッハァ!ハッ、ハァ…!!」
削ぎ取れた右半分の顔面の激痛が、俺を微睡みから覚醒させる。残った左目で見ると、断面を烏が抉り食べていた。
手でそれを引き裂いて、逆に捕食をする。
少しでも、失った血を戻すように。
右半分の世界が暗い。
顔が痛い。痛い、いたすぎる。
ああ、その痛みが、暗黒が理解させる。
この鎧に付いた血が全てを理解させる。
「…ああ、あっ、…」
俺はもうぜんぶを失っていて。
今の夢は、ぜんぶ、手に入らないものなのだと。
「……あ、ああ…うっ、ひっ…」
「……うわあああああああああ……ッ!」
…
……
それでも、身を引きずって歩き続ける。
どこが目標でもない。ただ、逃げ続ける。
生きる為に、死なない為に。
血の匂いに誘われた魔物も殺しながら、進み続ける。朦朧として、記憶は曖昧で、ただ襲ってくる相手を殺して、殺し続けるような旅路。ただ血を啜りながら歩く、吸血の鬼じみた醜い旅路。
どれだけ歩いたかも分からない。
まだだ。
まだ、死ねない。
ごうと、杖にしてある剣より燃え盛る青い焔。
獣、虫、木。
火は、全ての生命に死をもたらす。
故に炎の中で命を躍動させるもの。
それはつまり、現世の存在ですらない。
削ぎ取られてしまった半分のように。きっと彼はこの時に、半分、彼岸の生き物となったのだ。
そうした旅路も、限界を迎える。
べちゃり、と何処かの町の往来で倒れ込んだ。
そこに辿り着いたのは、本能じみていたのかもしれない。どれにせよ、その倒れ込んだ先は彼の命を救った。
そこは、世界樹の街。
そうして意識を失う前に最後に染みついた記憶は。
ただ、死体を見る目でこちらを見る女性の姿。
憐れむように自らを見る、女主人。
「…うわっ!なんだい、これ。全身まっかっかじゃあないか。通りで客がこないはずだよ。ったく、その分稼いで欲しいとこだけど…ホトケに言っても意味無いか。ダンティ!水持ってきとくれ!」
「…ったく、しかしひどい死体だね…
可哀想にな、せめてちょっとは弔って…」
「………ん?
……おい、おい、おい!生きてる?信じらんない!
ダンティ!担架!バケツ置いて担架持ってきな!」
…
……
右の半分が暗闇に染まった視界が開く。
そうして、がばりと身体を起き上げた。
全身に判断が届くより早く、反射で跳ね起きた。
「うわっ…ほ、本当に生き返るとはね…」
見れば、干草にイドは身を横たえていた。
ふかふかと、気持ちのいい日向の匂いがした。
彼が半生を眠らせた寝台より、ずっとましだった。
「あ、あー…悪いね。あたしはセーレ。
最初はベッドにやってたんだけど、お前さん血だらけで使い物にならなくなっちまうし…何より、正直もうダメだと思ってたから…」
言い訳をばつが悪そうに並べ立てる女性。
それをすら聞かず、ただ騎士は今の自分の格好を見た。
鎧を着ていない。
半狂乱になって、セーレの胸ぐらに掴みかかった。
「鎧、俺の、鎧はどこだ!?」
「うわっ!?ちょっと、一応あたしはあんたの命の恩人だよ!?手荒な事はやめておくれよ!」
「鎧、鎧だッ!
どこに脱がしやがった!どこにあるッ!!」
「…あ、あっちだよう…」
びくびくと震えるセーレに目もくれず、走る。
そうして辿り着いた納屋に、ぼろぼろの鎧があった。
鎧についたのは、赤黒く染まった血の跡。
銀色の鎧は、もはやその面影すら無い。
ひたひたと、汚い血錆。
血錆まみれの、薄汚れた鎧。
これが。これだけが。
この、汚い血錆だけが。
今や、クシーを。
彼の娘を証明する、ただ全てなのだ。
安堵か、絶望か。
まだ生きている故の怨嗟か。
はたまた、狂人の誕生の産声か。
ただ、鎧にしがみつき、泣いた。
人目を憚らず、泣き続けた。
「う、あ、あああっ」
「あああっ、あ゛あ゛あ゛あ゛…」
「……なんだってんだい」
困惑するセーレも見ず、ただ一人、ずっと。
そう、ただ一人。
もう、彼に付く人は誰もいない。
家族も、仲間も。
もう、だれ一人、いない。
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