第一章6
朝に宮廷に出仕して、それが終わると舞の練習をする。
それがここ最近の実津瀬の日常であった。
実津瀬が夏の宴に舞うことは恒例になった。
実津瀬が完成させた舞は五曲ある。相棒と呼ぶべき、宮廷の楽団に所属する楽人の淡路と音楽を奏でる楽団とでこの夏の宴ではどの舞を舞うかを考えているところで、少しばかり忙しい日々を送っていた。
実津瀬と芹の出会いは、踏集いの場所の近くにある池のほとりで、一人踊っていた芹を実津瀬が見かけたことが始まりだった。
実津瀬が語るには、その時、舞を舞う気がなくなっていたのだが、池のほとりで心の赴くままに踊っている芹を見て再び舞を舞う気になったというのだ。芹は音楽に合わせて手を上げて、体をくるくるとまわしているのが好きではあるが、実津瀬の舞とは比べものにならない。しかし、実津瀬は再び自分に舞を舞わせてくれたのは芹だ、と言って女神と崇めてくれるのだ。
邸の庭や庇の間で芹と息子のために実津瀬は何度も舞いを舞っていたが、大舞台での実津瀬の舞を芹が観るのは三年ぶりで、実津瀬はいつになく張り切っている。
月の宴を二日後に控えて、実津瀬は最終的な舞の確認をするために稽古場へ行った。帰って来るのも遅いはずだ。
芹は朝は義母の礼たちと一緒に薬草作りを手伝い、朝餉を食べ終えると離れの部屋で淳奈と一緒に過ごしていた。
活発な淳奈は部屋の中ではなく外に行きたいと示すように、階の一番上に腰を落とし、庇の間に座っている芹を振り向き、階を下りるぞっと訴えるように見つめる。芹は初めはじっと、淳奈を見つめ返して、それ以上階を下りることを制していたが、淳奈は心を決めたようで、母に背を向け、前を向くと階段を下りようとゆっくりと動き出した。
「淳奈!」
芹は鋭い声を出して、立ち上がった。
淳奈は怒られた、とわかったからその場に留まったが、悲しくなって泣き声を出した。
「淳奈、そんなに外に行きたいの?」
芹は淳奈の隣に座って、静かに涙で頬を濡らす息子に話し掛けた。
「そと、そと、行く。お水……」
暑い日々に、淳奈は水遊びがしたいと言っているのだ。
昨日は我慢させたのだが、今日は昨日よりも暑い。
一緒に池のほとりでも散策して、手を水に浸して遊ばせるのもいいかもしれない。
芹は右手で息子の肩を抱き、左手の指があった場所で淳奈の頬の涙を拭った。
「ちょっとだけよ。少しだけ遊んだらお昼寝しましょうね」
芹は淳奈の左手と手を繋ぎ、一段一段階を下りて行った。
沓を履き終わると、芹は広い庭の中の池のほとりまで淳奈の歩みに合わせてゆっくりと歩いて行った。
岩城実言邸の庭は広大だ。周りの土地を買い足しており、将来はもっと広くなる予定だ。
庭の入れに水を引き入れている小川は浅いので、芹は淳奈と一緒にしゃがんで水の中に手を入れて涼んだり、拾った小石を流れの中に投げ入れて堰き止めたりとやりたいように遊びに付き合った。
淳奈は小さな体のどこにそんな元気が詰まっているのかと思うくらい駆け回っている。小さな手に掴める大きさの石を見つけては、持って来て小川の中に投げて、水しぶきが上がるのを見て喜んだ。
「かあしゃま」
自分を見ているかと、石を投げた後には必ず芹の方を見る。芹がにっこりと笑いかけると、それ以上の笑顔を向ける淳奈が愛おしくてたまらない。
淳奈は石を探して、遠くへ遠くへ行こうとする。
「淳奈、いらっしゃい。こちらへ」
淳奈は素直に冒険心に従って、芹の目の届く範囲から外れては、しばらくして戻って来るを繰り返していたのだが、いつの間にか行ったきりになってしまった。
芹は慌てて淳奈の姿を探した。
庭は広く、草木で姿がすぐに見えなくなってしまう。
「淳奈!淳奈!」
芹は塀に沿って歩きながら呼びかけると遠くで幼い声が聞こえた。
その声は塀の外側から聞こえる気がする。
庭の池の水は、塀の一部を切り取って外から小川を引いて取り入れている。塀の小さく開けられた場所から小さな淳奈は塀の外へと出て行ったのかもしれない。ちょうど水量も少なく、水遊びがしたくて水の中に入るのも平気なのだから。
芹はその小川を通すための入り口をくぐるには大きい。急いで塀を伝い、出入り口の戸を押して、外へと出た。
「淳奈!」
「かあしゃま!」
後ろで声がして、芹は振り向いた。
自分の冒険心のまま行きたい方へ行ってみたものの、帰り方がわからなくなり、困っていたのだ。芹の顔を見て、安心の笑顔を見せた。
「一人で遠くに行ってはだめじゃないの」
芹は言って、淳奈に向かって一歩踏み出した。
芹が実言邸に来て、三年が経とうとしていたが、未だに広大な邸と庭の全てを把握することはできない。淳奈が歩くようになり、活発に動き回るので、庭の奥まで入るようになったが、そうでなければ、実津瀬に誘われない限り塀の際まで来ることもない。
今、塀の外に出て目の前には池が見えた。庭の池に引いている水は、塀を隔てた外にある池から引いていたのだ。
実言邸は敷地の外にも池を持ち、近所の者たちの利用を許している。実言邸の道を隔てた向かいには妻の礼が運営する病気や怪我の者を治療する診療所を建てていて、都の住人達を助けている。何かと助けてくれる実言邸を住人達はありがたがり、支持していた。
芹は淳奈の手を取ろうと一歩一歩近づいていると、後ろから影が芹を追い越して行き、淳奈に近づいて行った。
芹は自分達の姿が見えないので邸の者が探しに来てくれて、芹と同じように塀の途中の戸を開けて出てきてくれたのかと思った。
芹を追い越したのは男だ。従者の服装をしたその男は、迷うことなく淳奈に向かって走って行き、淳奈の手前で止まると思いきや、淳奈の体を脇に抱えると、そのまま走り去っていこうとする。
芹はその行動に驚いて、思わず声が出た。
「待って、どこに行くの!」
塀伝いに淳奈を抱えて逃げていく男の後ろを追った。
「そっちは違うわ!」
何も話さない男に、悪い予感がして芹は走る男の袖を右手で掴んだ。
「放して!淳奈を放して!」
芹は大きな声を出して、足を止めない男に引きずられながら一緒に走った。
握った袖を離したら、淳奈はこの男に連れ去られて二度と我が手には戻って来ない。直感でそうわかった芹は、何が何でもこの右手を離すことはしないと心に決めて、必死に声を出した。
芹を振り払おうと蛇行して走る男に、芹は自分でも驚くほど粘ってついて行く。
どうにかして淳奈から手を離させないと。
芹は力いっぱい叫び声を上げた。
この声が邸の中の者たちや近所の住人に聞こえて、誰が助けに来てくれないだろうか。
「放して!放せー!はーなーせー!」
自分の中からこんな大きな音を出せるのか。
芹は後から振り返って思ったが、その時は必死だ。見知らぬ男が息子をさらおうとしている。
芹は足が進まなくなって、でも右手だけは離さず、男から淳奈を取り返そうと体を半ば引きずられながらついて行った。
さらわれそうになっている淳奈も、最初は抱き上げられた驚きできょとんとしていたが、母の悲鳴で怖くなって大きな泣き声を上げた。
男は、幸運にも邸の外で一人になった岩城家の嫡男を連れ去ろうとしたが、女人の抵抗で諦めようかと考えた。女と子供が大きな声で泣き叫んでいるのを聞きつけて人が集まって来るかもしれない。大勢の人が集まり、自分が捕まってしまっては元も子もない。
男は片手で抱きかかえていた淳奈を両手で抱き上げると、ためらうことなく右手側にある池へと放り投げた。
芹は息子の体が、男の左手から胸へと移動するのを目で追っていた。淳奈の体から男の手が離れて、淳奈が宙を舞って、池の水面に落ちて行く姿がゆっくりと見えた。
淳奈の体が水の中に入ると、水面は割れて大きな水しぶきが上がった。その時に芹は絶対に離すまいと思っていた袖を掴んだ右手を離した。
躊躇することなく芹は池の中に歩み入り、手足をバタバタさせて浮き沈みする淳奈の体に近づいた。着ているものが芹の体の自由を奪い、やっと淳奈の体のところに辿り着いた。淳奈は突然に水の中に放り込まれ、驚きと恐怖から逃げるように手足をバタバタと動かし続ける。淳奈の腕を掴み、体を水面からできるだけ出そうと持ち上げようとするが、淳奈が恐怖で手を動かすので、うまくいかない。芹も淳奈も水を飲み、着ている衣服はぐっしょりと水を含み、体が重い。
このまま私たちは溺れてしまうのだろうか。
芹はどうにか淳奈だけ。淳奈だけは池のほとりに上げて、助けなければと思って、水と格闘した。
その頃邸の中では、芹と淳奈の姿見えないと、侍女や従者の間で騒ぎになっていた。
部屋にいないので庭に出たのだろうと、皆が庭に下りて探した。こういう場合、広い庭は探索が進まない。そんな時に、塀の外から女人の叫び声を聞いた従者の一人が急いで近くの出入口の戸を押して、外へと出ると、目の前に広がる池の中で、芹と淳奈が溺れかけている光景が飛び込んできた。
「淳奈様!芹様!」
従者は叫んで、池の中に飛び込んだ。
池の淵は浅いが中に進むにつれて段々と深くなり、また底に堆積した泥に足を取られて、泳いで近づいた。淳奈が顔を水面から上に出そうとすると芹が沈み、芹が顔を出そうとすると淳奈が沈んだ。
従者は淳奈の体をすくい上げて右肩に担ぎ、芹の右手首を握って自分の左肩を掴ませて、淵へと向かった。
「天彦……」
芹は従者の名を呼んだ。
ぐったりしている淳奈を淵の上に上げると、芹の左手を淵の上に置き、次に右手を掴んで縁に生えている草を掴ませた。
従者は素早く池から上がると、淳奈の右足首を掴み、持ち上げた。逆さになった淳奈は驚いて、飲んだ水を吐き出して泣き声を上げた。天彦と呼ばれた従者は淳奈をすぐに胸に抱きかかえて、まだ池の中にいる芹に近づいた。淳奈の体を置くと、芹の右手を掴んで、池の中から上がるのを手伝った。
「芹様、大丈夫ですか?」
芹には天彦の声は聞こえない。
「淳奈!淳奈!」
天彦の後ろに横たわる淳奈に膝で歩いて近寄り、首の下に手を入れて膝の上に抱き上げた。
「淳奈…」
母の涙声に応えるように、淳奈は睫毛をゆっくり上下させた。
「芹様、邸の中に戻りましょう」
天彦は芹の膝の上の淳奈を抱き上げた。
芹は天彦の腕に右手を置いて、ゆっくりと立ち上がった。水に浸かった衣服は重く、体がふらついた。
天彦は大きな男で、右手で淳奈を抱きかかえ、左手で芹の背中を支えて塀の中へと戻る戸の前まで歩いた。
庭の違う方面を探していた侍女の編が戸口までたどり着いたところだった。
「芹様!そのお姿は?」
頭から水を滴らせて真っ白い顔をしている主人を見、次に天彦を見て、その右手に抱かれた淳奈を見た。
「淳奈様!」
「邸に戻って、知らせてください。淳奈様を寝かせる準備をしないと」
編を頷いて、踵を返した。
それから、邸から人が来て芹を支えた。天彦は淳奈を抱きかかえて離れに走って戻ると、女主人の礼が階の上で待っていた。
「早く。こっちよ」
礼は言って、部屋の奥を指した。手前で淳奈の濡れた衣服を脱がせて、褥の上に寝かせた。
編に支えられて階を上がった芹に礼が寄り添った。
「お母さま……」
芹が何かを言おうとするが、すぐには言葉が出てこない。礼も今何かを聞く気はなく。
「こっちよ。濡れたものを脱がなくては」
芹は手を引かれて、淳奈とは別の部屋に連れていかれた。
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