第六章3

 夕暮れ時、男たちが川の淵に篝火を置いて、川に入って水浴びをする。着ているものを全部脱ぎ捨てて、汗を洗い流すのだった。

「あれ、まだ男の人の声がする」

 井が言った。

「今日も暑くて、たくさん汗をかいたわ。水の中に入るのは気持ちいいでしょうね。だから、まだ上がっていないのよ」

 蓮が返事した。

 男たちが水浴びした後に、女たちが交代で川へやって来る。来た時には大方男たちは川から上がって、上着や袴を着けているところなのだが、今日は川からまだ上がっていないようだ。

 女たちは川のほとりに群生する葦の陰に座って、男たち全員が川から上がるのを待っていた。

「今日も本当に暑かったですねぇ」

 井は帯を緩めて、襟を広げた。後ろにいた蓮が襟を後ろに引っ張って、背中を抜いて風が入りやすくして、そこに団扇で風を送ってやる。

 まだかまだかと文句を言いながら男たち全員が川から上がるまで待っていると、男たちも女たちが去の館から下りて来たことに気づいた。陽が落ち切ってしまうまでに、女たちも水浴びを終えたいので、まだ川の中にいた男たちは一斉に上がった。

「すまなかった」

 男たちは葦の向こうに蹲っている女たちに声を掛けて、急いで上着を羽織ったり、袴をはいたりする。

「お、井じゃないか。来ていたのか」

 数人の男が川から上がった中に、井を見つけて声を掛けて来た男がいた。

「宇田(うた)丹(に)!」

 肩が見えそうなほど上着をくつろげていた井は驚いて、急いで襟を引き上げた。

「悪かったな、待たせて」

 日焼けした顔の大きな口の口角が上がって、並んだ真っ白な歯を見せた。先を行く仲間を追いかけて、井が宇田丹と呼んだ青年は走り去って行った。

 耳や頬を赤くしている井を見ると、好きな人なんていないと言っていた井はただ自分の気持ちに鈍感なのか、嘘を言っていたのかと蓮は思って、にやにやとした笑みを浮かべて井を見た。

「なんですか?蓮さん!」

「今の男の人は幼馴染かしら?」

「ええ、家が近くで、子供の頃から一緒に遊んでいました……」

「今は、去様のお邸で働いているの?」

「畑を耕して、時々去様のお邸で働いています」

「そうなのね。とても仲が良さそうね」

「……はい」

 消え入りそうな声で返事をする井。

 これは自分の気持ちを自覚したのかしら、と蓮は思った。井の反応が面白しろくて笑みが出てしまう。

「もう、蓮さん!なんですか、その笑みは!」

 井は耐えられなくなって声を上げた。

その時、後ろでは。

「行きましょう」

「入りましょう」

 川に入っていた男たちが皆引き上げて行ったのを見計らって、女たちが葦を抜けて川へと近づいた。早速下着姿になり、浅瀬に足を踏み入れる。

 蓮と井も同じように下着姿になって、川の中へと入った。

「冷たい!」

 蓮が言ったところで、井が手に水を掬って蓮にかけた。

「やったわね」

 蓮が応戦して、より大量の水を井に向かってかける。それが他の女人たちに波及して、水の掛け合いが始まり、笑い声が溢れた。夕暮れのひととき、涼み、一日の汗を流した。

 夕闇が濃くなると、去の屋敷から松明を持った男たちが迎えに来てくれた。川淵に置いていた篝火と共に一緒に館に帰った。



 晴れの日が続き、蓮たちは毎日川に水浴びしに行くのが日課となった。

「今日もとても暑かったですね」

 去の館から川に下りて行く坂を下りながら井は蓮に言った。

 下着から上着まで汗を吸って乾いてを繰り返し、夕方には嫌な臭いを発することもある。お互い鼻をつまみたくなる。

「そうね……雨が降らないから川の水が減ったわ」

 川に辿り着いた蓮はその中に入って、数日前まではくるぶしまであった水位が今は足の甲を覆うか覆わないかくらいであるのを見た。 

「夕方にぱらっと雨が降って欲しいですね」

「そうね。いきなり降られて濡れちゃうと嫌だけど、空から一滴の水も落ちてこないのも困りものね。聞くところによると、近々去様は雨乞いの祈りを捧げられるとのこと」

「そうなのですね。確かに、この川の水の量では、そのうち干からびてしまいそうです。この前、川であった宇田丹が言っていたのですが、作った稲が干からびてしまうと。本当にそうなる前にわたしたちもともに雨を乞う祈りを神に捧げなくてはいけません」

 井の言葉に蓮は頷いた。あと数日も暑い日が続くと川の水はもっと少なくなって、水浴びなんてできなくなりそうだった。

 蓮と井は川の淵に腰かけて足を水に浸け、襟をくつろげて団扇で風を送っていた。

「その、宇田丹とはまた会ったの?」

 蓮はにやにやとした笑みを浮かべて訊いた。

「もう、蓮さんは!どうしてそんな笑みを浮かべているのですか!」

「前に井さんに幼馴染の男の人はいるか、ときいたけどあんなに親しい幼馴染がいるとは思わなくて」

「親しいなんて、小さな頃から知っているだけです」

「そお?宇田丹は井さんのこと、気遣っているふうだったから、とても親しいのだと思ったのよ。それで、最近会ったの?」

「はい。お邸に五日おきに手伝いに来ているらしいです。草刈りや、厩の掃除、建物の修理などに。その時に、咳によい薬をもらって帰るらしいです。体の弱い妹がいるので」

「そう……。薬を……。良くなればいいわね」

 去は束蕗原の住人であれば、無償でその症状に合った薬を渡しているし、怪我や病気の手当てをする。しかし、住人たちは去の献身に甘えていられない、自分のできることで何かお返しをしたいと思い、山や川で獲れたものを持って来る者があれば、邸に何か手伝うことはないかと言ってくる者もある。宇田丹は邸で手伝いをして、帰る時に家族のために薬をもらっているのだろう。

 川下では白布を川に浸けて洗っている者たちが見えたが水量が少なくて、思うように洗えない。

 それよりも川下に、一人ぽつんと淵に座っている人の姿が見えた。

「牧さん……」

「……あ、ほんとだ、牧さんですね。珍しい」

 牧が川に水浴びに来る姿を見るのは初めてである。

 蓮は立ち上がって、声を上げた。

「まきさーん!こっちにいらっしゃいよ」

 蓮の声に川下で洗濯をしている者が顔を上げた。あそこまでは声が届いていると分かったので、蓮はより声を張り上げた。

「まーきーさーん!こっちにいらっしゃーい!」

「蓮さん!そんな大きな声を出さなくても牧さんは聞こえていますよ。きっと、聞こえないふりをしているんです」

 井が言うが、蓮は立ち上がって、川の中を川下へ数歩歩いて再び声を上げた。

「牧さん!こっちにいらっしゃいよ。そこはまだ日が当たるわよ!」

 その言葉で牧は川上の蓮の方を向いたが、すぐに顔を背けた。

「蓮さん、ほら、聞こえていて無視しているのです」

 しばらく牧を見ていたが、動かないので蓮は井の隣に戻った。

「牧さんは一人がいいのですよ」

 井が言う。

 確かにそうかもしれないが、見習いの女人たちと険悪な仲のままではよくない。仲良くしなくても、お互いを思いやれる仲にならなければいけない、と蓮は思うのだった。

 向こうで自分の名前が呼ばれている。

 牧は眉間に皺を寄せた。

 こんなおせっかいを焼いてくるのはあの女しかいない。

 無視していれば諦めるかと思ったら、声を張り上げて何度も呼ぶ。

 本当に癇に障る人。

 あんな仲良しこよしの集団に浸かる気はないわ。

 牧は相手が諦めるまで無視を決めた。

 あれは偽善者よ。誰にでもいい顔をして支持を集めて、見習いの女人たちを自分の思うようにしようとしている。あんな女に従っていたらきっと、いいように利用されるわ。

 ……それに……あの女、やけに私が母屋に行って何をしているのか、気にしている。

 この前もあの人が去様を心配して突然現れた時に、夕餉を食べ終わった後食堂で話しかけられたわね。

「母屋に何の用があったの?」

 と。

「別に。何か御用があったらいけないと思って、うかがっただけよ」

 本当は、あの人を一目見られたらと思って、母屋の方へ行ってみたのだった。

「そうなのね。確かに……去様に必要な薬をすぐにお届けしないといけないものね。もし、そのような状況になったら、私もお手伝いするわ。遠慮なく言ってね」

 と取り澄ました顔で言って来た。

 何もかも気にくわない。

 あの女も都から来る医師を気にしている。私と同じようにあの人を想っているのかもしれない。そうなら、蹴落とすだけよ。敵は少ないに限るもの。

 牧は川の淵から立ち上がって、去の館へと帰って行った。

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