第四章9

  淳奈の部屋で子守の苗と一緒に寝顔を見ていた芹のところに、侍女の槻がやって来た。それで、実津瀬が帰って来たのだと分かった。

 芹は淳奈を苗に任せて、槻と一緒に夫婦の部屋に戻って行った。

 庇の間に入ったところで、反対側の簀子縁から静かな足音が聞こえて来て、実津瀬が現れた。

「お帰りなさい」

 立って芹に迎えられたので、実津瀬は驚いた。

「立っていなくてもいいのに」

「ちょうど淳奈のところから戻って来たのよ」

「そう。淳奈は?」

「寝てしまったわ。今日はお父さまに会いたいと言って、涙をこぼしていたわ」

「そうかい……。明日は練習はやめて、早く帰って来ようか」

 実津瀬はそう言って、帯を解き上着を脱いだ。芹は受け取って、後ろに立つ槻に渡した。もう一人の侍女、編が従者と共に台所からお湯を入れた盥を持って来た。実津瀬は汗を吸った肌着を脱いで槻に渡し、上半身裸になった。芹は編から渡されたお湯に浸して絞った白布で実津瀬の背中を拭った。

 今、実津瀬は、毎日、宮廷内の稽古場へ舞の練習に通っている。今夜も熱心に稽古をして、汗まみれになって帰ってきたのだ。

 舞う気になれないと言っていたのに、随分な変わりようである。

が、芹は実津瀬からそのことについて説明を受けていた。

 桂に呼ばれて住まう宮を訪れたその日、帰ってくると部屋で淳奈の遊びの相手をしていた芹のところに来た実津瀬の表情は少し違っていた。

 その夜、寝所へ行くと実津瀬は褥の上にあぐらをかいて座って待っていた。

「どうしたの?」

 芹はすぐに、実津瀬の前に膝を折って座った。昼間から何か違うという気がしていたのだ。王族の館を訪ねて、何があったのだろうかと、芹は気になっていた。

「大したことではないけど、今日あったことをあなたに話しておきたいと思って」

「今日のこと?……桂様のところで……」

 頷く実津瀬に芹は下を向いた。実津瀬は膝の上に置いている芹のそれぞれの手を取って握った。

「あなたを悲しませることではないよ……いや、どうかな……考えようによっては悲しいと思うかもしれないな」

 実津瀬の言葉に芹は下を向いたままだが、握られた手を握り返した。

「私は、もう一度舞に打ち込みたいと思っているんだ。芹には前に、舞う気がない……なんて言っていたが、今日、桂様のところに行って、舞を舞えと焚きつけられてね。最初はそんな言葉に乗る気はなかったのだが、言われてみれば自分の思い描く最高の舞は今しかできないのではないかと、という気持ちになってね。再び、舞いたいと思ったんだよ」

 実津瀬の言葉を聞いて、芹はぱっと顔を上げた。

「舞を!……もう一度……」

「そうだ。だから、毎日稽古をして、邸には今までのように早く帰って来ない日が増える。淳奈をかまってやる時間も減ってしまう。あなたと一緒に過ごす時間も……。これは、場合によってはあなたを悲しませることかな……って」

 実津瀬の言葉に芹は少し拍子抜けした。

王族に呼ばれて、どんなことを言われたのか、と緊張したが、舞を舞えと言われたと。

 桂というお姫様はたいそう舞や音楽が好きで、特に実津瀬はお気に入りの舞人の一人だということを聞いてはいたが、実津瀬を呼びつけてそんなことを言っていたのか。

「どう?大したことはないでしょう。でも、二人との時間は減ってしまうよ」

 芹は、なんだかほっとした。確かに、実津瀬との時間は減るが。

「そうね……でも、実津瀬は舞が好きでしょう……。その……桂様があなたの舞を気に入っているように、わたしもあなたの舞が好きよ。私たちのことで、最近は舞う機会がなかったもの。舞いたくないものを、無理する必要はないけど、心の底では、実津瀬は再び舞いたい気持ちがあったのよ。私、嬉しいわ……。私も観たいもの。でも、実津瀬が言うように、邸にいる時間が減ってしまうと、淳奈が寂しがるわ。私ももちろん、寂しいけれど」

 実津瀬は握っていた芹の手を引っ張って胸に抱き、そのまま後ろへと一緒に倒れた。

「では、私とあなたの間だけでも寂しくないようにしよう。毎晩、こうして一緒に寝て。私を癒してくれるのはあなただから」

 そのような話をしてくれた翌日から、実津瀬は稽古場に通い、熱心に練習を始めたのだった。

 帰って来た実津瀬の汗を拭き終えると、芹は後ろから肌着を次に上着を着せかけた。実津瀬は帯を受け取って締めると、二人で奥の部屋へと入った。既に、侍女の槻と編が料理を運んでくれていて、実津瀬と芹は座ればよいだけになっていた。

 実津瀬が杯を持つと、芹は持ち上げた徳利を傾けて半分くらいまで入れた。たしなむ程度に酒を飲む実津瀬は、唇を濡らしたくらいの少しを飲んだ。

「焼き魚を召し上がって。今夜の献立はお母さまが考えてくださったの」

 実津瀬は魚の身をほぐして口に入れた。よい塩加減で、おいしい。少し硬く炊かれた米と一緒に食べると、米を次から次へと口の中に入れてしまう。

 岩城家の台所は、よい腕を持った料理人がいる。

 新鮮な食材、地方から入って来た珍しい食材、調味料などもあるが、粥だけでもうまいと思う。

 杯の酒をすする合間に青菜や貝汁を口に入れて、舞の鍛錬で疲れた体に栄養を入れた。

「毎日、大変ね。次に舞う舞台は決まっているの?夏の……月の宴かしら」

 杯に芹は酒を注いで言った。

「まだ決まってはいないんだ」

 実津瀬は芹に桂が言っていた舞の対決のことを言っていなかった。しかし、桂からもどのような形で舞の対決をするのか、その後何も話はない。

 山を眺めると、ところどころ白いところがあって、桜が咲き始めたのだと分かった。だいぶ暖かくなって来て、そろそろ桂の考えている舞の対決についても何か発表があってもよさそうだと、思っている。

「淳奈にも見せてあげたいわ……。あなたが大王の前で舞う姿を……」

 たとえ、今年の夏の宴で実津瀬が舞うとなっても、まだ幼い淳奈は宮廷には連れていけないのを、芹は残念がった。

「明日は舞の練習は休みにするよ。毎日毎日やればいいというものでもないし。淳奈の相手をしてやりたい」

 そう言った実津瀬は翌日、言った通りに昼に帰って来た。

「父さま!」

 久しぶりに会う父に、淳奈は飛びついた。

 天気の良い日で、親子三人で庭に出て散歩をした。舞を舞いたいという淳奈に、実津瀬が型を舞ってみせて、それを淳奈が真似る。真剣な淳奈の表情に親は目尻を下げて見つめる。

 しかし最後は、護衛の天彦に笛を吹かせて、その旋律に合わせて三人で手を繋いだり、離れたり、くるっと回ったりと好きなように踊った。芹と淳奈の笑う顔を見て、実津瀬の心は安らぐのだった。

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