第五章6

「朱鷺世、今日は早く休めよ」

 先ほど、雅楽寮の長官、麻奈見から言われた言葉を、稽古場から先に立ち去る先輩舞手の淡路にも言われた。

 朱鷺世は頷いたが、すぐに寝床部屋には行かなかった。

 誰にも気づかれないように、庭の奥を通って、侍女たちの住む長屋の前に行った。樹の陰に隠れて、指笛を吹き待っていると長屋の端の扉が開いて露が顔を出した。

 朱鷺世は扉から顔を出したのが露だとわかって、樹の陰から顔を出した。

 朱鷺世に気づいた露は一度引っ込んで、再び扉を開け階を下りて来た。

「朱鷺世」

 露の方から朱鷺世の胴に飛び込んできて、腕を巻き付けて来た。

 朱鷺世はその行動に虚をつかれて、少し後ろによろめいた。

「明日ね。とうとうその日が来るわ」

 露は回した腕に力を込めて言った。

 明日は月の宴の開催日である。その日が来ることに露の方が意識しているようだ。

 朱鷺世は露の頭に手を載せてさすった。

「ごはんは食べた?搗き米を取って来たわ」

 朱鷺世の胸から顔を上げた露は、いつものように胸の間から葉に包んだ搗き米を取り出した。以前の朱鷺世は、食事が十分にとれず、露が台所からもらって来る搗き米が頼りだったが、今はそんなことはなかった。誰も朱鷺世の膳をひっくり返したり、虫を入れて食べられなくしたりしない。そんなことをする者がいたら、麻奈見か淡路に誰かが密に報告する。陰で陰湿に痛めつけるなんてことはできないほど、朱鷺世は実力をつけ、名を売った。朱鷺世が痩せたり、怪我をしたりしたならば、それはなぜかと原因追及がされるだろう。怪我や体調不良にさせてはいけない舞手になった。だから、朱鷺世は空腹に悩むことはなくなったのだが、露にはそんなことを話さず、いつものように露から搗き米をもらった。そこまで腹が空いていなければ、露と分け合って食べた。

 今も、庭の奥に入って木の根元に隣り合って座り、丸められた搗き米を半分に割って食べている。

 夕闇で露の表情が見えづらくなっていく中、露はにっこりと笑っている。

「……明日は、翔丘殿に手伝いに来られるのか……」

 先に食べ終わった朱鷺世が訊いた。

「それが、選ばれなかったの……。残って部屋の掃除をやらなくちゃいけない。翔丘殿にいく子に代わってほしいってお願いしたいけど、皆、行ってみたいから代わってくれる人はいなかった……残念。朱鷺世の舞を観たかった……」

 宴には台所の手伝い、料理の配膳や酒を注ぐ仕事に多くの女官が必要だった。

 十日ほど前、露は稽古場を覗きにやって来た。

 その時に、露が翔丘殿の女官に選ばれたら朱鷺世の本番の舞を垣間見ることができるかもしれないと二人で話していたのだった。

「そうか……」

 朱鷺世はそう言って黙った。

「朱鷺世が、衣装を着けて舞っている姿を観たかったわ」

 そう言って、露は搗き米の最後の一口を口の中に入れて咀嚼した。

 その十日ほど前。

 露はそれまでも何度か稽古場を覗いていたが、楽器演奏者や舞台を手伝う者など大勢が見ているので、女人一人が扉の前に立つのには勇気がいった。通り過ぎる時に、稽古場の開いた扉から中央に立っている朱鷺世の姿をちらっと見るだけだった。それが、その日は時間が遅く、稽古場には朱鷺世一人が残って練習していたのだった。ここができていない、あそこがまた直っていないと言われ続けて、凹んでいたところに、露がやって来た。

「朱鷺世……ひとり?」

 扉の影から露がこちらを窺い見る姿が見えた。

「入って来いよ」

「いいの?何度も稽古場の前を通ったのだけど、たくさんの人がいて観ることができなかったわ」

「今は俺一人だ。……少し観て行くか?」

「いいの?観たいわ」

 露は扉の傍に腰を下ろし、中央に立った朱鷺世を見つめた。

 頭の中で笛の音が始まった。小さかった太鼓の音がだんだんと大きくなる。琵琶の音が掻き鳴らされて一瞬の静寂の後、舞は始まる。

 既に一人舞の内容は決まっていた。

 思い切りのよいところが朱鷺世の良いところと言われて大きな動きがその長くて細い手と足、体の動きを美しく見せたが、繊細な舞も極めようと朱鷺世は手の振り、向き、足の幅、向きと一つ一つこだわった動きを練習していた。

 露の前で朱鷺世はこれまで気を付けるべきことを忠実に再現しようとした。

 無音の中、朱鷺世の息遣い、時折発するかけ声を聞きながら露は舞に見惚れた。

 朱鷺世が片膝を着いた後動かなり、頭を垂れた時に、舞は終わったのだと分かった。

 露は手を叩いてその舞を称えた。

「ああ、あなたはきれいな衣装を着けて、月明かりの下、音楽に合わせて舞うのね。見たい、見たいわ!」

 陽の高い、明るい部屋の中で久しぶりに露の顔を見た。色の白さは、病的で体調が悪いのではないかと思わせた。

「……聞くところによると、翔丘殿には大勢の手伝いがいるそうだから、宮廷の女官も当日は借り出されるそうだ。露が選ばれたら、見られるよ」

「そうね!選ばれるように祈るわ。楽しみね」

 そんな会話をしていたから、本当に露が翔丘殿で給仕する女官に選ばれたらいいと朱鷺世も思っていた。内心では露が選ばれなかったことを露と同じほどに残念に思っている。

 隣で最後の一口を口に入れて咀嚼している露の頬に手を当てて撫ぜた。

「……なあに?」

「……飯は食べているか?」

「食べているわ。今も、朱鷺世と半分こしたわ」

「……眠れているか?」

「うん……すぐに寝ちゃうけど、何度も起きる時があるわ……。朝が早い時、遅刻しちゃいけないと思って。どうしたの?」

「前に会った時、顔色が悪かったから。……どこか悪いのかと思って」

「心配してくれていたの?」

 露が訊ねると、朱鷺世は露の方に体を向けて、足を開き露の体を囲って抱いた。

 露の質問に朱鷺世は答えない。

 露も朱鷺世の体に抱きついた。

 震えたりしているわけではないが、朱鷺世が緊張しているのがわかる。

 この人が、明日、どのような舞をするのか、この目で観たかった、と露は心底残念に思うのだった。

「朱鷺世、最高の舞ができるわよ。あなたなら、最高の舞が舞えるわ」

 露が耳元で囁くように言った。

 朱鷺世は、露の体を抱き直した。

 月の宴で舞の勝負をする主役の一人に選ばれてから、嬉しさ、誇らしさ、苦しさ、悔しさ、優越、孤独といろいろな感情が通り過ぎていった。どの感情も、自分の中でどう処理したらいいかわからなかった。そんな気持ちが溢れて不安になるといつも隣にいてくれた露の体を抱き締めた。自分を受け入れてくれる露の優しさがなければ、到底、この数か月の試練には耐えられなかった。露の実体をこの手にすることで、心の平静が保てた。

 明日の決戦の前日もこうして露に会い来た自分はどこまでも心の弱い男だと思った。

 あなたなら、最高の舞が舞える。

 露の言葉に朱鷺世は安心して、自分の部屋に戻った。

 同じ部屋の者たちは既に寝息を立てている。ひどいいびきをかいている者もいる。このいびきの中、眠ることができるかな、と思ったが、朱鷺世は目を瞑るとすぐに眠りの泉に引きずり込まれて行った。

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