第四章10

 開かれたままの稽古場の扉に影が差して、人が一人ふらりと現れた。

 しかし、今ではこの時間に現れる人物を誰か、と顔を上げて確認する者はいなかった。

 岩城実津瀬が来た、と誰もがわかっている。

 扉の近くで一人背中を丸めて座っている朱鷺世は稽古場に入って来た実津瀬の背中を少しの間眺めた。

 稽古場に入ったら、すぐに奥の隅に向かって稽古場の真ん中を歩いた。準備ができたら一人、黙々と舞いの練習を始める。時に、淡路と一緒に音に合わせて舞うこともある。

 朱鷺世は権力者の息子が何のために舞をしているのかと、思っている。

そんなことをしなくても、生きていくことに困らないだろうに。俺は舞をやらなければ、たちまち野垂れ死ぬことになるだろう。

一人で、舞の型をやり始めた姿を見ていると、朱鷺世の視界は遮られた。

「朱鷺世、何をしている。やるぞ」

 朱鷺世の前に淡路が立って言った。楽団長である麻奈見も稽古場に入って来た。

 朱鷺世はのろのろと立ち上がった。

 今日もみっちりと練習をさせられるのだろう。

 どういうことだかわからないが、年が明けた頃から練習という名のしごきのような厳しい指導を受けている。手や足の動き、体の移動、向きなど間違えたら鞭で叩かれ、できないことをなじられた。朱鷺世は人知れず悔し涙を流した。

 鞭で体が傷ついて、舞をやるどころではないくらいの痛みが体を走った時期もあったが、今はできていないことがあれば、口できつく言われるだけで、鞭を振るわれることは無くなった。

「そうだよ、朱鷺世。足の動きは今のように」

 朱鷺世のために音楽を奏でる者が二人ついて、音楽に合わせて淡路に合わせて舞う。

 最近は麻奈見からできている、という声を掛けてもらうことが多くなった。

 朱鷺世自身も叩かれてばかりの頃より、体が動くようになったと感じている。

 岩城実津瀬の代わりに舞った昨年の月の宴の時の自分の舞は勢いで舞っただけで、今ならもっと良い舞が舞えるような気がする。

いつまで曲は続くのだ……

麻奈見が止め、と言わないので、音楽は同じ節を繰り返し奏でる。淡路は同じ振りを何度も繰り返す。朱鷺世はその動きを横目で見て、同じように舞い続ける。

ああ、上げた腕が下がりそうだ……。そうなれば、怒られてしまう。

朱鷺世は懸命に手が下がるのを我慢した。体が揺れ始めて、それをまたできていないと怒られると思った。

「よし」

 麻奈見が右手を上げて、音楽は止まった。淡路が腕を下ろしたので、朱鷺世もすぐに手を下ろした。

「朱鷺世、だいぶ揃って来たね。いいよ。少し休憩をしようか」

 朱鷺世は一旦稽古場の外に出て、扉の傍にある甕から柄杓で水を掬い、手のひらで受けて、顔を拭った。もう一度柄杓で掬って、口をつけた。喉を上に向けて水を飲み干した。

 朝夕の食事の中に虫を入れたり、椀をひっくり返されたりして満足に食べられない時もあったが、今はそんな嫌がらせはなくなったので、配られただけの飯は食べられるが、こんなにきつい練習ばかりだと体が持たない。今日も露のところに行き、搗き米の握りをもらうおう、と考えた。

 十分に喉の渇きを潤して、稽古場に戻って来た朱鷺世は、稽古が始まる前と同じように、扉の近くにしゃがんだ。

 それまで自分を見てくれていた、麻奈見と淡路は、奥の隅で壁に向かって黙々と型を舞っている実津瀬のところに行った。

 朱鷺世は三人が何やらしゃべっている姿を眺めた。大きな声ではないので、何を話しているのかわからない。

 話しが終わった後、実津瀬と淡路が横に並んで、一緒に型を舞い始めた。先ほど朱鷺世が淡路と一緒にやった型と同じだ。

最初はゆっくりと、どのくらいの速さで舞うのか手探りで合わせていたが、そのうち振りは速くなって行った。どちらかが速くまたは遅く合っていなかった型がそのうちぴったりと合って行った。

 自分も同じように淡路と合わせていたはずだが、速さは違う。断然速い。

 昨年の月の宴の時の自分の舞は今思えば、ゆっくりだったかもしれない。

 王族の……あのお姫様にたいそう褒められて、自分には才能があるのだと錯覚してしまった。

 これまでのしごきになぜ、と思ったが、自分の力はまだまだ足りなかったのだ。

 朱鷺世はそんなことを思って二人の一糸乱れぬ舞をみていた。

「朱鷺世!」

 麻奈見が手招きする。朱鷺世はよろよろと立ち上がり、ゆっくりと奥の三人がいる方へと歩いて行った。

 朱鷺世が近づくと二人は舞を止めて、呼吸を整えている。

「朱鷺世、実津瀬と一緒に舞ってみたら。違う人と舞うと新しく得るものがあるよ」 

 麻奈見は言って、実津瀬に視線を向けた。

 膝に両手を置いて体を屈め、息を切らしていた実津瀬は上体を起こした。

「実津瀬は、どう?」

 麻奈見の問いかけに実津瀬は頷いた。

「よし。では、もう少し休んでから始めようか?」

「いいや、私は舞える」

 実津瀬が言った。

 淡路が麻奈見の隣に移動し、懐から笛を出した。

 朱鷺世は淡路が立っていた場所に移動して麻奈見たちの方を向いた。

「淡路と一緒に舞っていた型をやろう」

 麻奈見の優しい声をかき消すように、淡路の笛が唸るような音色を出した。

 型に入る前に、実津瀬は手をだらりと下ろして指先を動かしたり、足で拍子を取ったりしている。

 隣にいる朱鷺世も、真似をして手をぶらぶらして、体を左右に揺らしてみたりした。

 ここだ、という型の始まりになる旋律が来ると、実津瀬の体はすぐに型の始まりの形になった。遅れを取るまいと朱鷺世も手を上げて、右足を一歩前に出した。

 口やかましく、時には鞭を振るわれて体に仕込みこませた型は、この速さであれば難なくついて行ける。

 指先、足先、手足の上げ下げ、角度にも気を配れる。顔の向き、体の向き、回転も隣の実津瀬と同時にできている。

 ちょっとした手合わせのようなもので、無難に舞えたらいいかと思ったが、少しずつ笛の旋律が速くなった。

 笛を吹く淡路の差配かと朱鷺世は思ったが、振りを合わせるために横目で見た隣を見ると、実津瀬が振りを速くして、淡路を誘っていることが分かった。

 淡路の笛だけを聴いていてはいけない。隣の実津瀬の動きも感じていなければ。

 それから、朱鷺世は実津瀬の動きを感じ、振りについて行こうとした。次第に朱鷺世は実津瀬に遅れを取ることはなくなった。

 その速さで舞えると、次に自分が主導権を取りたいと思うようになった。実津瀬よりも少し早く。こちらがその振りを決められるように。

 次第に朱鷺世の腕の伸びが実津瀬より早くなった。それに伴って足も先に出る。

淡路の笛の音は朱鷺世の動きに合わせた。

 朱鷺世はよし、と心の中で思った。

 しかし、実津瀬もすぐに合わせて来て、最後は振りをぴったりと同時にして二人で舞い切った。

「朱鷺世、舞えるね。いいじゃないか」

 朱鷺世は息を整えるのに必死で、舞のよしあしを考えることができなかった。麻奈見の言葉にもすぐには反応できず、肩を上下させている。

「背もそこまでかわらないね。朱鷺世はもう少し太った方がいいね。飯は食べているかい?私から言ってもっと食事の量を増やしてもらおう」

 そこで、朱鷺世は体を起こした。

 岩城実津瀬は、息を弾ませているが、体を折り曲げることなく麻奈見と朱鷺世を見ている。

 自分には体力がないのだ、と実津瀬は思った。

 飯をもっと食べられるのはありがたい。……でも……露のところに行く口実は無くなってしまうな……。

 いや、口実なんていらないのだ。露に会いたいと思えば会いに行けばいい。

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