第五章7

 桂は、月の宴に雨が降らないようにと、前日に巫女と共に祈りを捧げた。

 いつもなら、雨を降らせてほしいと祈りを捧げるのに、宴の時はその反対を祈るなんてつくづく自分は勝手なものだ、と桂は思った。

 桂の祈りが通じたのか宴の日の朝、桂の頭上には青空が広がっていた。

 寝衣のまま、簀子縁まで出て明るい空を眺めた。

「桂様、そのような姿で端近に出てはいけませんよ」

 年配の侍女は胸元のはだけた姿の桂に言った。桂に意見できるのはこの侍女くらいである。

「鳴(めい)、久しぶりに良い目覚めなんだ。小言はやめておくれ」

「庭に誰がいるかわかりませんでしょう」

「ふん。着替える。手伝っておくれ」

 侍女の鳴の言うことに従って、桂は部屋の奥へと入って行った。

 洗顔を済ませたら、模様のない素っ気ない上着、裳を着けた。髪をとかしてもらったが、垂らして一つに結んだだけにした。

 翔丘殿に行くまでは誰にも会う予定はない。

 受け継いだ春日王子の邸の中で一番好きな場所、石を敷きつめた部屋で机について、少しの時間、届いた手紙を読み、必要があれば返事を書いた。

 この部屋は、人と会うための部屋、謁見の間として作られたものだ。石が敷き詰められた部分と、一段上に板を張った部分に別れている。桂が譲り受けてこの邸に来た時は一段上がった板間には、椅子が置かれていた。持ち主であった春日王子がその椅子に座り、石敷きの間に座る者と会っていたと想像した。桂は石敷きの方が好きで、机を置いてそこで手紙を読んだり、返事を書いたりしている。石敷きの間の扉を開け放つと明るい光が差し込んで気持ちよく、天気の良い日は食事や酒を用意し、多くの知人たちを招いた。そして、板間を舞台として使い、楽器奏者や舞人を上げて、音楽と舞を鑑賞した。

手元に置いている鐘を鳴らすと、侍女の鳴が現れた。

「お腹が空いたから粥を少し持って来ておくれ」

「はい、桂様」

 桂は少ない量の食事を何度かに分けて食べるのが常だった。

 今日も朝餉を少し食べていたが、作業をしていたら空腹を感じたのだった。

 侍女が持って来た粥の湯気を口で吹いて冷まし、匙ですくって口に入れた。

青空を確認するために開け放った扉と窓から、柔らかな光が差し込み、爽やかな風が入って来る。青々と茂った庭の樹々を眺めながら、桂は粥を数口食べた。

「鳴!」

 桂が呼ぶと、邸の板間の方から鳴が現れた。

「昼寝をする。この部屋を片付けて置いておくれ」

 粥が少し残ったままの椀が机の上に置かれていた。

「かしこまりました」

 鳴は自分の後ろにいた侍女に後を任せて、階を上がって来た桂について行く。

「未刻(午後二時)になったら起こしに来ておくれ。起きたら風呂に入りたいから、その準備もよろしく頼む」

 桂は寝室の几帳の中に入ると、上着を脱いで薄い下着姿になると、御帳台に上がり衾の下に滑り込んだ。

 鳴は蔀戸を閉じるように命じて、部屋の中は暗くなった。桂は目を瞑るとすぐに眠りに落ちた。

 未刻になったら起こし来ておくれ。そうは言ったものの、桂は鳴に起こされる前に目を覚ました。

 今夜のことを楽しみにしているせいか、時間まで待てずに目が覚めたようだ。私の思いついた勝負に二人の男がこの数か月真剣に取り組み、今夜、その才能と努力の成果を全力で見せてくれると思うと、だらだらと寝ていられない気持ちになったのだな。

 桂は思って、御帳台の端に座って、下に足を下ろした。

「桂様……お目覚めですか?」

「うん……目が覚めたわ」

「お待ちくださいませ。戸を開けさせます」

 桂は下ろした足を上げて寝転び、再び衾を顎の下まで引き上げた。

 簀子縁から次々に蔀戸が上げられて、部屋の中に光が入って来た。

 簀子縁に人の気配が無くなってから、桂は御帳台の端から足を下ろして腰かけた。

 几帳の中に入って来た鳴は言った。

「随分と早いお目覚めでございました」

「今夜が楽しみで長く寝ていられないらしい」

「風呂の用意はしてあります」

 鳴は井戸の深くから汲み上げた水を入れた椀を桂の前に差し出した。桂は椀を両手で持って、口元に持っていき、冷たい水を飲み干した。

「そうか。では、すぐに入ろう」

 桂は空になった椀を鳴に返して、御帳台から立ち上がった。もう一人の侍女が桂の肩に上着を着せかけた。

 立派な風呂場がこの邸にはあった。

 人が二人足を延ばして入れるほどの広さの桶が据えてあり、その中にお湯を流し入れて入ることができる。また、温めたお湯の蒸気に当たり、すくった湯で体を洗い流す洗い場もあった。

 桂は温かい湯に浸かる方が好きで、その好みをわかっている鳴は桶の中にお湯を溜めていた。

「髪はどうされますか?」

「もちろん洗う。今日は良い天気だし、すぐに乾くと思う。体の隅々まできれいにして、まだどこにも着ていっていない新しい上着に袖を通し、目にも鮮やかな赤い裳を着ける。誰も見たことのない織と文様の領巾を纏い、結い上げた髪にまだ誰も手にしていない異国から届いた櫛と飾りを挿そうと思う」

 桂は肌着を脱いだ。

 鳴が小さな木桶で湯をすくって、石畳みの上に流した。敷きつめられた角の取れた平たい石の上をお湯が流れて、桂の足の裏を濡らした。

「よろしいですか?」

「うん。大丈夫だ。入ろう」

 桂は桶の前に立ち、鳴が差し出した湯を汲んだ木桶の中に指先を着けた。

「よい湯加減だ」

 桂は桶の縁をまたいで湯の中へと入った。

 湯の温かさがじんわりと体にしみてきて気持ち良い。

「呼ぶまで下がっていておくれ」

 桂は風呂の縁の前に跪いている鳴に言った。

 手で湯をすくって顔をつける。そして、両手を胸の上に置いた。

 今日という日をどれだけ心待ちにしていただろうか。

 子供の頃から舞や踊りが好きだった。童女の頃から乙女になるまで女舞を習い、乙女四人で先代大王の前で舞って見せたこともあった。

 一方で宮中の宴や大王が主催する宴で披露される男の舞に惹かれていた。自分もあの舞をしたいと思った。

 王女が望むならと邸の庭に雅楽寮から人を呼んで教えてもらったが、それまで習っていた女舞のゆったりとしたものとは違い、躍動するその舞を真似できるものではなかった。

しかし、自分の精進が足りないとは思わない。好きでやってみたがこれは自分のできる範疇ではないと思った。

 しかし好きなものを諦めることはせず、桂は舞の支援者になることにした。

 自分が飽きるまで舞を観ていたい。この心が求める喜びを追求したい。

 桂は欲望に従い行動してきた。自邸で舞の鑑賞会を開き、舞をする者を育てようとした。

 素晴らしい舞手が現れたら、その者を惜しみなく支援しようと思った。

 そして、今、桂の目に敵う舞手が二人も現れたのだ。

 一人だけを見るのはもったいない。二人を並べてその舞を観たい。

 でも、二人が並んで同じ舞をするだけでいいのか……

 桂はその時に、競わせたい、と思ったのだ。

 競うことになったら、二人はどう思うのだろう。どう行動するのだろう。

 朱鷺世は雅楽寮の一員だから、何を言われても従うしかないだろうが、実津瀬は何というだろうか。もう、舞はやらないと言うかもしれない。だが、そんな心配は杞憂で、実津瀬もこの勝負を受けた。そして、二人は真剣に舞の美しさを追求してくれた。

 今夜の舞が本当に楽しみだ。

 どちらかが勝ち、どちらかが負けることになるが、桂にとってそれは重要ではなかった。二人の究極の舞が見られることが喜びだった。

 だから、二人の費やした時間と精神に敬意を表すために、桂は最高に着飾って二人の前に立つつもりだ。

 胸に当てた手を広げて湯をすくい、そこへ再び顔をつけた。昼寝の後のぼんやりとした頭がはっきりとしてくる。

「鳴!……鳴!髪を洗うから来ておくれ!」

 桂は顔を上げて言い放った。

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