歪んだ虹彩は瞳を閉ざす





「ははは。すげえな。

本当にやっちまうんだもんな。本当に成功しちまうんだもんなあ。運がいいんだか、神さまに愛されてんだか。無謀でも、馬鹿な作戦でも、成功させちまえば誰も文句言えないよなあ」



大仰に遠くを眺めるように目を細め、さっきまで磔が立っていた所をじっと眺めるニコ。

その頭を啄もうと、翼を持つ魔物が舌を伸ばす。水鳥のような大きな嘴に、獣のような巨大な牙を持ち、爬虫類のような翼を持つ、異形だった。それを、蒼い鎌が切り裂き地に堕とす。



「ッハハ!活きがいい魔物さんだ!随分腹空かせてるし、沢山食うだろうな!最低でも皆殺しか!」


「…あんまりぼーっとしてても互いに危なそうだし、さっさと終わらせちまおうよ、妖精さん。それとも他の人を守りに行くかい?」



そう呼びかけられた、スリー。

異形に成り果てた妖精は、しばらくは、魔物が人を喰らう地獄のような光景に呆然としていたようだったが。その呼びかけで仮面を取り外し、ニコに殺意を露わにする。


その貌は、ベースはきっと、人だったのだろう。

ただ、口は毒蜂のような牙が尖り、だがその口の中には肉食獣のような牙が不揃いに生えている。否、その歯は口の中だけでなく、暴発したように、頬や顎からも生えている。

鼻から上は、あれは全て目なのだろうか。

昆虫の複眼のようと言えばそう。だがそれとも違う、数えきれない人の眼が凝縮したような峰球。それが幾つも幾つも付いている。


乱杭歯を口の中から撒き散らしながら。

目玉の全てをぎょろりと駆動させながら、蠢くような、呻くような悲鳴を上げた。それは威嚇や怒りのつもりだったろうか。ただ、その無理な改造は、スリーから怒りを表現する自由すらも奪っている。




「ハハ。まずはエィスを刺した俺を許さんって感じだな。OK.じゃ、やろうか」



死神は、歩いて近付いた。

焔の鎌槍を構えてすらない。肩にのせ、ゆっくりと。


妖精は意表を突かれ、一瞬止まる。

だが次の瞬間には早かった。

何本にも増えた尻尾は彼を狙い、三方向から彼を穿たんと亜音速で飛び、翅からは異常な色の鱗粉が飛んだ。



…死神は、平然と歩いている。

否、横槍を入れてきた魔物の方にすら向いている。半ば背を向けるようなそれに、だのに、攻撃が当たらない。

避けられたのか?弾かれたのか?


毒の鱗粉が喰らわない事は、仕方がない。

それは、以前のイドと同様のことである。

だが、この攻撃が当たらないのはどういうことだろう。混ざりすぎて、要領の得ない頭脳で、スリーは必死で考えた。



「…なんだ。つまんないな…」



思考が、止まる。


ニコは、ため息を吐いた。

さっきまで浮かべていた笑顔は消え、ただ真顔に。

殺気などは感じない。

悪意なども、感じない。

ただ、次にこう伐ろうという意思だけ感じる。先までは無かった、そういう意思。この軽薄な男は、さっきまでは、こっちを攻撃するつもりすら無かったのだ。


妖精には、あの鎌が、どう飛んでくるかがわかる。

無数の眼は動きの少しすら見逃さない。

みじろぎすら動きの予測に出来る。


であるのに、対抗する手段が無い。

尻尾で迎撃すればそれを切り取られる。

一斉に向かわせれば、同時に。

順繰りに攻撃すれば、それぞれ。

その攻撃に合わせて尻尾を動かせば良いか。きっと、この男はそれより先に尻尾を切り取るだろう。

ならば尻尾と共に、怪力で襲い掛かるか。

否。距離を詰めれば、瞬間に首を刈られて終わる。



いつだ?

スリーは、驚愕した。

それは、古い記憶。

まだ、ただの人間だった頃の記憶。

ごく単純なボードゲームをした。駒は一定の動きしか出来ず、相手の王を先に取ったものが勝ちの、ごくシンプルなもの。

あれの上手い人は、気付けばこっちは、どう動こうとも勝てない状況に追い詰めてきたものだ。


いつ、『終わって』いた?

今は、それとまるで同じだ。

どのタイミングでそうなったか、到底わからない。魔物の放流に気を取られた瞬間か。目の前に立ち塞がった瞬間か。エィスを助けようと攻撃をして、それを外した時なのだろうか。


わからない。

ただ、そうだ。

もう、彼は『詰み』を迎えていた。

気づかない内に、あっという間に。何を動こうと、どうなろうと、もう、死が確定していた。



だから、動けない。

白い死神が、緩慢に近付くそれに何も出来なかった。


その、歩いてくる時間。

展延された時間感覚の奥底で、ある記憶が浮かんだ。

走馬灯とも呼べるような、追想。


それは、彼をこんな姿に変えた男の姿。

ぐちゃぐちゃに身体を弄った男の姿。

スリーはそれでも良かった。

いつも、苦しんでいた彼の一助になれるなら。

異形となっても、友達の助けになれるなら。

意思すら曖昧になって、木偶人形となっても。



彼は、あのボードゲームが好きだったな。

さっきの傷は、大丈夫だろうか。

自分が死んで、悲しむだろうか。

悲しまないだろうな。ツウが死んだ時も、そうだった。

それでいい。そっちの方が、嬉しい。



「……ェ……ス……」



異形に成り果てた妖精の口は、最後に友の名前を呼ぶこともできなかった。スリーはただ、それだけ、エィスを恨んだ。



「…ハ。満足そうに死にやがって。

俺、ちょっとは期待してたんだぜ」



珍しい、嫌悪の表情。死神は、首を落とし、肢体を四つに等分に割くと、焔を消した。蒼い刃は消えて、残るは古ぼけた短槍のみ。



「やっぱり、俺が楽しいのは、あいつだけか。

あいつが暴れてなきゃ、つまんない」



うんざりしたような顔で、ニコは闘技場に目を細めた。

その真ん中にいる、騎士と少女。

手を結び合い、二人のみの世界を作る彼ら。


ニコは、それを遠くから見て。

愉しげに顔を歪めた。



「さあ、見せてくれよ。

もっともっと、尊いものを」








……





やはり。

生き物を殺すのは嫌いだ。


どれだけ考えても、どれだけ思おうとも、それは変わらない。殺す感触、焼き殺す感覚、恐怖の表情、自分が何を奪ったのかから眼を逸らせないこと。その目つきが、呪いが、忘れられないこと。

ぜんぶ、全部きらいだ。



でも、だけど、だから。

そんなものが、なんだというんだろう。

私ごときの感覚がどうだというんだ。

私の好き嫌いが、何だというんだ。



『そんなこと』、貴方が喜ぶならそれでいい。



私の背に、貴方の重みを感じる。

命を絶やす度に、貴方の喜びを感じる。背中に感じる確かな重みと暖かさが、私の苦痛を無視する、最高の理由になるんだ。


だから、こうも身体が軽いのだ。

それまでと、何もかもが違う。

どこまでも高く飛べそうだ。


そして何よりも。

口から溢れ出る、焔の存在。

今までのような橙色の炎ではない。


蒼い、蒼い炎。

魂すら焼き尽くすような、異形の、黒い炎だった。

この色は、幾度も見たことがある。

彼が、イドが、何度も何度も使った色。

貴方が使う力が、どうして私からも。


でも正直、理由なんてどうでもよかった。

きっとこれも、愛の力なんだって。

私が貴方を愛しているから。

貴方が私を愛しているから。

何より、理由なんてどうでもよく、貴方とお揃いになれたことが、ただ、たまらない気持ちになった。




「クシー」



『…何?』



「…今は、その焔についての説明はしない。まずは徹底的に火の手を回して、あの厄介に動く、エィスの『手』の部分を切り落として焼く」



『うん』



「あそこまで、飛べるか?」



『飛べない訳が、ないでしょ!』



ぎゅん、と飛び切り速く翼を動かした。

彼が冗談のようにそう言ってくれたのが嬉しかった。久しぶりの再会で、それまでのように話せたことが嬉しかった。何よりも、心根から伝わってくる、私が失敗するなんて、カケラも思っていない貴方の信頼が嬉しかった。



「ハハッ、恐ろしい速度だ!

振り落とされるかと思ったぞ!」



『ならちゃんと掴まってて!』



背中に、ぎゅっと抱き着かれる感触。

いつもはあんなに大きく、頼れるイドが、今は私のこの背中の少し分くらいしかない小さいものに感じて、可愛くておかしくなりそう。



『叩き落としてェ、やるゥ!』




『手』が、幾つも列挙して襲ってきた。

邪魔。イドの事を、考えられないでしょ。

憤りのままに、口から焔を吐いた。



『…ぐっ、アアアッ!クソっ、クシィィィィ!お前、『始竜』の子孫かァ!通りで強いはずだ、通りでボクの実験がうまくいかなかったはずだ!悔しいなあ、興味深いなァ!わかったその上で色々やりたい!もう一度、捕らえさせろよォ!』



何か言ってるようだったけど、正直、よく聞いてなかった。飛び回るのに精一杯だったし、何よりも、万が一にもイドが落ちちゃった時に、拾えるようにずっと神経を張ってたから。


それくらい、イドは背中で動いてた。飛び込んでくる、木の腕をその剣で切り裂いて、蹴り飛ばして、焼いて。私の視界の外から来るそれを、必死に崩していっていた。私を、守ってくれる。




「もっとだ!もっと、吐き出せ、我が翼よ!

この闘技場全てを燃やし尽くせ!」


『ならばもっと力を貸して、私の騎士!

貴方の、怒りをッ!』




契約が光る。

紅く、紅く、凶星のような光を放つそれから、貴方の狂わんばかりの怒りが伝わってくる。その怒りは、私の力となって、奥底から悍ましいばかりの力が溢れ出してきた。貴方から貰ったという事実が、胸を温かくした。



キアアアアアッ!ブレスそのものの音、焼ける悲鳴、私自身の雄叫び。その全てが混ざって、そんな音が、鳴り響いた。




「『手』は焼き尽くしたッ!

奴の身体を狙え!ずたずたに、殺すぞッ!」



『言われなくても、わかってるッ!』



そう。言われなくても、わかってる。

エィスを殺す。

その意思がたくさん流れこんできたから。私を痛めつけたあいつが許せないんだよね。沢山、痛い思いをさせたそれが、許せなくてたまらないんだよね。ぞくぞくと、背筋が粟立つような悦び。




『ねえ、イド』



「?なんだ、クシー」



『大好きだよ』



「そうか」



魔物も、観客も、殺し、殺して。

血の雨が降った。

それが、私たちの祝福の花吹雪のように思えた。

血みどろで、最低で、救われない。

そんな私たちにはお似合いの、最高の祝福。




「えへへ、血だらけだね。私たち」



「ああ。…拭くこともあるまい。

どうせまた、血に塗れるんだ」



「うん。そうだね」




人の姿になった私とイドが、全てを奪い尽くしたエィスの、唯一残った残骸に歩いて近づいていく。イドは、片方の足の具合が悪いみたいだから、ゆっくりと、引きずる足に合わせて。



「ねえ、私がいなければ、勝てなかったよね」



「ああ、勿論だとも。

これが成功しても、俺は死んでいただろうな」



「そう、だよね。うん。だから、その」



「…ああ。褒めるとも。幾らでも褒めてやる」


「なあ、クシー。お前がいてくれてよかった」



「…〜〜〜っ!えへ、うふふ、えへへ…!」




襲いかかってくる魔物も、逃げ惑う人々も、視界には入ってこない。私には、どうでもいい。横にいる、貴方しか見えない。

殺す目的だったエィスの存在も、イドが大剣を振り上げて、ようやく気付いたくらいだった。




『……手も足も、出なかったねえ。ちょっとは傷を負わせられるかと思ったんだけど…強いなあ、全くもって、強すぎる』




最後に、残った身体で人の形を作っていた。

エィスはそう俯いてから。

くつくつと嬉しそうに、笑い始めた。




『ふ、あは、あはは、あははは…

これは、わかったよ。君たちの強さ。

それは、君たちの持つ、愛の力さ』



『…ああ、良かった。やっぱり、そうなんだ。愛とは、素晴らしいんだ。愛は人を、生き物を、強くしてくれるんだ』



『やっぱりそうだ!よかった。ならばやっぱり、ボクは、間違った存在だったんだ!誰からも愛されなかったボクは、やっぱり、この世界にいないべき存在だったんだ!

はは、やったぞ、さいごに。

一番実証したいことが、でき…』




蒼い焔が、振り下ろされる。



瞬間、イドとエィスの間に挟まる影があった。

闘技場になったエィスの中から飛び出したそれ。

それは、身体を真っ二つに裂かれる。



『………は?』



「…ぐ、おお…お……!」




その影は、ドルイド。ああ、さっき見なくなったと思ったけど、こんなところに居たんだ。私には、どうでもよかったけれど。



「……む、すこ…や…」



ドルイドは、何やら満足そうにエィスに笑いかけてから、そのまま息絶えた。何か言葉を吐ければ、きっと薄っぺらい言葉を吐いたのだろうか。私はそれをどうとも思わなかった。



『何、を…』



だけど、それはエィスにはとても大きな意味があったらしい。さっきまで自身を哄笑していた彼は、ひどく顔を歪めた。絶望と怒り。後悔と、絶望。絶望と絶望。絶望が、占める割合が、どんどんと大きくなっていく。最後には、ただ、それしかなくなるほどに。




『……ああ、とうさん…

とう、さん…』



もう、人間ではないから涙は流せないけど。多分、エィスが人のままだったら、涙を流していたんだろうと思う。

やるせない感情を絞り出した、感情の潰れた涙が。こころが壊れた人だけが出す、こわれてしまった涙が。




『……あんまりだ。愛が足りないものは出来損ないだって、そう信じ込むために。それでも、自分の存在を肯定するためだけに、愛なんてものが出来損ないであると証明しようと、ずっと生きてたのに、こいつらを殺そうと思ってたのに』


『それが今になって、半分だけでも愛されてた、だって?そりゃ、ないよ。今更、すぎるよ』


『とうさん、あんたは、ボクを愛していたんだ。ボクは、例え半分でも、愛されてたんだ。ボクの前提条件も、実証も、ぜんぶ無駄になっちゃった…』



『………なんだったんだ。

ボクの人生は、なんだったんだ……』




最期まで浮かべていた、笑いが消えた。

歪んだ虹彩が、光を失い、閉じた。

ああ、そうだ。

きっと、命とかそういうのでなく。


エィスは、この瞬間にこそ『死んだ』んだ。




その光景に、何故か背中がぞくつく。


命が続いたままに、大切な何かを失う。

命よりも大切なホメオスタシスを失う。

そうして、命だけはあるまま、『死ぬ』。


その死に様を、どこか他人事に思えなかった。










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