第一章4
厳かな雰囲気の中どんな舞が見られるのかしら、と芹は単純に楽しむ気持ちより、夫の舞を観る緊張が先に立っている。
笙の音が聞こえて来た。それに呼応するように笛の音が加わる。太鼓の音が間隔をあけて規則的に入る。いつの間にか琵琶の音が追加されていた。
舞台中央で正面を向いて並んで立っている舞人の二人は動かない。もったいぶるように観衆に音楽を聞かせながら、いつその手、その足が動き出すのかと視線を集める。
鉦が鳴ったのが合図で舞人は右手を上げ、左足を円を書くようにして前に出し、上半身を前に突き出したかと思うと、すぐに足を引いて後ろに下がるという動きを繰り返した。
この舞は宴の度に舞っている型である。見せ場は、何と言っても途中で速度が上がる音楽に合わせて、同時性を追求した踊りだ。太鼓も笛も二人の動きを引き離すように早い旋律を奏でる。それを舞人の二人が離されまいと音楽を追いかけていく。その時の二人の動きは乱れなく同時で観衆を驚かせる。大きな動きの舞から細かい手の動き、足の動き、曲の速いから遅い、遅いから速いと抑揚をつけた音楽にも二人の舞は乱れなく同時である。
この宴で舞を舞うことが決まってからの実津瀬は練習を始めて、前のように舞うことができず自分に腹を立て、悔しさに暮れたが、徐々に勘を取り戻し前以上の舞が舞えるようになった。
同時性の妙を追求した舞ではあるが、一人一人が思うように表現する場面がある。一人ずつ正面の大王に向かって自分の舞を披露する。実津瀬と淡路は自分で考えた好きな舞を舞うが、お互いの舞が引き立つように二人で相談し、考え練られたものである。
聴衆は見ていると徐々に気づく。二人とも銘々の思う別の舞を舞っているようでいつの間にか同じ型を舞っているのだ。一人ずつ交互に大王の前に出て舞うのだが、違う動きの中に同じ型が見えてくる。正面の大王はもちろん、舞台を横から見ている者にも、違う舞を舞っているようで一致した舞になることが分かった。
そして速い旋律が緩まる。緩まる。
この演目の終わりが近づいていることを観衆に知らせた。
このまま静かに終わっていくか、と思わせて、再び音楽は速い旋律に戻る。もう一度二人の一糸乱れぬ同時の舞を見せて、今度こそこの舞は静かに終わる。
笙と琵琶の音が名残り惜しそうに調べを奏でて、舞人二人は舞台の中央でその動きを収め、直立して琵琶の音の余韻に浸っているように見えた。
観衆は緊張が解かれてほうっと溜息を吐いた。
芹は舞台の正面に近い部屋の、それも最前列で舞を、実津瀬の舞を初めて観て、衝撃を受けた。
素晴らしい舞。感動でかき乱された心は簡単に鎮まらない。隣で見ていた房も感動したようで、目を輝かせて芹を向いた。自然と手を握り合って、今見た舞を称える言葉を発しそうになった。
しかし、周りの者は幾度もみているからか、誰もそんな雰囲気ではない。
「とても良い舞だったわね。あのような舞、見たことないわ」
芹が房の耳元で囁いた。
「そうね。あの舞を舞っている方が姉さまの夫なのだから。自慢の旦那様ね」
芹は今まで多くの人から実津瀬の舞のことを何度も聞かされてきた。それを疑う気持ちはなかったが、見たことがないのでどれくらい素晴らしいのかをわからなかった。でも、たった今からは夫の舞のすばらしさをいくらでも話せる気がした。
素直に自慢の夫だと思った。
「芹、どうだった?」
芹は義父の質問に顔を向けて答えた。
「とても素晴らしい舞でした」
「そうだろう。芹の今の顔を見ればどれくらい感動したかわかるというものだ。今夜実津瀬が帰ってきたら、そのことを伝えてやっておくれ」
芹は頷いた。
舞人二人は舞台から降りて、大王がいらっしゃる広間正面の階の下に跪き、お言葉をいただいている。
ちょうど舞台の陰になって、二人の姿は見えないが、椅子から立ち上がった人物が下に向かって話をしている姿見える。
あの方が大王なのかしら……。
芹は結婚相手の地位の重要性など考えもしなかったが、父親の上機嫌振りを思い返すと、天下の岩城一族に縁づいたことは幸運であった。それは芹が考えつかないほどの経験を得ることができるからだである。
実津瀬と淡路が階の下で畏まっていると、大王が立ち上がって言葉をかけた。
「毎回、見るのを楽しみにしているが、今回も良い舞だった」
大王の言葉に実津瀬と淡路は一段と頭を下げた。
そこへ、大王の右後ろから影が近づき、声を掛けた。
「大王、私からも二人に声を掛けてもよろしいでしょうか」
「桂?どうした」
大王が振り向くと、髪を一つにまとめて高く上げて、目がつり上がったように見える縁取りの化粧を施した王族の一人である女人が立っていた。
赤い汁を吸ったように見える紅を盛った唇が開いた。
「先ほどの舞に大変感激しましたので話したいのです」
大王が発言を許可すると示すように頷くと、大王に桂と呼ばれた女人はもう一歩前に出て、階下の舞人二人を見つめた。
「今夜の舞は何度もやっている曲で、舞も同じかと思ったがいつになく工夫がされていて楽しかった。素晴らしかった。心が沸き立って、この喜びを伝えたいと思ってここで声をかけることを大王にお願いした次第だ。岩城実津瀬……そなたの舞を観るのは夏の宴以来だ。大祭の時もそなたの舞が見られると期待していたのに、姿をくらましていたようだな。そなたが舞わないのはなぜか、と多くの人々に訊ねたが誰もわからないという。残念だった。しかし、今夜は見られてよかった。改めてそなたの才能に感動したぞ」
桂は言って高らかに笑った。
実津瀬と淡路は桂の言葉にも大王と同じように頭を下げた。
「私も感動した。二人には私と同じ食事を与えよう」
そこへ大王がそうおっしゃって、二人は再び頭を上げて下げて、静かに階の下から退出した。
芹は舞台の陰で見えない夫に向かって、女人が立ちあがって話し掛けている姿が見えた。
あかい色にも濃いから薄いと幾通りの色があるが、その色の濃淡を使い分けて煌びやかで手の込んだ生地で作られた衣装を着て、髪は全てを一つにまとめて上げて、飾りの櫛を付けている。話しをするたびに、櫛の飾りが動き、光っているのが見えた。
美しい衣装を来た人。岩城家の女人たちも豪華な衣装を着ているが、大王の傍に立つ女人は一味違う気がした。その人が夫と一緒に舞った男に何かを言って、笑っている。赤い唇が大きく開いて笑い声が聴こえた。
そして、実津瀬たちは大王の前から下がって行った。
舞が終わると、宮殿の台所で作られた料理が運ばれて、宴が始まる。
大王の前に机が運ばれて、目の前に五つの膳が手前に三つ、その上に二つという位置で置かれた。正面の膳には立派な一尾の焼き魚がある。残りの四つの膳には小さな皿に各地から集まった珍しい食材を使った様々な料理が載っている。
そんな準備が始まった頃、岩城一族が陣取っていた部屋では、女人たちは帰り支度を始めた。
宴には参加せず、宮殿の庭から薫る梅の匂いと舞を観たら帰るのだ。
舎人が帰りの段取りを始める。
芹の隣に座っている房の夫、鷹野はこのまま宴に残るため、房に今日の別れの挨拶をしている。房は夫の邸では暮らしていない。夫の鷹野は房の元に通っているため、房は芹の実家に帰るのだ。
鷹野との会話が済むと、房は芹の方を向いた。
「姉さま、また会いましょう」
そう言って、立ち上がると鷹野と岩城家の舎人に付き添われて部屋を出て行った。
別の部屋で舞を観ていた蓮が榧と一緒に部屋に戻って来た。
「皆、気を付けてお帰りよ」
芹と同じで最前列で見ていた実言が立ち上がって、帰り支度をする皆に声を掛けると部屋の前の簀子縁に出て、隣の部屋へと移って行った。
「さ、早く行きましょう」
芹に近づいて礼が言った。
同じように舞だけを鑑賞しに来た者たちでごった返す廊下を、舎人が先導してすでに用意した車に礼と榧を素早く乗せた。
今夜は実家に泊まって行くことになっている蓮と芹は歩いて、邸へと戻って行った。
邸に帰ると、女同士で食事を摂った。邸で待っていた礼の侍女である澪や縫が指示をして、膳が運ばれた。榧は膳の上のお粥の湯気を顔に当てている。外はまだ寒くて、温かな食事が体の中を通ると体が温まる。一口一口匙を口に運ぶ合間にしゃべることは実津瀬の舞のことである。
「今日の舞はまた一段と良かったわ」
「私は兄様が大王の前で舞う姿を初めて見たから、いつもの兄様と違うように見えたわ」
「大王の前で舞うから趣向を凝らした舞だったのかしらね」
蓮と榧の会話を芹は黙って聞いている。
「芹は、どうだった?芹は実津瀬の舞を観るのは初めて?」
蓮が訊ねた。
「ええ、初めて。実津瀬の舞の話は聞いていたけど、本当に素晴らしい舞だったわ」
「そう。実津瀬、あなたに見て欲しがっていたから見られてよかったわ」
食事を終えると、小さな榧は眠たそうに眼を擦った。
礼が榧を伴って榧の部屋へと向かった。
「芹、実津瀬が帰ってきたら労ってあげてね」
蓮に言われて芹は頷き、侍女の編と一緒に離れに戻った。
芹は義父母が今日のために作ってくれた衣装を丁寧に脱いで、畳んで箱の中に入れた。このような上等な物を初めて持ったことに静かな喜びを噛みしめた。
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