第一章5
夜が更けると寒さが一段と強まった気がする。芹は自分たちの寝支度にとりかかり、編に温石を用意するように言いつけた。
遅くなるが必ず帰ると言った実津瀬は、この冷えた夜の中を帰って来るのだがその体も冷え切っているだろう。
部屋を暖め、着替えを用意し、火鉢の前で暖を取りながら編と一緒に実津瀬の帰りを待った。
一緒に行けなかった編は今日の実津瀬の舞のことを聞きたがった。芹の父親の階位は低く、今日のような行事に参加しているが、邸の女たちには縁のないことだった。それが、岩城家では妻たちは宴に参加し、侍女も手伝いで宮殿に行き舞が見られるのだ。須原の邸では考えられないことである。
編は大王のために舞う舞はどのようなものか、興味津々である。
芹は夫の舞がどれほど美しくて感動したかをとつとつと話した。編の質問に、芹は観たことを頭の中に思い起こしてできるだけ詳細に話して聞かせる。
まあ!それはそれは!と一つ一つのことに感嘆の言葉を発し、編は驚く。
芹はもう一度実津瀬の舞を思い出していたら、あの時の感動が蘇って来て、早く実津瀬に会いたくなった。
とんとん、と簀子縁をこちらに向かって歩く音が聞こえて、二人は顔を上げた。実津瀬の戻りがすぐにわかるように一か所だけ蔀を上げていた。下ろしている御簾に影が映る。一緒に帰って来た従者の綾目が前を歩いている。途中まで巻き上げていた正面の御簾を綾目が持ち上げて、体を後ろに引くと、実津瀬はその脇を通って庇の間に入って来た。ちょうど芹が火鉢の前から立ち上がって、庇の間に出てきたところだった。
「芹」
芹はすぐに実津瀬の傍に来て、袖を掴んだ。
実津瀬は芹の体を受け止めて、抱き寄せると訊ねた。
「どうだった?私の舞は?」
実津瀬の胸に臥せていた顔を上げた芹は、すぐには言葉を発しない。じっと見つめていると怒っているかのような険しい顔をしている。
実津瀬は何か気に入らないことでもあったのだろうか、と心配になった。
やっと言葉を発した芹は。
「素晴らしい舞だったわ……」
そう言って、芹は実津瀬から体を起こし、正面に立った。
「あの場所で、あなたの舞を見ていた私の心は踊り出しそうだった。舞が終わると歓声を上げてしまいそうだった。もう心を揺さぶられたのよ。皆はあなたの舞を何度も見ているから、慣れていらっしゃるのでしょうけど、私は初めてだから、この感激をどうしたらいいのかわからなくて」
芹は実津瀬に迫るように顔を近づけて言う。
真剣な表情が、芹の言葉が心からのものであると教えてくれた。
「あなたの舞が見られてほんとに嬉しい!」
芹は言ってにっこりと笑った。嬉しさが滲み出ている優しい表情だった。
芹は自分が幸せになることを罪のように感じていて笑うことさえ禁じているようなところがった。しかし、実津瀬と暮らし始めて、ゆっくりだが前より自分の気持ちを出せるようになった。乏しい表情の中に、時折目尻を下げて柔らかい表情になり、小さな声だが声を上げて笑うこともあった。
今はそれらの表情の中で抜きん出た抜群の笑顔である。
「そうか。あなたの今の顔を見たら、どれだけ私の舞を気に入ってくれたのかわかったよ。嬉しいなぁ」
実津瀬と芹が向かい合って話している間に、綾目たちが蔀を全部閉じた。台所に向かった編は、もう一人侍女を連れて戻って来た。手には湯を入れた桶を持っている。
妻戸から入って来た二人に気づいて、芹は部屋の隅に準備しておいた盥を押し出した。桶から二つの盥にお湯が入れられた。編が白布を盥の中のお湯に潜らせて、湯から上げて絞る。湯気の立つ布を広げて芹に渡した。
芹と侍女たちが準備をしている間に実津瀬は上着を脱いだ。
台所から一緒に来た侍女は桶を持ち、編は実津瀬から上着を受け取って部屋から出て行った。
実津瀬は一枚一枚脱いで、肌着になった。舞を舞った時のままの肌着で、汗で湿って肌に張りついている。実津瀬が肌着を脱いで裸になると、芹が温かくした布を背中に置いて、拭いた。
実津瀬はもう一つある盥の前に跪いて、手を入れた。入れた手で湯を持ち上げて腕にかけて、汗を流す。
芹は冷たくなった布を再び盥に入れて、お湯で温めた。左手の指がないために、片手でどうやって布を絞ろうかと考える前に、実津瀬が横から手を伸ばして、芹の手から布を取ると、ぎゅっと絞って再び芹に渡した。芹は左親指で布の端を持ち、右手の平でうまく布を広げて、実津瀬の左胸に当てて、体の前側の汗も拭いた。
実津瀬は芹から布を受け取ると、自分で盥に布を浸し絞って、首筋を拭った。
実津瀬が自分で体を拭いている間に芹は箱の中に用意していた下着を取り出して広げた。実津瀬の背中に回って、袖に腕を通させ、背中に着せかけた。
実津瀬は受け取った帯を腰に回しながら奥の部屋の几帳の向こうに準備した寝所に向かった。芹は盥や箱を部屋の隅に寄せて、実津瀬が脱いだ衣服を箱の中に片付けた。
「芹、何をしているの。早くこっちにおいで」
実津瀬に呼ばれて芹は寝所に入って褥の上に寝転がっている実津瀬の隣に座った。
「あなたは疲れているでしょう。早くお休みになって」
「疲れなんて……帰って来た時の芹の顔を見たら吹き飛んだ。あなたが喜んでくれて嬉しい。あなたに見てもらいたかったんだ。私の舞を」
実津瀬は膝の上の芹の右手を取って握った。
「本当に素晴らしい舞だったわ」
実津瀬は満足そうに頷いた。
「隣においで」
実津瀬に手を引かれて、芹は上着を脱いで肌着の体を実津瀬の体に沿うように滑り込ませた。
「よそ行きに化粧したあなたも美しかった。あなたの違った一面だ」
実津瀬は芹の体を抱き寄せた。
芹もまた実津瀬の腕下から背中に腕を回して抱きついた。みずらに結っていた髪が解けて、背中に流れているのを触るととても冷たかった。
だから温石を用意して寝床を温めていたが、実津瀬の体は、舞を舞った後の余韻がまだ体の中に残っているのか、そんなことは余計だったと思わせるほど熱かった。
上着を脱いで急な冷気に触れて粟立った芹の胸の肌に実津瀬は頬を寄せた。実津瀬の頬は冷たかったが、しばらくするとお互いの体温を与えあってじんわりと温もりが広がった。
顔を上げた実津瀬は芹に顔を寄せて、唇を重ねた。
実津瀬の唇から酒の匂いがした。
舞の後、宴の席でお酒を飲んだのかしら。
そんなことが芹の頭をよぎったが、すぐにそんな考えは消えて行った。
それは実津瀬が一段と強く唇を吸い、愛の行為に進んでいったからだった。
それから、春から夏へと季節が変わる頃、体調がすぐれないという芹に、実津瀬は毎日暑いものね、と話をしていたが、義母の礼は敏感に気付いた。
芹は懐妊したのだった。こんなに早く身籠るとは思っていなかったが、皆が喜んでくれたし、何より実津瀬が今まで以上に芹を大事にしてくれて、嬉しかった。一年前の自分が、一年後にこんな幸せに浸っているなんて想像もできなかった。
そして、このまま新年を迎えるだろうかと話していたら、待たずに雪降る夜に芹は元気な男子を産んだのだった。それが淳奈である。
あの初めて実津瀬の舞を観た時の感動は忘れられない。
芹はたびたび実津瀬の舞を観た時の心の震えようを噛みしめるように思い出す。
淳奈を身籠ったことが分かったから、直後の月の宴での実津瀬の舞は観ることができなかった。その後も実津瀬の舞はいたるところで所望されて、大王の前、王族の前、宮廷の宴で舞ってきたが、芹は出産と子育てで二度目を見ることはできていなかった。
今年の月の宴は翔丘殿で実津瀬が舞うことが決まって、芹も観に行くことになっている。
芹の膝枕で眠っていた実津瀬が目を開けた。
芹は気づいて、実津瀬の顔を覗き込んだ。
「気持ちいいから深く眠ってしまいそうだった。部屋の中で休もうか。淳奈は苗(なえ)に任せて」
苗とは淳奈の乳母である。
実津瀬は上体を起こした。実津瀬の腹を枕に眠っていた淳奈を抱き上げると、淳奈は少し体をすぼめる動きをしたが、起きる気配はなかった。
「よく眠っているわ」
芹は夫の腕の中で気持ちよく眠っている息子の寝顔を見つめた。
「よかった。起こしてはだめだ」
二人は立ち上がり、庭を抜けて自分達の部屋へと戻って行った。
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