第六章4

 その川幅いっぱいまでに満ちていた水はどこに行ったのか。川の中央にちょろちょろと水の筋があり、かろうじて水が流れている。魚たちはどこへ行ってしまったのだろうか、前まで見えていた魚の泳ぐ姿も今は見えない。

 去は病み上がりの体を押して、山の神、水の神に供物と祈りを捧げた。

 心配して、都から例の医師が一日泊りがけで来て、去に付き添ったと聞いた。

 去が祈りを捧げたと聞いて、見習いの女人達も、朝に夕にと館の奥の庭に作られた祭壇の前に座り、祈ったのだった。もちろん、蓮も祈った。

 その中に神妙な顔をして祈りを捧げる牧もいた。

 牧は相変わらず母屋の周りをウロウロしている。仕事をさぼって、同じ組の仲間が牧を見なかったかと聞いてまわると、母屋で目撃されているのだ。

 伊緒理が来たと聞いて、少しでも近づきたいと思っての行動だろう。

 間違っても牧が伊緒理に見初められるなんてことはないと思っているが、牧は貪欲な人だ。伊緒理の優しさにつけこむかもしれないと一抹の不安がよぎるのだった。

 去が風邪を引いた時、一度帰った都からすぐに様子を見にやって来た伊緒理。偶然、厩を訪れていた蓮たちと出会った。

 これまで去と並んで歩いている姿を何度か見ただけだったが、あの時は馬を操る姿や、丁寧に話す様子、そしてその横顔を近くで見ることができた。優しい顔はそのまま、荒波を超えて医術の勉強をして戻って来た経験が表れた精悍な顔に逞しい体。体の弱い、青白い顔をしていた若かりし頃の面影はない。

 もし、伊緒理と話すことができたら……何を言おう。

 久しぶりね!

 私も医術の勉強をしているの!

 都にいると聞いたけど、伊緒理は今、何をしているの?

 ……なんと白々しい言葉かしら……。

 伊緒理に再び会えて嬉しい!

 この言葉が素直な気持ちだ。

 伊緒理は私を見て、なんと返してくれるかしら。

 優しい言葉をかけてもらえたら……泣いてしまいそう。

 ……私ったら……節操がないわね。初恋の人を再び想うのは勝手だけど、私は一度は人の妻となった身だ。そして、別れたのは相手が悪いわけではない。いや、相手はひとつも悪くない。私が別れなくては気が済まなくて別れたのだから。なのに、再び初恋の人に思慕の気持ちを持って、乙女の頃のようにそわそわするなんて。

 でも……この気持ちを黙らせるなんてことはしない。鮎や井たち見習い仲間と勉学をに磋琢磨することや皆で助け合って去の手伝いをすることは楽しいことではあるが、朝早くからの作業の大変さ、集団生活の窮屈さ、恢復しない病人たちの看護のやるせなさなど、体も心も疲弊する方が多い。だから、自分の心が休められる場所として、伊緒理のことを想っていたい。

 去や見習い、束蕗原の住人達の祈りが通じたのか、去が祈りを捧げて始めてから七日目の午後、北の空に黒い雲が立ち込めて来た。

 蓮は食堂前の渡り廊下から空を見つめていた。

「これは雨が降るでしょうか?」

 隣で井も見上げて言った。

「そうね。降ればいいわね」

 そう言って食堂に入った。中では薬草の調合をするための準備が行われていて、蓮は自分の持ち場に入った。しばらくすると、いきなり頭上から大きな音がした。

 何事かと作業していた者はお互いの顔を見合わせた時、開けていた扉から人が飛び込んできた。

「ひどく濡れたわね」

「早く、こっちにいらっしゃい」

 次々と外にいた見習いの女人たちが食堂へと入って来た。

 皆、体が濡れている。

「雨です!」

 扉に前まで行った井が振り向いて言った。

 扉から熱気を含んだ風が入った後、冷たい空気に変わった。

「どしゃ降りよ」

 食堂に飛び込んできた女人の中に鮎がいて、蓮たちに言った。

「待ちに待った雨ね」

 蓮も扉に近づいて、外を見た。

 干からびて土煙が上がるほどの地面は瞬く間に濃い色に変わり、水が浮いて来た。

 皆が祈りは通じた、と言って喜んだ。

 男たちは水が貴重だからとここ数日は体を拭うこともできなかったので、打ちつける雨をもろともせず半裸になって庭へと飛び出して行った。

 しかし、大量の雨を受けるのは痛みがあるらしく、跳ねながらしばらく耐えて渡り廊下へ戻って来る。それでも何人かの男たちが続けて雨の中に飛び込んでいく。

 女たちはそんな姿が面白くて、微笑みながら、恵みの雨を喜んだ。

 雨は夜通し降ったが、明け方には止んだ。

 恵みの雨を受け取るべく邸にある盥や桶は全部外に出して雨を受けるのに使われた。

「川の水は濁っていて水浴びできる状態ではないそうです」

 昼間に食堂で会った井が残念そうに言った。

 干からびて、そこに水がいっぱいにあったことなど想像させなかった川に水が満ちていると聞いたが、濁っていて入れるものではないという。

「残念ね。でも体を拭く水はあると聞いたわ。夜になったら交代で体を拭けるでしょう」

 暑くて汗が止まらず一日の終わりに水浴びがしたいが、こうも雨が降らないと水を自由に使うことはできない。白布を一度だけ盥に浸けて、体を拭くしかなかったが、少しは水が自由に使えそうだと聞いて、皆安心した。

 恵みの雨が降った三日後、蓮は厩に薬草園で刈った草を運ぶ仕事をしていた。

 数人で水不足で干からびてしまった草木を抜いて集め、厩に持って行く。

 雲はあるが、雨は降らない。

 厩の隅に抱えていた草を置いて、額の汗を胸に忍ばせていた白布で拭った。

 あの一晩の雨だけでは水は足りない。

 夕立が来ればいいのに、と思っているが、そんな兆候も見られない。

 厩にいる馬たちも暑さに参っているように見える。人間と同じで瑞々しい食物にはありつけない。水だって邸の坂を下りて、蓮たちが水浴びしている川まで連れて行っても飲む水はない。甕に貯めた三日前の雨を少しずつ舐めている。

 これじゃあ、人も馬もだめになってしまうわね。

 蓮は、片目をつむって憎き相手を睨むように空を見上げた。痛いほどの強い日差しが照りつけている。

 今夜にも去様はまた、雨を乞う祈りを捧げると聞いた。

私も祈りを捧げよう。

 一緒に草を運んできた者たちはさっさと帰って行ったが、蓮は厩に留まり、馬の顔を見つめた。ここには、都から連れて来た馬がそのまま都に帰らず留まっている。父実言が何かあった時に都に馬を走らせるために残して行ったのだ。

 蓮も何度か乗ったことのある馬なので、厩に来た時にはそっと体を撫でたりしている。

 たまに都が懐かしくなる。自分一人の部屋で、好きな写本を思う存分やる。持っている着物を並べて、どんな柄、色の組み合わせがいいかと母や妹たち、侍女の曜と話し合う。今はそんな自由はない。

 蓮はそんな気持ちを振り払って、食堂に戻ることにした。次は、薬草の仕分けがある。

 そこへ背後から馬の足音が近づいて来た。

 誰かが館の外に馬を走らせて、また戻って来たのかと思った。

 振り返ると馬から下りた男が手綱を引いてこちらに歩いて来る。

 お帰りなさい、と言って迎えようと思ったが、その男は邸の従者ではないと分かった。

 ……い……

「……門には誰もいなくてね。今回は事前に訪れることをお知らせしていたのだが」

 弁解めいたことを呟くように言ってこちらに近づいて来る伊緒理がいた。

 伊緒理は蓮の前まで来ると、目尻を下げてじっとこちら見て、口を開いた。

「……やあ」

 出会い頭の単なる挨拶のようにも思えたが、懐かしい人と会った気安さの出た声音のようにも思えた。

 私だとわかってくれている?

「……い……」

 その人の名を呼ぼうとした時。

「椎葉さま!」

 厩の中から男が飛び出してきた。

「こちらまで馬を引いていただいたのですね。申し訳ありません」

 館の従者は訪問があると知りながら、誰も迎えることなくここまで伊緒理が馬を連れて来たことに恐縮した。

「忙しいのだろう。邸のことはよく知っているから、困ることはないよ」

「こう毎日暑くては、水がなくなりました。皆、水を求めて奔走しているのです。都はいかがですか?」

「都も水不足になりそうだ。臣下が集まり、話し合いが行われているようだ。また、大王が神殿にはいられていると聞いたので、雨を乞う祈りを行っておられるのだと思う」

「そうですか」

「水のない時に訪れて申し訳ない。去様の様子を見たらすぐに帰るから」

 そう言って、伊緒理は馬を預けて、母屋へと向かった。

 蓮はその姿を目で追い、母屋に向かう背中を見送った。

 伊緒理が進む先に道を開けて立っている女が見えた。女は平伏していて、伊緒理が通り過ぎるのを待ってから頭を上げた。その顔を見て蓮は驚いた。

 牧だった。

 牧は蓮を振り向いて、ぎっと睨んできた。

 さっき、伊緒理の名を呼ぼうとしていた様子を見ていたのかしら。

 そうなら呼ばなくてよかった。

 私たちの仲は絶対に知られてはいけないものだから。

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