第四章11

  山には桜が咲いている。

 束蕗原の去の屋敷の周りにも桜の木が点在しており、風に乗って花びらが舞って来る。

 蓮は薬草園で摘み取りの作業をしている途中に、桜の花びらが頬に落ちて来て顔を上げた。

 だいぶ暖かくなってきた。夜明けとともに起きて作業をするのが寒くて辛い日もあるが、今日はだいぶ楽である。

 一仕事を終えたら、朝餉を食べるため食堂に行く。蓮は薬草園で作業をしていた井と一緒に食堂に行って粥や青菜の皿を取って、席へと着いた。

「今日は暖かいですね」

 蓮が思ったことを井も言った。しかし井は防寒のために厚い上着を重ねている。

「そうね」

 そうはいってもまだまだ寒い。椀から立ち上る粥の湯気が頬に当たって、二人は冷たくなった顔が温まるのを感じた。

 朝餉を食べ終えた後は、少しの間ではあるが自由時間である。蓮と井は食器を片付けた後も食堂で座っておしゃべりをしていた。

 井は蓮の字の美しさを羨ましがり、時間があれば指導を乞うてきた。

 蓮が恵まれていたのは蓮の周りには、母や去など文字を書く女人が多かったし、筆や書くものがふんだんにあったことだ。誰に教えられたというわけではないが、小さな頃から筆を持って見様見真似で書いていた。文字が美しいと言われるのは、手本になる本もたくさんあったし、しいて言えば本の中から良い手蹟のものを手本にして飽かずに何度も書いたからかもしれない。

「蓮さん、よかったら、文字の練習を見てくれませんか?」

 今日も井は教えを乞うて、入口近くの棚に置いてある筆と硯を持ってくる。懐から手本の紙を出して広げた。

「私はここに来て初めて筆を持ったので、まだまだ下手です。蓮さんみたいな美しい文字が書きたいです」

 そう言って手本を見ながら、細く裂いた木の上に墨を載せた。

 蓮は筆の運び方を教え、井が難しそうにしている時は、筆を借りて文字の書き方を見せる。

「まあ、同じ文字を書いているのに、蓮さんの文字は本当に見やすくて美しいです。私もこんな字が書きたいです」

 井は言って、再び筆を持って同じ文字をその横に書いた。 

「あら、やっぱり下手だ」

 と悲しそうな声を出した。

「私は小さな頃から筆が身近にあって、書き損じた板の上に何度も書いて練習していたの。井さんもこんなに練習しているのだから、これからうまくなるわよ」

 蓮はそう言って慰めた。

 そうして、しばらく井の文字の練習を見ていたら、外で大きな声が聞こえた。

 声は女性で、蓮も井もその声が誰なのかすぐにわかった。

 井は筆を置き、蓮は井を見た。二人は目配せして立ち上がった。

 食堂の扉を押したら、すぐそばで鮎が牧に詰め寄っていた。

 声を荒げていたのは鮎である。

「牧さん、あなた!どういうつもり」

 鮎が目を吊り上げて言う。

「どういうつもりって、何のこと?」

 鮎の剣幕にも動じることなく、静かな声で牧が返事をした。

「何のことって!厚巳さんを困らせるなんて!」

 鮎の後ろには、同じ年頃の男が立って鮎の勢いを止めようとしていた。

「厚巳さんを困らせるって、どういうことかしら?」

 そう言って、牧は鮎の後ろの厚巳を横目で見た。

 それが艶めかしい流し目のようで、また鮎はその様子に腹が立った。

 厚巳は牧の態度に、身を縮こまらせている。

「どうしたの?二人とも」

 鮎らしくなく、手が上がりそうになって、蓮が声を掛けた。

 その声で鮎と牧の二人は一緒に振り向いた。

「何か困ったことが起こったの?」

 蓮は畳みかけて言った。

 そう言われて、二人はどう答えたものか考えるのに黙った。

「鮎さん、どうしたこともない。私たちがわかり合っていれば、それでいいじゃないか」

 静かになった鮎の両肩に手を置き、厚巳が言った。

 蓮と井は小首を傾げて、三人を見ている。

 他にも鮎の大声に何が起こったのか、人が集まって来た。

「……牧さんが厚巳さんにちょっかいを出してきたの。厚巳さんと私はもう、夫婦同然なんだもの。それを、牧さんが誘惑するような真似をして、厚巳さんを困らせて」

 と言って、鮎は悲しみに顔を歪ませた。

 牧と男の人。

 蓮はいつかの夜、寝付けなくて部屋から抜け出し、簀子縁から月を見ていた時のことを思い出していた。あの時、逢引きをしている男女の姿を見た。女は牧だったが、男は誰だかわからなかった。

 牧には懇意にしている男がいるのは確かだった。その時の男が鮎の夫になるこの厚巳という男ではないと思うが、他に親しい男がいるのに、厚巳にも色目を使っていたということだろうか。

 鮎の怒りは相当なものである。鮎を不安にさせるようなことが牧と厚巳の間であったということだろう。

「鮎さん、私もよ。私も、牧さんにちょっかいを出されて、夫との仲がぎくしゃくしたわ」

 鮎と蓮の間に入って来たのは、益という女人だった。蓮とは入れ違いに、所帯を持ってこの館から出て行った。今は、村に夫と小さな家を持って、そこから通っている。夫も去の館で働く者だった。

「わ、私も聞いたことあります!牧さんが違う男の人と隠れて会っているって」

 蓮の後ろで井が言った。

「牧さん、やめなさいよ」

 益が言う。

「誰がどの男の人と親しいかを知っていて、ちょっかい出すの」

 牧は誰とも目を合わせないように扉の方へ顔を向けた。

「いい加減にしなさいよ!ここにいる人は皆、お互いを思いやって助け合って生活しているのよ。その中で、あなただけが違う。あなたは皆の輪を乱す。それに人を傷つけて」

 益の言葉の後、誰も言葉を発せず、静寂が続いたが、牧が皆の方へ顔を向けた時にそれは破られた。

「私だけが悪いのかしら。誰かと親しい男と一緒にいたとしても、私が力ずくで連れ立って歩かせているわけではないわ。それを見た人があれやこれやと言うのだったら、私だけではなくて一緒に歩いていた人にも言ってもらいたいわ。それがわかっているから厚巳さんは、鮎さんを止めているのではなくて」

 牧の言葉に鮎も益も唇を噛んだ。

 一人、鮎の後ろから声が上がった。

「鮎さん、すまない。私が悪いんだ。あなたに心配をさせてしまった」

 厚巳は鮎の背中に言葉を投げかけた後、鮎の前に進み出た。

「牧さん、あなたの言うように私は力ずくであなたと歩いていたわけではないし、倉の中に行ったわけではない。それは私が軽率だったのだ。あなたにも悪いことをした。これからは誤解を受けるようなことはしない。しかし、聞けば、私以外にもあなたは誤解を受けるようなことをしているようじゃないか。そんな姿が何度かみられたら、もしかしたらあなたが仕向けているのではないかと思われるよ。故意ではなくても、こうして誤解を生んでいる。益さんが言ったように、この館で働く者たちは皆、助け合い、思いやって仕事をしている。それを乱すようなことは、慎むべきだ。お互いに気をつけよう」

 厚巳は言うと、鮎の肩を抱いて扉から離れて行く。鮎は強引に厚巳に連れていかれるのを不服そうに牧に視線を残していたが、断ち切るように厚巳に向き直って行ってしまった。

「私も作業があるわ」

 呟くように益が言って、扉から離れて行く。それを潮に、立ち止まってこちらを窺っていた者たちも、思い出しように動き出し去って行った。

 残ったのは牧と蓮、井だ。

 牧は唇を震わせている。それを止めようとして、噛みしめた。

「牧さん……厚巳さんが言うように、誤解をされることは避けるべきだわ。あなたにはその気がなくても、こうして悲しむ人がいるのだから」

 蓮が言うと、牧は呟くように言った。

「……断ることもなく目尻を下げてついて来るのに……それは私が悪いというの……私だけが」

「牧さん?」

 牧はきっ、と蓮、そして井を睨んで、立ち去って行った。

 蓮と井はその背中を見送った。

「あー恐かったですね」

 牧の姿が見えなくなって、井が控えめに囁き声で言った。

「牧さん、大丈夫かしら?」

「蓮さん!牧さんのことを心配しているんですか⁉私は鮎さんと厚巳さんが心配ですよ!きっと、牧さんは厚巳さんが薬草を取りに倉に入った時を狙って、二人きりになっていたのですよ。他の男に人とのそんな話を聞いたことありますもの。牧さんは誰と誰が仲がいいかをわかっているのに、そんなことも気にせずに親しくして、体をくっつけたりするそうです。手を繋いでいるところを見た人もいて、何か二人で隠れて会っているのではと噂になっていました」

「そうなのね。鮎さんと厚巳さんが夫婦になるくらいの仲だと知っていて、どうして二人切りになろうとしたのかしら」

「……私はそんな経験はありませんが……人が持っているものが欲しい人がいるじゃないですか。そんな感じですかね?」

 私はわからないですけど……と井は段々小さな声になっていった。

 牧は意識的にやっているのかしら……もしかして、男の人と親しくなりたいという気持ちもあるけれど、その相手である同僚の女人たちへの無意識の嫌がらせではないかしら。

 蓮はそんなことが思い浮かんだ。

「鮎さんたち、大丈夫かしら」

 井は心配そうな声で言って、食堂に入って行った。

「……鮎さんたちは大丈夫でしょう。厚巳さんは、きっぱりと牧さんに言った。これから鮎さんに誠心誠意謝るのでしょう。その姿に鮎さんも許すと思うわ。鮎さんは厚巳さんのこと好きよ。厚巳さんも鮎さんをとても大切に思っているもの」

 蓮の言葉に、井は。

「そうなんですね!」

 と声を上げた。

「私にはわからないです」

 と恋愛の感情がわからないという。

「ねぇ、井さん。幼馴染の男の人はいる?小さな頃よく遊んでいた男の子」

「それはいますよ。私には兄や弟がいるので、幼いころはたくさんの近所の年の近い子たちと家の手伝いの合間に遊んでいました」

「今でも言葉を交わす人はいる。それとも、今は兄弟だけ?」

「いいえ、この館に手伝いに来る幼馴染がいますから、話をしますよ。この前も、館に手伝いに来ていたところを会ったので話をしたところです」

「そうなの。あなたの身近なところに、そのわからないを教えてくれる人がいるかもしれないわよ……」

 蓮が言うと、井は小首を傾げた。

「そうですか?」

 蓮はうんうんと頷いた。食堂の片づけをして、二人は薬草園へと向かった。

 幼馴染は血縁以外の身近な異性だ。

 私の初恋も幼馴染と言っていい、年上の男の人だった……。

 蓮は思い出していた。

 伊緒理。

 去様と一緒に歩いていたあの男性は、やはり伊緒理だったのだろうか。

 伊緒理は留学生として異国に行ってしまった。あれからどうしたのかは、あえて考えないようにしていた。まだ、異国で医術の勉強をしているのか、それとも、去様と歩いていた人がそうなのならば、無事に帰国して異国で得た医術を人々に役立てているのかもしれない。

 いずれにせよ、伊緒理であれば、どこにいても素晴らしい活躍をしていることだろう。誠実な人で、誰よりも病気の人を助けたいと思っているから。

 蓮は朝の空を見上げた。

 伊緒理もまた、顔を上げたらこの空を見ているだろうか。青い爽やかな空を。

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