第二章5

「おお、これはどうしたことだ!随分と邸がきれいになったものだ」

 庭から男の声がした。

朝、目が覚めて、部屋の中に陽の光が入ってくるような時間までも、景之亮と蓮は衾の中で陸み合っていたが、もう起きなくては丸たちも気まずかろうと、起きて身だしなみ整え終わったところだった。

声に二人は顔を見合わせて、景之亮が庇の間から簀子縁へと出た。

庭にいたのは、景之亮の後見役であった叔父の宇筑だった。

突然現れた宇筑に対して、景之亮は少し驚いたが、嫌な顔はせずに部屋に上げた。

「叔父上、明日にお越しいただくように伝えていたはずですが……もしかして……私が間違えたことをお伝えしていましたか」

「いいや、間違えていない。明日と聞いた。しかし、明日はなかろう。もう、お前の妻はここにいるのだろう。そうであれば、早く会わせるものだろうが」

 蓮が景之亮の邸に来て次の日である。 

 景之亮も蓮がこの邸に来た初めての夜を迎えた後に、夜明けから宮廷に出仕することはせず、二人でゆっくりとした朝を迎えて、さて、これから少し宮廷で仕事をしてこようかという時に宇筑が現れたのだった。

 宇筑は言って、ひょいっと、横に顔を出して景之亮の後ろを覗いた。几帳の後ろから半身を出して、様子を窺っていた蓮は宇筑と目が合った。

「や!これは」

 宇筑は蓮を見ると、目を上げたまま頭を下げる。

「ほほう。あなたが岩城様の娘様、蓮殿でいらっしゃいますか……甥をよろしくお頼み申します。どうかどうか、この鷹取の一族をよろしくお頼み申しますよ」

 と言った。

岩城の娘だからと遠慮しているように見えるが、その目は不躾で蓮の姿を上から下までじっと眺める。

 景之亮は、背中を向けていた蓮に半身を向けて、目の前の宇筑を紹介した。

「蓮、この人は私の叔父の宇筑だ」

 蓮は几帳の後ろから出て行き、景之亮の隣に立った。

「叔父上、蓮ですよ」

 宇筑の顔は髭の剃り跡が蒼く、袖から見える手の甲にも剛い毛が見える。景之亮の毛深いのは父方から受け継いでいるのだと思った。

 三人で座って少しばかり話をした。

主に宇筑が話す。その内容は、景之亮の父親が亡くなってから宇筑がどれだけ景之亮を支えてきたかということだった。

その話が一段落すると、景之亮は蓮を立たせた。

「叔父上、蓮は下がらせていただきますよ。昨日こちらに来たばかりで、まだ荷解きがすんでいないのです」

 控えていた丸と一緒に蓮は部屋を出て行った。

その時から、蓮はこの宇筑のことが好きではない。

宇筑は自分のことばかりでこちらの都合など考えず、言葉や態度も尊大だが、権力にはあからさまに媚びる男のように見えるのだ。景之亮に対しては、嫌味や恩着せがましい言葉を投げかけるし、丸や真澄をはじめとするこの邸に仕えてくれている者たちにも、高圧的な態度をとり、気持ちが昂ると声を荒げて叱りつけたりする。しかし、皆、宇筑の性格に慣れているのか、黙って頭を垂れてやり過ごしている。

蓮は宇筑の言葉や態度がひどいのではないかと景之亮に言った。景之亮は叔父を弁護することはなく、黙って蓮の言葉を聞いている。

 景之亮は父が亡くなった後、まだ何も知らない青年の自分の父親代わりになって助けてくれた宇筑に感謝をしていて、叔父の高圧、横柄な態度があっても受け流してきたのだ。

叔父は、根は悪い人ではない。全ては鷹取という一族のために尽くしてくれているのだ。

 景之亮がいいのなら、蓮は何も言わない。

景之亮は、蓮と宇筑を必要以上に合わせることはせず、蓮は景之亮と丸や他の使用人たちと一緒に楽しい日々を送っていた。


 時は経ち、淳奈が生まれて二年が経った頃。

 最近の蓮は頻繁に実家である五条の邸に行っている。

 それは数年ぶりに異国からの使節団が海を渡って来たからだ。大王に選ばれて異国に学びに行った留学生たちがその船に乗って帰って来たのと共に様々な種類の書物や珍しいものがもたらされた。岩城家では異国から持ち込まれた薬に関する書物を多く買った。

 そこで蓮の出番である。

 書物は写して、多くの医者に読ませる必要があった。束蕗原の去のところにも届けなくてはいけない。蓮は本を受け取って、鷹取の邸に戻っては、本を写し、そして、写した本を持ってまた五条邸を訪れる。

 訪れた時は必ず離れに行って、実津瀬と芹と話をする。実津瀬がいないこともあるが、その時は芹と話をするのだ。

 いつもしゃべるのは蓮で、芹は物静かで多くを語ることはなく、話を頷きながら聞いている。

 雰囲気の違う蓮と芹ではあるが、気が合わないようで、実は仲良くいろんなことを話している。

 蓮が離れを訪れる時は、淳奈は隣の部屋で昼寝をしていることが多い。淳奈は目が覚めて母の姿がないと泣くのだ。傍についている子守の苗がすぐに抱き上げて、なだめようとも泣き声は止まらない。大きな声が離れに響き渡る。

 実津瀬が芹に向かって言った。

「芹、行ってやっておくれよ。喉が枯れそうなほどの大きな声を出しているよ」

 芹はわかっていると、頷いて、隣の部屋に行くのだった。

「よしよし、淳奈、目が覚めたの。……どうしたの?泣いて……そんなに泣かなくてもいいのよ」

 御簾を隔てた向こう側で、途切れ途切れに芹の慈愛に満ちた声が聞こえる。

 しばらくすると、芹に抱かれた淳奈がやって来た。目には大粒の涙をためている。

「淳奈、よく眠ったかい?」

 父親の実津瀬が手を伸ばして、息子の濡れた頬を指で拭った。淳奈はそれをあからさまに嫌がりはしなかったが、やはり母がいいと、その顔を芹の胸に埋めた。

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