第二章18

 蓮から手を放した実言は几帳の裏に回って、景之亮の前に膝をついた。

 景之亮が実言の顔を正視する。

「景之亮……行こう」

「実言様、私は……」

「お前もわかっているだろう。……お前の妻は良くも悪くもこうと決めたらそれを貫く。先ほど聞いた通りだよ。お前がどう言葉を尽くそうとも、あの子の心はそれを受け付けはしない」

 景之亮は認めたくないと首を小さく左右に振った。

「景之亮」

 実言は少しばかり語気を強めてその名を言った。

 その時の景之亮の表情を、蓮が見たらどう思っただろうか。

自分がどれほどひどいことをしたのか自責の念に駆られたことだろう。それほどに景之亮の顔は苦しみに歪み、これほどの偉丈夫が体に一つの傷も負わされていないのに崩れ落ちて行く姿だった。

 実言が立ち上がると景之亮も従った。

 蓮の言っていることは全て嘘だとわかっているのに、蓮にその嘘をやめさせることができない自分の不甲斐なさに怒り、体の内側から震えがきた。

 景之亮は重い体を引きずるようにして、実言の後をゆっくりと着いてゆく。

 実言は自分の部屋に入ると、景之亮を前に座らせた。

「景之亮……仕方のないことが世の中にはあるものだ。私が今のあの子の気持ちを捻じ曲げて、お前のところに戻らせても、二人の真の幸せになるだろうか。きっとあの子は全力で自分の気持ちを押し通すよ。私は二人が今以上に傷つく姿を見たくない」

「全ては私の不徳の致すところです。……蓮を守ることができず、傷つけて、それに気づくことができなかった」

「そんな言葉はいらないよ。あの子が辛かったのはわかる。でも、景之亮だけが悪いわけではない。……あの子はあの子なりに考え抜いて覚悟を持った。それは私であっても覆すことはできないようだ。私の方こそ申し訳ないと思う」

「いいえ、これは私の責任です。私が蓮を守れなかった。本当に申し訳ないことをしました。詫びても詫び足りません」

「あの子はお前の気持ちをわかっているよ。しかし、決めたらどうとも覆すことは難しい。それはお前もわかっているだろう。自分の気持ちが定まったら一直線だ。……だから、あの子が言っていたように、景之亮は景之亮の道を行け。いいね」

 景之亮は神妙な顔をして実言を見ている。

「しかし、蓮との繋がりが切れてもお前は一度私の息子になったのだから、私はそのつもりでこれからもお前を頼らせてもらうよ。今までのように何でもというわけには行かないだろうけどね。本当に景之亮には助けられているから、私もその恩に報いなければ。景之亮も遠慮なく私のことをあてにしてほしい。いいね」

 景之亮はやはり頷くことなく、黙って実言を見ている。

 頷いてしまったら、実言が言ったことを認めてしまうことになる。

「景之亮!」

 実言のひときわ大きな歯切れのいい声に景之亮ははっとした。

「私も辛い。しかし、あの子のことをよくわかっている我々なら、この先、この状況を変えられないことはわかっているだろう。お前はまだやり直せる。私はお前が新しい道を進むことを望むよ」

 景之亮は眉間にしわが寄った。そして、頬が痙攣したように動いて、思わず手で顔を覆った。それは、蓮、実言親子が言っていることを認めたくない、抗いたいのに、それを受け入れるしかないと思っている冷静な認識と燃える蓮への愛の感情の間でのもがきが体の外に現れたのだった。

「実言様……」

 そう言って、景之亮は沈黙した。

 長い沈黙の後。

「お言葉、痛み入ります。実言様のお言葉は私の気持ちでもあります。私はこれからも五条岩城家のために尽くして参ります。何かありましたら、私のことを一番に頭に思い浮かべてくださいませ」

「相分かった。私が見込んだ男だ。頼りにしているよ」

 景之亮は、両手をついて深く頭を垂れると言った。

「では、これにて失礼します。蓮殿のことをよろしくお頼み申します」

「ああ、あの子のことは心配しないでおくれ」

 景之亮は立ち上がるとそのまま後づ去りし、庇の間の入口まで来ると後ろを向いて、簀子縁から玄関に向かった。

 景之亮が五条岩城邸の門を出るころ、実言のいる部屋に礼が入って来た。

「景之亮殿……蓮のことを大切にしてくださったわ……」

 実言の前に座って、呟くように言った。

 お互いを思っているのに、別れてしまった二人。

 景之亮は叔父の宇筑の執拗な嫌がらせにまいってしまったと思っているようだが、蓮はそんなことにまいるような娘ではない。

 蓮が景之亮と別れた理由は……。

実言も礼も推測できた。

 景之亮は養子を取ればいいと言ったが、蓮がそれをよしとしなかった。蓮が産めないと決まったわけではないが、必ず生すとは言えないので、今に決めたのだろう。景之亮が景之亮と血のつながった子を得るためには、自分がいてはいけない。自分がいては景之亮が他の女人の元に行くことはない故に、蓮は別れる決意をして嘘を言ったのだ。

 その気持ちを思うと、景之亮の元に戻れとは言えなかった。

「……蓮のところに行ってやって……泣いているから」

 実言の言葉に礼は頷いて、蓮の部屋へと行った。

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