第五章8

 朝、目が覚めると、隣で寝ている芹は目覚めていて、こちらを見ていた。

「……目が覚めていたのか。黙って見ているなんて人が悪い」

 芹は衾の端を引き寄せて口元を隠し、くすくすっと笑って。

「いつもあなたがやっていることです」

 と言った。

 そういえば、まだ寝ている芹の顔を眺めていることはよくあるな、と思った。

「よいお目覚めですか?」

「うん。よく眠れたよ」

 実津瀬は体を起こした。

 先に起き上がった芹は几帳の向こうへ行って、侍女たちに身支度の用意を指示した。

 洗顔が終わった後、芹が髪を梳かして一つに結び、上にあげた。

 部屋に朝餉が用意されて、実津瀬は膳の前に置かれた円座に座った。隣に芹も座り給仕をする。

「……今夜は……遅くなる。……芹も疲れているだろうから、私を待たずに早く休むようにね」

「お帰りは、明日ですか?」

「いや、宴が終わればすぐに帰って来るが、いつ終わるともわからない。あなたをあてもなく待たせたくない」

「はい……わかりました」

 芹は頷いた。

「こんな日に宮廷で仕事とは、大変ですね」

 朝餉を食べ終わった実津瀬の着替えを手伝う芹は言った。

「うん。しかし、すぐに終わることだからね。大したことはない」

 子守の苗が淳奈を連れて来た。

「おとうさま」

 淳奈は走って実津瀬の元に行った。実津瀬は淳奈を抱き上げて、庇の間から簀子縁に出た。

「では、後ほど、また会おう。必ず宴が始まる前に観覧の間に会いに行くよ」

 実津瀬は下ろした淳奈の頭を撫でて玄関へと向かった。



 全ての必要な物は前日に控えの間に運び込まれている。不足がないか念のため、下端の団員が確認を行っている。

 荷物が運び込まれた部屋の奥の衝立の中で、朱鷺世は上半身を脱いで向かい合って座る男に化粧をしてもらっていた。

「目を閉じて、縁取りをするから」

 朱鷺世は言われた通りに目を閉じた。

 指が目の縁をなぞる。

 化粧をするのはこれで二度目。一年前の月の宴の時に化粧をして以来だ。黙って言われることに従っていれば、舞う準備は整っていくことはわかっている。

「ありがとう。私は観覧の間に行ってきます。時間には戻ってきますから」

 衝立の反対側では同じように、化粧を終えた岩城実津瀬が立ち上がって、部屋を出て行った。先に来て、準備をしていたのだ。

 朱鷺世は麻奈見の計らいで風呂に入れてもらえることになって、宮廷の風呂で体を流し、髪を洗って来た。その分、翔丘殿に来るのが遅くなった。

 去年の月の宴は、前日に岩城実津瀬は病気のために舞うことができないと伝えられて雅楽寮の団員達は総毛だった。そこで麻奈見はすぐに代役は朱鷺世と言った。稽古場でどよめきが起こったのを覚えている。

淡路と実津瀬が二人で揃って舞っている舞を朱鷺世も含めた練習生三人で練習していたけれど、まさか自分が代役に選ばれるとは思わなかった。抜擢されたその時から、麻奈見と淡路が付きっ切りで細かい指導を受け、その夜は稽古場に泊まり、夜明けとともに起きて続きの練習をしたのだった。風呂に入る時間はなく、体に流れた汗を水と布で拭いて、翔丘殿に向かった。化粧をし、実津瀬が着るはずだった衣装を着た。その時は痩せていたから布が余って仕方がなかった。控えの間から舞台下まで麻奈見が傍について何をすればいいかを教えてくれて、それに従うだけだった。いざ舞台に上がるという時麻奈見から、お前の思うように舞え、と言われた。それまで顔の向きや手の上げ方、足の踏み出し方を細かく言われていたのに、今になって自分の思うようにするとは、どういうことかと思ったが、今の自分にできる最大限のことをしよう、と心を決めてその言葉通りに舞った。結果、その思いの通りに舞えたのか、大王や桂王女にたいそう褒められた。

 あの日があったから、今日があると思うと、この一年間の自分の生活の変貌に感慨を覚えた。

「朱鷺世、準備はどうだ?」

 淡路が部屋に入って来て、声を掛けてきた。

「順調です」

 朱鷺世の化粧をしている男が答えた。

「実津瀬殿は化粧は終わっています」

 実津瀬の化粧と着替えを手伝った別の男が答えた。

「知っている。先ほど、廊下ですれ違った」

 淡路は衝立の前まで来ると、衝立越しに朱鷺世の裸の肩に手を置いて言った。

「去年と同じようにすればよい。あの時のお前は落ち着いていて、一緒に舞う俺は何の不安もなかったから」

 言いたいことを言った後、淡路は隣の部屋に行った。

 朱鷺世の化粧が終わると、古びた自分の袴を脱ぎ、衣装の真っ白な袴をはいて、裸の上半身に下着をつけた。

「上着はどうする?」

 朱鷺世は首を横に振った。

 衣装箱の中にある錦の上着は、直前まで着ないでおこう、と朱鷺世は思った。

 この上着は桂が大王や宮廷の役所の上の者たちに頭を下げて許しを得て、宮廷の機織りと針子たちに作らせたものである。こき使われる機織り、針子たちの機嫌を取るために桂は自分で豪華な食事をご馳走し、出来上がった上着が桂のもとに届けられたら、その者たちの労をねぎらって新調した上着を贈った。不満を口にしていた機織り、針子の女たちは皆、最後は喜び、桂に感謝したのだった。

 そういえば……

 化粧と髪を結い終わった岩城実津瀬は、観覧の間に行く際、着ていた上着はこの最上級の上着ではなかった。自分と同じようにこの美しい衣装を舞う前から無暗に人の目に晒すことに気が引けたのだろうな。

 この衣装は舞台に上がり舞った時に、最高の演出をしてくれる。それまでは、隠しておくものだ。

 隣の部屋から戻って来た淡路が言った。

「朱鷺世、昼寝でもするか?隣の部屋を片付けさせたから、少し横になっていいぞ」

 昨年とは全く違う待遇だ。

 朱鷺世は権力者に気に入られると、こうも待遇が変わるものかと思った。

 これから空腹のひもじさも、理不尽ないじめで痛めつけられることもない生活を送るには、権力者に気に入られる必要がある。それには、まず今日、最高の舞を舞ってみせなくてはならない。

 朱鷺世は得られるものは全てこの手に掴む気持ちになった。

束の間の休みも、今の自分には必要だ。朝から準備で立ち働いていて、正直疲れている。

 淡路について行き、朱鷺世は隣の部屋で上を向いて横になり、目を瞑った。

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