願わくば何者も救われない結末を
イドは、小さな声で子守唄を歌い終えた。歌い終える、というよりは尻すぼみに消えていくような、不完全なものだったが。暫く遠くから聞こえる祭りの喧騒と遠くを見やる視線だけが空間に残った。
その遠くを眺めるイドを、クシーはずっと見つめていた。視線は、どうにも虚ろで、虚ろでありながら、そしてまた惜しむような。何かを悔やんで懐かしむような慚愧の念があった。
それは、これから失う平穏を。この幸せを手放す事を、惜しんでいたのかもしれない。
もうこのままで、いいではないかと。このまま、寄り添って生き合う、つがいであれば、と。
だけれどそれでも。
彼はおもむろに、服を脱ぎ捨て始めた。クシーが与えた白い正装をゆっくりと、それでいて確実に脱いでいく。彼女に与えられたものを捨てるように。それを視覚的にアピールするよう。
あっという間に、生まれたままの姿となった。
その姿に猥褻などは無い。
それは、そういうものを超越している、などという大層な意味でない。
ひび割れが入ったように心臓部のみ黒く蠢き、その他全てが青白く、末端は焼死体のように炭化している。ただ生命活動を続けてることが不思議なほど枯れ果て、不気味に、おぞましさのみがあるという、意味。
彼の裸体は即ち、見たものが生理的嫌悪のみを抱くようなものだった。
そういう状態で、イドはそっとクシーに手招きをした。おいで、と彼の腕の内に収まるように。
クシーは悩まずそこに行く。
食虫植物にゆっくり溶かされる蝿のように。
それでいて、誰よりも幸せそうに誘われて。
誰が見ようと気色が悪く思うだろう彼の裸体は、彼女にとっては何よりも愛おしく素晴らしく、可愛らしく庇護的で、英雄的な姿だった。誰よりも何よりも、愛したものだった。
「なあ」
「うん」
「俺はお前を愛している」
「うん」
「だからお前を殺すよ」
「うん」
二人は顔を見合わせて、額を合わせ笑った。
屈託の無い、和やかで純粋な笑顔だった。
純粋で、無垢な感情。
ただ、それでもそうだ。
狂った人間が出力する愛の形はそれしか、ない。
キュート・アグレッションの出力が壊れた、狂人。
だからそうして笑顔のまま。
とん。
イドはクシーを抱えたまま飛び降りた。
城壁の高く、高く。その上から、クシーの両腕をぎちりと掴んで封じながら身を投じる。風を切って赤黒い血の染みになる、はずの投身。ばたばたとクシーのドレスが風に激しくはためく。
「きゃっ…あははっ!」
ぶわり。翼が展延されて勢いが消える。空中の制動を急激に行いながら、それでいて飛び降りた二人に衝撃は少したりともフィードバックされない。少女の背からその華奢な姿に見合わない強大な羽根が、笑いと共に悪魔のように生え、着地までの衝撃を全て消し去った。
そうして腕の中の愛しの彼をそっと地面に置いた。
するとイドは、自らの体内に腕を突っ込んだ。
いつの間にそれをしたのだろう。
正気では無い、と、クシーすら思った。
彼は腑の中に剣を隠し持っていたのだ。
あの、スティグマの片手半剣。
身体を、全身を焼くような痛みを与えるあの剣を、竜と同一化した自分の不死性に無理を通して、『身体に埋め込んだ』のだ。
「さあ、始めよう」
ぶちぶぢと癒着した繊維を無理矢理ちぎりながら血を流して剣を構えんとする姿。痛みすら感じていないその姿。
なぜ感じていないのか。神経の異常?精神の異常?
きっと、そのどちらでもある。
それでいて、痛みなど忘れるほど高揚している。
「…う、ん…わかった」
クシーはぞくりと。嫌な予感がした。
背筋に、何かが這うような不快感。
それはまるで、死の予感。
どちらが、死ぬかもわからない。
なぜ、イドはこのように高揚しているのか。
ただそれだけが不気味だった。
「その、良いんだけど…さっきの服、脱がなければよかったのに。私の鱗から作ったから、きっと着たままだったら大体の攻撃は無力化できたと思う」
「ク、ハハ。お前からもらった鎧を着てお前を斃そうとするやつがあるか」
イドが、笑う。
その笑顔にはさっきまでの無垢さは、無い。
狂気。殺意、憤怒、狂気、狂気。
全てを埋め尽くしていた。狂気に染まった黒い脳漿が全身を駆け巡って彼という人間の全てを真っ黒に穢して、戻りはしないように。
そうして、いつものように。
クシーは臨戦態勢を取ろうとして。
耳を澄ました。
イドがそうしているように。
何かを確認してる彼を理解しようと。
そこでようやく彼女は薬指の契約を読んだ。
ごく、久しぶりに。
彼の心を読もうとして、初めて気がついた。
(『契約』から記憶を読み取ろうとするな、無粋だろう。時間はたっぷりあるんだ。ゆっくり、続きを話そうじゃあないか)
彼が、過去を語る際のこと。
何度か言っていた。
言い聞かせるように何度も言った。
契約を使うな、思考を読もうとするなと。
話すのだから、心を読むな、と。
なぜだ?
どうして、それを読み取らないように仕向けていた?それは、彼の中にある計画を読み取られないようにということはわかる。ではその彼が行おうとする竜の抹殺計画とはどんなものだ?
そうだ、『なぜ』?
なぜ、彼は『自分の過去を長々と語った』?
彼女にそれを、教えたい、だけなら。
それこそ契約で記憶を共有するのみでよかった。
であるのに、何故口頭で伝えたのだろう。
その答えはただ目の前に出される。
いつから。
彼女はその思うがままに契約を使うのをやめただろうか。耳を澄まして、彼の思うものを聞いた時に。その、答えを知った時に。そっと彼女は青ざめた。背中にまとわりつく不快感がそのまま、ひやりと撫ぜた。
「…ああ、そうさ。俺はお前になりつつある。
お前との同一化が進み、このように竜鱗が身体から生える始末だ。そうしてお前と俺の身体は、一種類になりつつあるんだ」
「無論、不完全で中途半端だがな。俺はまだ首を落とせば死ぬし、心臓を止める事も出来る。お前ほど完璧な生き物でも無ければ完全な不死なわけでもない。だが、問題はそこじゃあない」
「俺は、お前が出来る事を少し出来るようになってるんだ。お前が喰らって、モノにした不死者の性質の真似事。それを、ほんの少しだけだがな」
遠くで土煙が立つ。
無数の音が聞こえる。足音。獰猛な音。
強烈に何かを怨むような怒りの音。
「ドルイドの物との同一化は無理だ。
ゴーレムの肌の硬質化も…はは、瘡蓋より脆い。
バンパイアの権能もその殆どが出来ない…」
「…………たった、一つ。
たった一つだけできるものがあってな。
ちゃちで、陳腐で弱々しい。
それはバンパイアの力の一つ。
コウモリの力、超音波での周囲への伝達だった」
びくり、と。クシーが震えた。
超音波での伝言。そう、された時を思い出した。
セーレに、彼女に。
弟たちを看取ってくれてありがとうと言われた時。あの時、自分が殺したなど言えず、言えずじまいで彼女は死んでしまった。
よりによってイドがそれを使えること。それはまるで、そんなクシーを罰するかのようで、ずきりと何処かが痛んだ。
「俺がどうして、こうも長々と語り続けたと思う?
それで読み取るな、と、契約を封じるためでもある。だが、何よりこの出している音に気付かれ無い為さ」
クシーにはその声はきっと聞くことは出来た。
否、確実に出来たはずなのだ。
竜である以上、それは彼女の可聴域なのだから。
だけれど、それでも彼女の耳には。
クシーが聞いていたものは。
「……ああ、ああ。信じていたよ。お前なら、きっと熱心に俺の話を聞いてくれると。誰よりも何よりも、きっと全てより優先して、『雑音』など眼中に無いくらいに、熱心に聞いてくれるとな」
…どこそこの逸話で。
ある熱心な男は、あるものの説法を聞くに集中するに余り、一言一句違わず覚えていたという。そして、集中の余り、説法を聞いてる最中に手術をして背中を切り裂いても気づくことすら無かったと言う。
何かへの盲目的な信仰や熱中は視界を狭まらせる。それは恋や愛なれば、尚のことだ。
「お前に、心を読むのを自主的にやめさせる必要があった。俺の心を読まれて仕舞えば、そも成り立たない。それでいて俺の不審に気付かれないような内容で…」
「…ああ、そうさ。お前を殺すためなら。
喜んで俺の過去を切り売りしよう。
俺の血濡れた過去すら、踏み台にしていい。
それくらいお前を
足音が近づいてくる。
大量の、恐ろしい数の足音。
憤怒の足音。
彼女が大量と思う、更にそのそれ以上の数。
もっともっと多く、更にそれを上回り。
魔物の羽音。足音。
玉石混合、雑多に大小さまざまな魔物の音。
動物がただ獰猛になったような魔物から、『世の淵』から現れ出た全身が糜爛した恐ろしげな魔物まで。そしてその誰もが怒っている。
「…まあ、過去を話し終えても、まだ足りなかったのには困ったよ。もっと、もっと。お前を斃すには絶対にもっと数が必要だった。だから時間を稼ぐために、外に誘ったんだ。今日一日、お前と日を過ごしながら、あいつらをずぅと呼んでいた」
「さあ、怒っているだろうよ。あいつらには散々に教えたからな。お前たちの子やつがいが居なくなったのは俺のせいだと。それで怒り狂わないものなど、結局いないんだ。クハ、ハハハ」
それは、自分もそうだったから?
そう喉元まで出かけてからクシーは飲み込んだ。
代わりに、首を、喉を竜に戻して、吠えた。
その咆哮は、眼に見えた。
爆音が神経に作用したのか、強大な生き物が発する威圧感による幻か、もしくは実体化した音の衝撃か。空気を切り裂くその咆哮は魔物を威嚇する。だがしかし、それでも引かない。まるで身を裂かれても復讐に身をやつした誰かのように。
「…なるほど。すごいね、イド。
でもね、どれだけ集めても。
あんなにたくさん集めても、私は…」
そうだ。
魔物をどれだけ集めた所で、物ではないのだ。
結局のところ、竜とはそれだけの強度の生き物。
生物としての格が異なる存在。
それこそ圧倒的な悪意を持つ人間以外には。
そう言いかけて。
また、止めた。
まだ、一つだけ。
『なぜ』が残っていた。
『なぜ、鎧を脱いだ』?
さっきは、施された物を着たままなど、と言っていた。だが違う。イドは、彼は、殺すためなら、目的を達するためならそのような誇りも捨てるし反吐すら啜るだろう。そういう、男だ。そう、ならざるを得なかったのかもしれない。
「そうだな。この程度の魔物、お前はどう逆立ちしても負けないだろう。そうでなくても、お前ほど強い生き物なんていない」
「だけど、俺はどうだろうな」
いよいよ近づいて来た魔物どもの群れ。
イドは裸身をその群れに向けていく。
それで、ああ。ようやく分かった。
彼は死ぬ気なのだと。
ぞっと全身が粟立って。
全身を駆動させてイドを守らんと体躯を迸らせた。
脚の速い獣がイドの首筋を噛みちぎらんとしているところを、間一髪で防いで殺す。イドは当然のように、それに防御する素振りも、対応することすらなく。寧ろ、掌の中の銀剣を煌めかせた。
瞬間に、クシーの首筋に深い裂傷が付いた。
じゅうと焼き爛れるような痛み。スティグマの剣。
「そうだ。これから先、俺は魔物からの攻撃に反抗しない。お前はそんな足手纏いを。全く、抵抗しようともしない俺を。守りながら、戦い切れるか?」
「……クハ、ハハハはハハっ。
食われる俺を守りながらこの魔物どもを鏖せるか。
そうしながら、俺と闘えるか。
俺の自殺を防ぎながら、どれだけたたかえる?」
「お前は、俺を守ってどれだけたえられる?」
歪んでいた。
わらっていた。
目玉から。口から。竜鱗の全てから。
内側の黒い何かが溶け出すように。
臭い泥が溢れるように。
目も口も中身も、全て黒い泥になったように。
でろでろと汚いものが漏れ出て零れていく。
彼は、人質を取ったのだ。
彼自身という人質。
愛を担保に、逆手に取った投身。
絶対に彼女が自分の自殺を止めるという、確信。
それを、感情と愛を利用した殺害計画。
ああ、ああ。
愛とはまさしく、どれほどの猛毒だろうか。
その効能とはまさに、完璧な生き物となった始竜を、有為転変をも超えし無敵の存在を。ただの人のなり損ないにまで堕させたのだ。
「……あはっ、はははっ!」
それら全てを確認した。
契約を感じて、騎士の全てを理解した。
そして額に脂汗を、冷や汗を掻いて。
そうしてしかし、クシーは笑った。
本当に嬉しそうに。
ただただ喜ばしそうに。
悪態の一つも、貶しも一つもなく。
「そっか。
確かにそうされたら、私は竜体になって薙ぎ払うこともできないね。もし巻き込んだらイドまで死んじゃうもん。だから私の作った服も捨てちゃったんだ。それだけは、ちょっと傷ついたな」
「……嬉しいな。
私ね、貴方のそういう所が好きになったんだ」
それは、本音だった。
邁進する姿が好きだった。
生き汚く、それでも進む姿。
何かを殺すという非生産にそれでも突き進む姿。
身体を引きずって、地獄に身を進める姿。
周りの全てを巻き込んで地獄を突き進む姿。
クシーは、その姿を。
初めて、美しいと思ったのだから。
あの時に、きっと。
どうしようもなく惚れてしまったんだから。
彼のその全てを愛する足がかりは間違いなく、そのどうしようもなく餓鬼らしく暴れ回る、地獄を進む姿だったから。
「ねえ、ひとつだけ聞かせて」
「……なんだ」
「…私を、今日デートに誘ったのは。
この魔物を呼ぶため、それだけのため?」
「それは…ッ」
くすっ。
渋い顔をして、言葉に詰まる騎士の姿。魔物の迫る轟音を背中にクシーはまた最後に花の咲くように笑った。これ以上なく満足げに。そうして、涙を一粒流して。
「その、言い淀みだけで十分。
愛してるよ、イド」
…ああ、願わくば。
彼女の愛が報われない復仇を。
そして愛を裏切った騎士に、救われない返報を。
だからただ、誰も報われない結末を。
遺された命はそうして、裁かれてあれ。
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