第二章8

 年が明けてから、蓮の悩みは深くなった。

 待てども待てども嬉しい印は現れない。

 子のできない自分が、このまま景之亮と一緒にいてもいいのだろうか。景之亮は待とうと言ったが、いつまで待つつもりだろうか。どれくらい時を費やしていいものだろうか。

 宇筑が言ったように景之亮に別の女人を見つけるように言うべきなのか……言わなくても仕向けるべきなのだろうか。

 蓮は問うて、ここの中で首を左右に振った。

 景之亮が自分以外の女のところに通い、愛すなんてことを想像しただけでも我慢できないのに、そんなことが現実になったら、その夜自分は苦しくて死んでしまいそうだ。

だからと言って、景之亮に別の女人を選べといって、別れることもできない。もう、自分の一部と言っても過言ではない景之亮から離れることは自分の体を半分に裂くような苦しみである。別れることも耐えられないのだ。

 どうすればいいのだろうか……もう一年待てばいいのか……待っても今と変わらなければ、その時はどうしたらいいのか……今と同じ問答を再び行って決めるのか。

 決められるのかしら……今は決められないけど、一年経てば決められるものかしら……。

 蓮は一人で何もしていないと、ふっと、この悩みが入り込んで、支配される。懊悩する姿を見せるまいと、人の足とが聞こえると平静の顔に戻す。

「蓮、何か悩むことがあるのか」

 夜、性交の後に衾を肩まで引っ張り上げ景之亮は蓮を背中から抱いてその余韻に浸っていた。しかし、急に蓮に言った。

 景之亮に顔を向けた蓮の顔を覆う髪を大きな手の平がかき上げて、蓮の顔を撫ぜた。

「いいえ、ないわ。どうして?」

 蓮は答えた。

「元気がないよ。あなたらしくない」

 景之亮の顔が近づいて、鼻の先が蓮の頬にぶつかった。

「そうかしら?」

 蓮は言った。

「そうだよ。呼びかけても反応がない。ぼおっと庭を見ていることがある」

「私もそんな日があるわ」

「何かあったらすぐに私に言わないといけない。一人で悩むことなんてないんだ」

 景之亮の言葉に、蓮は体を少し景之亮の方に向けて、首を伸ばして唇を重ねた。

 蓮からそっと合わせただけだったが、景之亮の手が蓮の頬を押さえて唇を強く吸った。

 悩んでいることを景之亮に悟られないようにと思っているが、知らず知らずに漏れているのかと思った。

しっかりとしないと……

蓮は自分を強く戒めるが、今は景之亮の強く優しい愛撫を心ゆくまで受けたいと思うのだった。

 こうして蓮が逡巡する間、宇筑の丸への確認のための訪問が数度あった。それは、蓮が知っているだけの回数であって、五条の邸に行っている間にも宇筑はここを訪ねているかもしれない。宇筑は自分の思うように動かない景之亮への怒りを丸にぶつけて、丸は景之亮、蓮と宇筑の間に入って苦しんでいることを申し訳なく思うのだった。

 

 蓮は二日前に五条の邸から持って帰った異国の本を写すため、昨日、今日と机に向かって写本をしていた。

「礼様に頼まれているの?」

 今朝、蓮の机の上に積まれている本を見て、景之亮が訊いた。

「ええ」

「でも、そんなに根をつめてやるものではないよ。ほどほどにね」

 景之亮に言われて、蓮は頷いた。

 蓮は丸や曜と邸の修繕や、食事のこと、使用人の体調のことなどを話して、一段落すると机に向かった。景之亮にはほどほどにと言われたが書き始めると集中して、筆が進んだ。

 没頭から解き放たれた時、外から男の声がした。この邸の者の声ではないが、知った声であった。

 宇筑が現れたのだ。

例によって庭から使用人たちの住居に向かって丸を呼ぶ声がする。

 蓮は宇筑に自分達のことを丸に命令するのは辞めるように言おうと思って立ち上がった。

丸にはどうすることもできないことを、あれやこれやと嫌味を交えて言われるのは気分がいいものではない。

 以前、宇筑に景之亮と出会う前の男との付き合いによって、子ができないのではないか、と言われて、蓮は酷く傷ついたのだったが、それで萎縮して黙って避けるような娘ではなかった。

 前日までは晴天が続いていたというのに、今日はあいにくの曇天である。そして、黒い雲が北の空から蓮の頭上に近づいていた。

 丸は部屋から簀子縁に出て、近くの階を下りてきた。

「宇筑様、どうなさいましたか」

「わしが聞くことは決まっている。どうだ、景之亮の様子は?邸に帰ってこない夜はあるか?」

「何をおっしゃいますか?景之亮様は蓮様一筋でいらっしゃいますから、他の女人のところに行くなんてことはありません」

「ふん!」

 宇筑は鼻を鳴らした。

この一年余り、幾度となく同じ会話が成され、なぜ景之亮は叔父の願いを聞き入れてくれないのか、と長い愚痴を並べ、時には蓮への怨嗟を口にする。

今日も宇筑は今から自分の叶わない思いを延々と丸にぶつけようとした時に、後ろから声を掛けられた。

「宇筑様」

 宇筑は体ごと振り向き、丸は顔を上げた。

「蓮様」

 丸は慌てて、蓮と宇筑の間に体をねじ込むように入れて言った。

「お部屋に戻ってくださいな、蓮様。宇筑様は私に御用がお有りなのです」

「私も宇筑様に御用があるのよ」

 蓮が言うと、丸は静かに身を引いた。

「なんだ?とうとう決心したのか。自分は子を授かることは無理だから他の女人にその役目を譲ると」

「宇筑様!おやめください!」

 丸が諫める声を上げた。

「景之亮は待てばいつか叶うと言って、わしの話を聞こうとしない。あれから一年は経ったが何も変わらない。景之亮に申し訳ないと思わないのか。もうあなたができることは、景之亮に他の女人のところに通うように勧めることだ」

「蓮様、お部屋に戻ってくださいな」

 丸は再び宇筑と蓮の間に入って、蓮に覆いかぶさるようにして押した。

「お部屋に戻りましょう」

「いいのよ、丸。……宇筑様、ご自分の思うように景之亮様や私が動かないからと言って、その鬱憤を丸にぶつけるのはやめてください。丸をこれ以上煩わせないでください」

「私のことはいいのですよ、蓮様」

「いいえ、私は知っているのよ。宇筑様が丸にはどうすることもできないことを長い時間くどくどとお話されていること」

「知っているなら、丸に言ってやればいいではないか」

「蓮様!お部屋に戻りましょう」

 丸は悲鳴のような声を上げて蓮の体を押した。しかし、宇筑の言葉が執拗に蓮に投げかけられた。

「景之亮に他の女のところへ行け、と言ってくれと。自分には子を生すことは無理だから、丸が言うなら、景之亮も考えるとな。そうすれば、わしが気を揉むこともなくなる」

「蓮様、この通りです。お部屋にお戻りくださいな」

 丸は必死に蓮の体を押すが、蓮の体は宇筑の方へと向かっていく。

「私たちのことは私たちで決めるわ。宇筑様の思うようには行かない。だから、ずっと宇筑様は気を揉まなくてはなりませんわね!」

 蓮は丸の強い力に仕方なく従い、捨て台詞を言って、宇筑に背を向けた。

 蓮は肩を怒らせて部屋に上がる階を登ったが、上まで上がるとその肩は下がった。

 庇の間に入ると、丸が申し訳なさそうに言った。

「……蓮様、私のことはいいのですよ。それよりも、蓮様は宇筑様とお会いならないように。旦那様も蓮様を宇筑様には会わせないようにしていらしているのですよ。なのに、蓮様から会いに行って」

「だって、私は知っているのよ。丸が言われていることを。我慢ならなくなったの。丸は私でも景之亮様でもないのだから、何もできないのに」

「蓮様……」

 憤っている蓮の姿に、丸は優しい眼差しを向けて見つめた。

「旦那様は、蓮様のことがお好きで仕方ないのですよ。宇筑様が何を言っても、あなた様以外の女人のところに行くことはないのですよ。だから、宇筑様のことは気にせず、景之亮様の声だけを聞いていたらいいのですよ」

 蓮はその言葉に頷いて、写本の続きをすると言った。

 丸は、景之亮が蓮をどれほど好きなのかを知っていた。

 あの日、夕餉の給仕をしていた時、照れながら蓮と婚約したことを話した景之亮は今までに見たことない嬉しさがこぼれる顔だった。

「まあ、岩城様の娘様なのですか?」

「私とは不釣り合いだよな」

「そんなことはありません」

「本心を言っていいんだぞ、丸。私だって、未だに信じられない。私は振られるものと思っていたのだ。それが、私がいいと言ってくれたんだ」

「そうですか……嬉しいことです。もっと早くに入ってくだされば、祝いのお酒でも用意できましたのに」

「いいんだ。酒などなくても酔える気分だよ」

「まあ、そんなことがあるのですね!」

 二人は顔を見合わせて笑い合った。

「旦那様、その蓮様という岩城のお姫様は、どのようなお方なのですか?」

「明るくて、優しくて、可愛らしいよ。そして一本気な人だよ。私にはもったいない」

 と言って、思い出し笑いをする。

 景之亮の幸せそうな様子に丸も嬉しくなったのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る