第二章17

 翌日の蓮は食欲がないと言って、曜に朝餉を持って来させなかったが、遅く起きた宗清と珊が部屋に来て、一緒に食事をしようというので食べることにした。

 以前は蓮が手伝って食事をしていた珊だが、今は十歳になって、自分のことは自分でできるようになった。宗清と兄妹のように軽口を言い合って朝餉を食べている。

 蓮も形ばかり粥を匙で掬って口に入れたが、珊は匙で掬ったのがたったの一回であることを見ていて。

「姉さま、お粥が減ってない」

 と指摘した。

 珊を心配させてはいけないと、蓮は無理をして二回、三回と匙で掬って粥を食べた。元気のない大きな姉の状況を知ってか知らずか粥を食べる大きな姉の様子に満足したようで、食べ終えると宗清は本家の従兄弟たちと塾に行くと言い、珊は榧が迎えに来て薬草園に連れて行った。

 一人になった蓮は机に向かって、写本の続きを始める。

 机の上には昨日、思わず景之亮への気持ちを書いた紙が置かれたままになっている。

 嫌いになったと書こうとしたが、もう一度そのことを書くことができずに、途中でぐちゃぐちゃと筆先を流したのだった。

 蓮は今日も写本に没頭した。侍女の曜が様子を見に来てくれたが、それ以外は誰も、この部屋に現れなかった。

いつの間にか、陽は西へと傾いていた。

 蓮は西の空を眺めた後、今日の成果ともいうべき書いた紙を重ねたその嵩を見つめた。

 簀子縁からこちらに向かって来る複数人の足音に気づいた。

誰かしら……お母さま?……と榧?

と考えたが、それとは違う。

 母と妹、侍女たちが複数人で部屋に来る足音とは違う。その足音は重いのが気になる。女人ではなく、男の人が来るのだ。

 お父さま……実津瀬……。いや、二人とは違っている……。

蓮は想像したくない人物の姿が浮かび上がって、筆を置いて身構えた。

視線を向けるのが怖かったが、振り返って、降りた御簾に映る簀子縁を歩く人影を見た。そこには一人の影しか映っていない。そして、想像した人物の形とは違っている。複数人がこの部屋に来ると思ったが、足音は自分の聞き違いだったのかも。

「蓮」

 御簾の上がった入口から、父の実言が入って来た。

 蓮は立ち上がって、父を迎えた。

 景之亮との永遠の別れを決めて、五条の邸に戻って来たが、父と面と向かって会うのはこれが初めてだった。

 母の礼や榧から話は聞いているだろうけど、父が自ら蓮に訊ねに来たりはしなかった。

 何を言われるのだろうと、蓮は怖くて下を向いた。

「蓮……。食事もあまり摂っていないと聞いたよ」

「はい、食べる気がしなくて……。でも今朝は珊や宗清が心配して、部屋に来てくれて一緒に食事をしました」

 実言は頷いた。

 蓮は下を向いたまま、次は何を言われるのだろうと思った。

 しかし、この邸に置いてもらうには父と話さなくてはいけない。いつか通る道であるから、ここは逃げてはいけないのだ。

「お父さま……私……」

 蓮が意を決して顔を上げた時、庇の間に大きな影が差した。

 ちらっと視界に人が映った。

 それが誰だかすぐに感じて、蓮は部屋の奥へと向かおうとした。

「蓮!」

「蓮!」

二人の声が重なった。

一人は父で、もう一人は庇の間に現れた景之亮だ。

やはり、複数人の足音が聞こえたことに間違いはなかったのだ。父と景之亮が二人でここに来て、景之亮は簀子縁で待っていた。

父に手を握られたが、そこに留まらせようと引っ張られることはなかった。父は蓮と一緒に几帳の後ろについて来た。

「蓮……景之亮と話し合っていないそうじゃないか。一方的に手紙を置いてここに帰ってきたらしいね。……それでは景之亮も納得できないだろう。最後は、お前の気持ちに従えばいい……だけど、手紙だけではよくないよ」

 父に言われたが、蓮は下を向いて黙っている。

 その間にも床を鳴らす音がして、景之亮が近づいて来ていることがわかった。

「……お父さま……お願い……。景之亮様には会えません……」

 顔を上げて、蓮は父に懇願した。

「……なぜ?」

「もう……もう、私には景之亮様を思う気持ちがないから……。会っても仕方がないの……。お互い辛いだけ」

 そう言葉を絞り出す間に、蓮の目の縁にはみるみる涙が溜まった。

「蓮、どうか……話をさせてくれないか」

景之亮が言った。

 蓮は涙がこぼれ落ちると、気持ちが昂って来て抑えるのに必死だ。

「景之亮、この几帳の前に座ってくれ」

 実言が言うと、床の軋む音が近づいた。景之亮が膝をつき、几帳の前に座った。

「蓮……あなたに謝りたい。叔父があなたに言った酷い言葉を丸から聞いた。私があなたと叔父の間で困らないように、丸に口止めをさせていたと。丸も生真面目にあなたの言うことを守って私に言わなかったことを悔やんでいる。私も叔父の日頃の言動を考えれば、もっとあなたのことを気に掛けるべきだった。なのに、それをしなかった。私を助けてくれた叔父に恩を感じていることで叔父に強く言わなかった。そして、あなたに苦しみを我慢させてしまった」

 父に握られていた手だったが、今は逆に蓮が握り返していた。黙って景之亮の言葉を聞いている。

「蓮……子ができなくたって、私は蓮と一緒にいたいんだ。実言様とも相談して、親戚から養子を迎えよう。その子を二人で育てよう。それに、まだ私たちに子ができないと決まったわけではない。こんなに早く諦めるものではないだろう」

 蓮は父に手を握り返されて、父に顔を向けた。

 更にぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。

 几帳一枚隔てた向こうで景之亮が苦しそうに言葉を絞り出している。透けて見える陰は前よりも小さくなったように思えた。

 景之亮の言葉に従えたら、どんなに楽だろうか。

 蓮は目を閉じた。

 景之亮がこういうことはわかっていた。だけど、この言葉を受け入れないと決めて、鷹取の邸を出てきたのだ。どんな懐柔にも屈しないと決めて。だから。

「そうね、景之亮様、あなたがそう言ってくれるなら、そうしましょう」

 なんて言葉は言わない。

 景之亮が諦める一撃の言葉を放つだけだ。

「……景之亮様……大きな間違いをしていらっしゃるわ。私は景之亮様への気持ちはない、と言っているのよ。だから、会いたくないの……景之亮様と暮らすことが嫌なのよ……」

「……蓮……どうして」

「……先ほど……景之亮様が言った通りよ。……宇筑殿とのこと……もうこれ以上は耐えられないの。……同時に景之亮様への気持ちも無くなった……。何を言われてもその気持ちが戻ることはないわ」

 蓮は一言一言をゆっくりと言った。

「景之亮様が私に慈悲をかけてくださるなら……私と別れてください。私は私の新しい道を……行きますから、景之亮様も……あなたの道を……行ってください。……お願い」

 最後は懇願した。

 几帳の向こうの景之亮にはわからないように、ゆっくりと息を吐いた。

 放心した蓮の手が動かされた。自分の体を制御できずに、勝手に手が動いたのかと思い、蓮は手に視線を落とした。

 父の手が蓮の手を握り返し、逆の手が蓮の甲へと置かれて、ぽんぽんと優しく撫ぜられた。

 その行動がどういうことなのかと不思議に思って、蓮は顔を上げて父を見た。

 父は目尻を落として蓮を見返している。少し微笑んでいるように見える。

 お父さま……?

 目が合った後、父は蓮の手を放して立ち上がり、几帳の後ろへと言った。

 そこには景之亮が座っている。

 蓮は、父が何をする気なのかわからず体が強張ったが景之亮がいるので声を出すことはできなかった。

「景之亮」

 父が景之亮を呼ぶ声が聞こえたが、その後に続く言葉は声が小さくて聞こえない。

 そして、景之亮が几帳の前に座った時と同じように、今度は立ち上がるために床が軋む音が聞こえた。そして足音が遠ざかって行く。大きな体の景之亮はその足音も重量があって、それが景之亮の足音とわかる。

 景之亮を拒絶しておきながら、いざ景之亮が去っていくと分かると、蓮はとてつもない寂寞の思いに襲われた。

 覚悟をしていたことだが、心が痛い。

 蓮は足音が聞こえなくなった時に、我慢していた嗚咽を漏らした。

 景之亮様……景之亮様……さようなら……さようなら……。

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