第二章10

 景之亮は使いをお願いして夜通し準備があるから今夜は帰らないという伝言を届けた。

 これから景之亮が尾張の地に行って、不在でも邸には真澄と丸がいて、守ってくれる。そこに、蓮と蓮の実家が加わったのだから、心配はない。

 景之亮は安心して任務に集中できるが……。

 蓮と一緒に暮らして、三月が経った。だいぶこの生活にも慣れたという時に、このような任務がまわって来てしまった。

 大王には、三月もあれば平定できると奏上された。宮廷の上層部ではそう見立てているのだ。

 もっと早く反乱を治めて都に戻りたい。きっと蓮は、一人になることを寂しく思うだろうから、自分が帰ってくるまで蓮を実言様に預かってもらおうか。いやしかし、この邸に来てからたった三月で五条に戻ってしまったら、事情を知らない者たちから、何やらよからぬ噂を立てられたら困るな。でも、こんな寂しい邸に一人でいることはないだろう。

 陽も高く上がった頃、景之亮は自邸に帰って来た。夜通し準備を指揮していたため、いささか疲れてしまった。

 景之亮が門をくぐって玄関へと着くと、すぐに蓮が現れた。

「お帰りなさいませ、景之亮様」

 蓮を見ると、景之亮は疲れた、という顔を隠して笑い顔を作った。

「お食事はお済になったの?」

「いや、宮廷では食べ損なってね」

「そう。丸に言ってご馳走を用意していたのよ。よかった」

 蓮は笑顔で景之亮の隣に立ち、連れ立って自分達の部屋へと向かう。

 間もなく丸が粥や焼き魚、青菜、汁などを載せた膳を持って現れた。

「たくさん召し上がって」

 蓮は隣に座って、景之亮の食事を手伝った。

 景之亮は少しばかりの酒を嗜み、うまい料理をほおばった。

 蓮は正直に、昨日実家に行って、父に景之亮の任務について訊ねたことを言った。

「実言様は何かおっしゃっていたかい?」

「争いを治めるには三月ほどかかるのではないかと、それを短くするのは景之亮様の手腕にかかっていると」

「そうかい……実言様がそんなことをおっしゃるとは」

 実言の期待の現れなのか揶揄なのか景之亮の手腕という言葉に景之亮は困り顔になった。

「お父さまは景之亮様ならすぐに戦いを治めて帰って来てくださると期待されているのよ。わたしもそうだわ。景之亮様はそうそうに戦いを治めて帰ってくると」

 景之亮は蓮の言葉に笑顔を返した。

 食事を終えると蓮は景之亮と着替えなどの身の回りのものの準備をした。上着、袴、肌着、帯など。

 蓮は臙脂色の帯を取った。

「景之亮様。この帯はいつも私が使っているものよ。これを私の分身と思って持って行ってくださいな。あなたのお傍にいたいと言っています」

そう言って小さなつづら籠の中に入れようとする。

 景之亮もその帯はよくわかっている。寝所で我が手が蓮の腹に手をやって解いているものだから。

 景之亮は蓮の手を掴んだ。

 自分が使っている物が一緒にいたいと言っていると言って持たせるのは、蓮が傍にいたいという比喩である。

 景之亮は蓮の気持ちが切なくて、帯を握る手を取ったのだった。

「蓮。あなたは、五条のお邸で待っていてくれないか」

 蓮は驚いて顔を上げた。

「どうして?」

「私の頼みであなたをこの邸に迎えたというのに、すぐに長く邸を空けてしまうことになった。こんな寂しい邸に三月もあなたを置いておくのは忍びないよ。実言様にお願いするから、私が帰ってくるまでは五条のお邸にいた方がいい」

「嫌よ。嫌です」

「しかし、何の面白みもない邸だ。数日ごとに五条の邸に通うなら、いっそ五条の邸にいた方がいいだろう」

「確かに、五条には通うでしょうけど、だからと言ってこの邸を空けるなんて嫌よ。もう、ここが私のいるところですもの。真澄や丸と一緒にこの邸を守って景之亮様の帰りを待っています。それではいけない?」

「……いけないことはない。……そんなことを言ってくれて嬉しいよ」

 蓮は景之亮に掴まれたまま手をつづら籠の中に入れて、持っていた帯を放す。

 榧が言ったように、景之亮に自分の何か持ち物を持って行ってもらうのはいい案だと思った。昨日、鷹取の邸に帰って来てから何がいいかとあれこれ考えて帯に決めたのだった。

「皆、景之亮様が帰ってくるのを待っているわ。私も真澄や丸たちと一緒に待っていますから。……景之亮様のご手腕で三月掛かるものを二月に縮めていただきたいわ。一日でも早く帰って来てくださいな」

 蓮は笑顔で言う。その笑みにつられて、景之亮の表情も和んだ。

 すでに外は暗くなり、曜が部屋の中の灯台に火を入れてまわった。

 身の回りの準備が済むと、景之亮は蓮を横抱きに抱き上げて、奥の寝所へと入って行った。

「あなたの顔を毎日見たくて、この邸に迎えた。明日からは当分見られないのは寂しいことだよ」

 灯台の明かりの元、褥の上に二人で横になって、景之亮は蓮の右頬に手を添えて、見つめて言った。添えた手は、愛しみの気持ちが溢れ出て、何度もその頬を撫でている。蓮も景之亮を見つめ返して言う。

「……私も、私も寂しい……お父さまも昔、戦に行ったのだと、お母さまが話してくれたわ。とても寂しかった……と。でも……寂しいことは仕方のないことだから、景之亮様が無事に早く帰って来てくださることを祈るように言われたわ。だから、私は、ここで景之亮様が無事にお帰りになることを祈って待っています」

 景之亮は何度も頷いて、囁いた。

「あなたがいてくれることが、なんと心強いことか。あなたを妻にする前と今とでは私の心の中は全く違う。こんなに安らかな気持ちはないよ。無事に、早くあなたの元に帰って来るからね」

 蓮は頷いた。

 景之亮の顔が近づいて来て、蓮は目を閉じた。そっと、額に温かいものが触れた。景之亮の唇は額から蓮の唇へと移った。

 景之亮の唇が離れると、蓮は両手を景之亮の頬に当てた。

「景之亮様の顔が当分見られないなんて……本当に寂しい……」

髭の伸びた頬を何度も撫でて、蓮はしみじみと言った。

「私のこの顔にも慣れたところだったかな」

「そうね、このお鬚の肌さわりがとっても好きなのに、明日からは当分味わうこともできないのね」

 蓮は両手を下ろすと、体を起こして帯を解いた。いつも使っている帯は景之亮に持たせるために籠の中に入れたから、新しい帯である。景之亮に手伝われて、着けていた肌着を脱ぎ去る。そして、景之亮も同じように脱いで裸になったところで蓮はその胸に飛び込んだ。力いっぱいに景之亮の体を抱き締める。景之亮は背中に流れる髪を何度も撫でる。気がついたら、蓮は涙を流していた。

 ゆっくりと、もう一度褥の上に寝かされた蓮は、景之亮に涙を見られまいと景之亮の首に腕を回して、肩に顔を寄せたが、景之亮にはわかっていた。

「蓮、泣かないで……しばらく会えなくなるだけだ」

 景之亮は簡単なことのように言う。蓮もそう思おうとした。三月会えないだけ。景之亮の命が脅かされることは低いのだ。

 翌日、蓮は、朝日に輝く道を宮廷に向かって歩く景之亮を真澄と丸と一緒に見送った。

 景之亮は何度も振り返って、手を上げる。

 蓮は門の前から道の真ん中に出て、大きく手を振った。最後に、景之亮も半身を蓮に向けて、手を振り返した。

 こんなに離れることが寂しいことだとは思わなかった。

 蓮は込み上げてくるものをぐっと押さえて、門の中へと入った。

「さっ!次は蓮様ですね」

 後ろをついて歩いていた丸が言った。

「何が?」

 蓮が訊ねた。

「蓮様は五条のお邸に戻られるのでしょう?旦那様が帰ってくるまでは」

「誰がそんなことを言ったの?景之亮様?」

「いいえ、しかし……」

「丸は私を追い出したいの?」

「そんなことはありません!蓮様にいていただきたいです。旦那様が留守の間を心細く思っていましたから。でも、ここでは」

「景之亮様にも五条に帰れと言われたけど、私はここにいたいの。たったの三月ですもの」

「私、嬉しいです」

 丸は破顔して言った。

「景之亮様がお戻りになるのを一緒に待ちましょう」

 そして、景之亮が旅立ってからもうすぐ二月が経とうとした時、実家の五条から使いが来て、景之亮の帰都が決まり、都に向かって発ったと知らせた。

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