羽捥ぎ
「……」
「何があったか話したくないのなら、今はそれでいい。だがすまないな、塞ぎ込む暇はない。悪目立ちをし、場所が割れた以上、急いでねぐらを変えねばならないからな」
「…うん。……ごめん」
「…お前が無意味にこんな事をするとは思えん。だからこれは、必要な事だったんだろう。謝る必要はない」
そうした彼の一言に、クシーは下唇を噛んだ。
その彼の信頼が、胸に突き刺さるようだった。
本当は、ただ身勝手に私が怒り、感情に振り回されただけなのに。それで迷惑をかけているだけなのに、と。
それでも、それを口にすることは出来ない。
そうしてしまえば、心の何かが壊れそうで。ひび割れた器が、少しでも衝撃を加われば割れてしまいそうで。
「さて、出るぞ。身体は大丈夫か?」
「うん、もう大丈夫」
「そうか。まずはそのくだらない嘘を吐くのをやめろ」
びくり。竜の身体が揺れた。
はっと、存在しない左腕の薬指を眺める。
何もない、など。大丈夫、など。
彼にはそんなことが大嘘であることなど、とっくに分かっていた。
それが契約という事のおぞましき事。
隠し事など、出来てはならないのだと。
「…いや、違うな。
そう強い言葉を使うべきではないんだ。
俺はただ、お前を心配していて…」
「…それでも、どうしても話したくないか。
ならば、まず『誰が』居た?
それだけでも教えてくれないか」
…
……
「……ニコ。奴か」
聞くや否や、イドの身体に怒りが充満する。
それこそ、契約の証から流れ込んでくるようで、消沈していなければ、クシーも共々怒り狂っていたのではないだろうか。
「あの、腐れ屑が…昔からそうだ。奴は他人を慮り気を遣うようにしながら、その実自分のことしか考えてない。
ただ奴が考える事は自らの利となる事だけ…ッ!」
ぶつぶつと怒りを撒き散らすイドを、クシーは半ば呆然としたように眺める。
彼は、イドはただニコの名前を出すだけでいつも、その怨讐の念にその身を焦がす。過去に何があったのだろう。彼らの昔には、一体どのようなことがあったのだろう。
だが、それを聞くことが出来ない。
『さっきまでに、何が起きたか』。
そう彼に聞かれて、あった事をそのまま話せたら良かった。そしてまた、イドに、真正面から聞けたならよかった。
過去に何があったのか。
何に復讐をしようとしているのか。
大事なヒトとは誰なのか。
『クシー』という名前は誰のもの。
大事なヒトとは、その『クシー』さんなのか。
きちんと問いただし、ニコが話したことは戯言で、全てが真っ赤な嘘だと言ってくれたら、なんだ、とほっとして彼の腕にまた何も考えずに抱かれる事が出来る。
ただそれで、もし。
そうだ、と。彼が言ったらどうする?
怖いならば聞かねばいい。だが、彼に、何が起きたかを詳らかに話すとするならば、彼に聞かずには居られないだろう。愚かな好奇が首をもたげて、二度と立ち戻らないだろう。
怖い。
何よりも、怖い。
ゴーレムの死骸よりも、吸血鬼の悪夢より、白い死神よりも。今の彼女には、イドの過去こそが、恐ろしかった。
「奴に、何を言われた。
何を吹き込まれた。話してくれないか」
親身に、少女の背丈に背を合わせ、目を見る。
かっちりと合った眼からは純粋な心配と愛を感じた。
「っ!あ、ああ…!だめ、ダメ…!」
その優しさが、愛する人の慈しみと愛情が。
クシーの心の蓋を開けていってしまう。
なんとか抑えていた感情が、溢れ出して止まらなくなる。彼に向けた愛、恋、愛情、重量、そして、疑念。
「だめ、だめ、だめ!見ないで、聞かないでっ!」
言葉にすらならない疑念の嵐が溢れてきてしまう。
思考にどうしても、溢れてしまう。
……それを、契約が伝えてしまう。
何とかしていた制御が、離れていく。
(私はあなたが愛した『クシー』の代わり?)
(それなら私はそれでもいい。でもだからこそ。もしそうなら私にそう言って欲しかった。初めて名付けた時に)
(代用品なら、それでもいい。貴方の愛情の向け方が、模造品に向けての妥協であったとしても、私を愛してくれた事実があるならそれで。でもそれでも、何よりも、あなたにそれが隠されてたことが一番つらい)
(勘違いしちゃったじゃない。
私が、私として愛されるなんて)
「違う、ちがうッ!わたし、こんな、こんなこと…思いたくないのにぃ…っ!」
頭を抑えて、がりがりと発作を起こしたように掻きむしるクシー。涙と血が混じりながら流れる液体は、彼女そのものが流れていってしまうような悲痛なものだった。
イドを信じたい。
愛する者を信じたい。
絶対的なまでに信奉したい。
神を愛するように彼を愛し続けていたい。
であるのに、疑念を考え続けてしまう自身が気持ち悪くて仕方がなかった。脳内に蛆がたかっているようで、掻きむしって掻きむしって、脳をむき出しにしてしまいたいくらいに。
クシーの、その心の音を聞き。
イドは驚愕したように目を開いて、そうしてからそっと目を閉じて。ようやくゆっくりと目を開けてから、口を開いた。
「…そうか。奴にその事を吹き込まれたのか」
「……白状しよう。それは、事実だ。
クシーの名は、俺の大切な人の名前だった」
ひゅっ、と。壊れた笛のような息を少女がする。
クシーは、いっそ冷静に思う。
違うと、一言はっきり言ってくれるのだと楽観していた自分がいた。きっとこの人は、私のそれを杞憂だと笑ってくれるのだと。飛んできた言葉は、そんな甘えた心を無慈悲に叩き潰した。
「だが、今は違う。お前はお前。
『クシー』とは、ただ竜のお前としての呼称だ」
「…ほんとう、に?」
「ああ、本当だとも、我が翼。
俺がお前を裏切ることなんて、最期まで無い」
心が、読めない。
目が見れない。顔が見れない。
なによりも愛おしいそれに、向き合えない。
心の声は聞こえない。
彼はそれを完璧に制御しているのだろう。
それでも存在しない薬指に意識を向け続ければ、彼の心は分かる筈。契約の証は、その深化を続け、同心となれるまでに呪われていた。だから、それをすれば真実は分かる。
だからこそクシーにはそれが出来なかった。
もしも、優しい言葉すらが嘘だったのならどうする。
彼が、まだ嘘をついていたのだとしたら。
それは何のための嘘だ?
少女を慰める為?それとも目的を達成する為?
もしもそれが嘘であったのなら。
クシーはきっと、彼に疑念を抱き続けてしまう。
それは、竜にはどのような拷問よりも辛い。
愛を、感情を、世界を、意味を、美を、何もかもを与えてくれた人をこの先ずっと疑ってしまうなど、どれほどの地獄だろう。身も心も擦り切れてなくなるほどの責め苦だろう。
「…そっ、か」
その心理の声は、契約を通してイドの耳に届いたのだろうか。それすらわからない。ただ少女の脳内には、声とノイズが列挙し、全てがわからなくなっている。
「……ごめん。
少しだけ一人にしてもらって、いい」
「!クシー!俺は本当に…ッ」
「その名前で呼ばないでっ!」
「……ッ……」
臓物まで吐き出すような悲痛な声。そう叫んだ後に、縋り付いて泣いて、必死に口づけをする者も、またクシーだった。
「…ごめんなさい。ごめんなさい。
本当に少しだから。すぐに戻ってくるから。
貴方の側から、もう離れないから。だから、お願い」
「……追手に襲われたらすぐに呼べ。
絶対に駆けつける」
「うん、ごめんなさい、ごめんなさい…」
「何故謝る。…謝るべきなのは、俺なのに…」
…
……
横に騎士がいないまま、道を歩く。
それ自体は偵察などでした事ではあった。
だが真の意味で、彼が、彼の意識が全く存在しない状態で、単独行動をするということは、初めて出会った時以来だった。
少女は無い左腕を庇うように身を縮こませながら、人のごった返す市場を歩いていく。肩がぶつかる、人に話しかけられる。中には迷子になったのかと手を差し伸べる人も居た。
それらを皆避けながら、次々と歩いていく。
先々に、止まらないように。
どこかが目的地というわけではない。
時間を経たせる事が。距離を稼ぐ事が、目的。
彼女が、謝罪を繰り返しながらも一人でいさせてほしいと頼んだ理由は一つどうしても試してみたいことが出来たからだった。
(…そろそろ、かな)
そう思いながら、ベンチに座る。
日が暮れ始めた世界は少し薄暗く、それでいて幻想的な光を放つ。等間隔的に置かれた鉄柱の先から光がぽうと放たれ始める。王都で初めて見るような機構だった。あれはなんなのかと、イドに聞きたいと思った。
ああ、そうだ。
イドに、聞きたい。
イドと話をしたい。彼と話をしたい。
顔を見たい。声をかけられたい。
この市場で、様々な人間がその声を掛けてきた。それでも誰に声をかけられても、この渇きは飢えなかった。
彼女は、思う。
(そうだ、これを試したかったんだ)
(私は彼と離れていられるか。
彼と離れて、生きている事ができるのか)
その答えが、こんな短い時間で出た。
その事実にぞくぞくと、背筋が震える。
息が荒くなる。
手先に鱗がぴりぴりと現れ初め、慌てて隠す。
離れたく無い、とか、そういうものではない。
離れてはいられない。
そうだ。
これは契約のせいなのか。
はたまたひとえに、愛のおかげなのか。
『竜であるクシーは。
もう、あの騎士から離れてはいられない』
やっぱりそうなのだと。
本当にそうなのだと、実証したかった。
竜の少女は、血鯖の騎士から離れていてはもう、正気を保つ事も、姿を保つ事も出来ない。
それが実証するための一人での行動だった。
それだけの為の、移動だった。
(うん、イドのところに戻ろう。
これは、仕方がないから。
そうでもないと、私は消えてしまうから)
ああ、そしてその証明とは彼女の福音。
疑念が例えあろうとも騎士から、離れないでいられる大義名分を得た竜は、それはそれは喜色満面で。
ほっとしたような、安心したような顔をしていた。
『彼に着いていく理由』。
ただそれが産まれた事に、安堵のため息を吐いた。
ため息を吐く。
息を吸う。
…出来ない。
息がひき付き、さらに吐き出す。
息を吸う事だけが、出来ない。
全身が痺れる。息を吐く。吸えない。
ただ空気が肺から吐き出されていく。
「……っ、かっ…げえっ…!」
…異変に気づく事が、遅すぎた。
そう、竜の本能が告げる。
何と愚かなのだろうと、自らを叱咤をする余裕もない。
空気から妙な香りがする。異臭と、音。
周囲を横目で睨む。
次々と、人々が倒れていく。
さっきまで溢れていた活気が、市場から消えていく。
ばたばたと、人が斃れる音と共に。
市民が皆倒れて伏せる中、ただ一人クシーに向かう人物が居た。ふらふらと、不健康な足取りを向けるその男。
その顔に、妙ちきりんな仮面を付けていた。
「…不死、素晴らしいものだ。
不死、恐ろしいものです」
クシー自身、単独行動を取ったことは迂闊だと分かっていた。
だが、彼女にも考えはあった。
その一つがこの市場。
無辜の市民が大量に居る場所ならば。どうあっても一般人に被害が出る場所ならば、敵は大っぴらな行動には出ないだろうと。
そう、考えていたのだ。
「ええ、ええ。不死とはまさに、こうまで犠牲を被らねばならないほど、恐ろしい存在、という事だ。この場全ての市民の命と引き換えにするほどの価値は貴女にはある。真に、素晴らしい事です」
仮面にくぐもった声が、クシーに聞こえる。
何かを常に見下したような、侮蔑するような声。
「不死の生き物とは、人間が勝てるものではない。
どうあっても生物としての強度が異なるのだから」
「ならば、どう勝つか?その為の観察をしました」
「結果として分かった事は、不死の命の源泉とは、無造作に無計画に、湧いてくるものではない。尽きずとも、尽きかけはする。法則性があり、優先すべき治すべき症状がある」
ゆっくり、ゆっくりと、息を絶え絶えにしたクシーに近寄りながら、御託を並べる仮面の男。
それが『敵』であるということは明白だった。
「…それは直接死に繋がるもの。
擦過傷や骨折よりも肉が外気に触れる切断。指の切断よりも、首の切断。そのように、重大なものから先に治そうとしてく。当然種族による細やかな違いはありますが…基本的ルールは変わりません」
「では、空気を奪えばどうなるか?」
「空気を無くした生き物は脳の動作が止まる。それは死に直結するものだし、何より思考が止まるということは、生存において非常に危うい事。故に殆どの不死者が最優先でそれを治癒させようとします」
シュー、という音が聞こえてくる。
空気を奪い取った音。もしくは、空気の代わりに何かの気体を送り込んでいるのだろうか。目の前の男の仮面からも何かしらの音が聞こえる辺り、どちらかというと後者に近いのかもしれない。あの仮面は、付けてるものにのみ清浄な空気を送るものなのだと。
「では次に。絶えず、酸欠にしたらどうなるか?治そうとして、それを壊す。治そうとして、壊す。それを繰り返すと、不死の再生能力はそこにのみ用いられ、他の部分は再生されず…」
「…敢えなく、囚われる訳です。
ちょうど今の貴女のようにね、ドラゴン」
仮面の男のナイフがクシーの手足の腱を切る。
再生は、しない。
「こんにちは、不死者。僕はエィス。
君たちを捕らえに来た者です」
それが呼び水になったかのように、大量の兵士が市場に流れ込んでくる。それらは皆、仮面を付けている。
槍を持ち、倒れ伏したクシーを囲むように。
助けを求めようと、契約に意識を向けようとする。
だが、出来ない。
それをする集中力すら、酸欠に奪い取られる。
「さあ、早く連れていってください。
と言っても、あまり油断はしないように。
見た目は可憐な少女ですが、正真正銘の怪物です」
「…ええ。
殺しはしませんよ。
ただ、彼女には生き餌になってもらいます。
彼を…イドを、呼び寄せるためのね」
イド。
その言葉を聞いた瞬間、少女の身体に力が漲った。
目が見開き、息のできない苦しみすら忘れた。
餌にする。
彼を、誘き寄せるだと?
刹那、兵士の身体は抉り取られ、半身だけの身体となっていた。ワンテンポ遅れて、紙細工のようにまた他の兵士が死体となり、ばらばらになった。それに気付いた兵士が振り向く前に、また、その身体を食いちぎられて死んだ。
「ぐ、るるるるっ…!」
口からは狂犬のごとく音を出し、切られた腱はぐちぐちと不快な音と共に治る。竜の身体を使わないままに暴れ回り、自らを囲む兵士をただ皆殺しにしようとするクシーの姿は、人の姿のままでありながら、明確なまでに怪物だった。
「…!おお、なんて貴重な。人の姿に擬態しながら不死の怪力を用いる者は、発狂しそうな感情をくぐり抜けた極少数の極みのみ。だが素晴らしい。貴女はその極みに達しているようだ。
それに、常軌を逸した再生能力。素晴らしい」
仮面の男、エィスは悠々とそう話す。
その首元に、竜の爪を突きつけられるまでは。
「…だからこそ、こんなものを使わざるを得ない事。
非常に遺憾に思いますよ、ドラゴン」
ぴいいい、い。
一際甲高い音が、死の市場に響く。
その音を聞き、クシーは悲鳴を上げながら地面に頭を叩きつけた。石畳には蜘蛛の巣の如く割れ痕が付き、ただでさえ空気が足りない最中の悲鳴は彼女から著しく空気を奪い。
今度こそ、少女は意識を失い倒れた。
「…ふう。竜笛。その音色は、貴女達竜族のみの神経に作用されるとか。まだ私たちが解明できていない、法則性も理屈も解らないこれを使うことなぞ、したくなかった。人間の、僕たちの研究のみで貴女を打倒したかったのですが…」
エィスは笛を懐に仕舞いながらぱちり、と指を鳴らす。
すると、何処に居たのか。
二人の人影が彼の横に姿を現した。
一人は、人離れした巨漢。
恐ろしく分厚い身体を持つ大男。
一人は、人離れした浮遊を行う少年。
翅を背中から生やし、ホバリングをする子供。
「行け。ツウ、スリー。
あの少女を捕らえろ」
それぞれ、そう呼ばれた者どもは一度だけ頷くや否やクシーを担ぎ、そのまま歩いていく。その後ろから着いていくエィスは、歪んだ笑みをその仮面の下に浮かべた。
その光景を。
昼の盛りだというのに、大きな蝙蝠だけが眺めていた。
「さあ、彼は…
どれくらい必死にこの女の子を助けにくるかな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます