第二章15

 翌日、景之亮が五条の邸に来る前に、丸が岩城家から蓮と一緒に鷹取邸に行った鋳流巳に付き添われてやって来た。

 昨日、景之亮が帰った後に、母の礼が部屋に入り蓮の傍に座った。榧も突如姉と景之亮の激しいやり取りが始まってどこかに行く間もなく、そのまま部屋に留まっていた。景之亮が帰った後も母の後ろについて姉の姿を見守っていた。礼は蓮の小刀を持った手を握って、指一本一本を柄から引き離した。反対の腕を見ると、勢い余って小刀の刃が当たったようで切り傷ができて、赤い筋が見えた。大きな出血ではないのが幸いだ。榧が水の入った盥や白布を取りに行った。手当をする時も、蓮は俯いて黙っている。水で傷を洗った時に沁みたのか、顔を歪めた。それが引き金になったのか、蓮は崩れ落ちるように前屈みになって嗚咽を漏らした。後ろにいた榧が姉の背中をさすった。何も聞けない状態になって、設えた褥に蓮を横にして眠らせた。

 だから、礼は蓮と景之亮の間に何があったのか、蓮の口から聞くことはできなかった。それを説明したいと、鷹取家から丸がやって来たのだった。

 大きな邸……

 丸は庭の前で目の前の建物を見上げた。

 こんなお邸を見ていた景之亮は、修繕前の鷹取の邸に蓮を迎えるのに勇気と覚悟がいったことだろうと改めて思った。

 なんと裕福な邸だろうか。

 丸の前に現れたのは、左目を眼帯で覆った深い緑の上着に、明るいに青の裳をつけた女人だ。階の下まで降りて来た。

「私は蓮の母の礼です。よく来てくれましたね」

 蓮の母だと名乗って、丸は一段と頭を低くした。

 この小柄な人が蓮様の……目元は似ているかしら、と丸は考えた。

「どうぞ、上がって」

 丸は庇の間に上がって、きょろきょろと見回した。簀子縁と庇の間に降りている御簾は鮮やかで模様も美しく、一部巻き上がった先に見える庭は美しい花が咲き誇っていて、森かと思うほど深く奥まで木々が生い茂っているのが見えた。

 几帳の奥へと引き入れられて、また驚いた。美しい調度がいくつも置いてある。棚、箱、台とどれも細工が細かくて、美しい。

 机の上にはたくさんの紙の束が置いてあり、それは鷹取の蓮の机の上と同じだと思った。

「いつも蓮を助けてくれて、有り難く思っています。あの子も、とても頼りにしていて、あなたのことはよく話しに出てきますよ」

 礼の言葉に恐縮した丸は、蓮に大変申し訳ないことをした、と声を詰まらせて言った。そして、自分の懺悔の気持ちを話し始めた。


 景之亮が宿直に行った後、蓮は丸に今日は五条に泊まると言った。

 これが珍しいことではないから、丸は何とも思わなかった。

「そうですか……。お帰りは、明日、旦那様とご一緒ですか?」

 景之亮が五条の邸に寄って、蓮を伴って帰ってくることが通常であるから、それを念のため確認したのだった。

「……うん……そうなるわ」

 蓮が言った。

「お気をつけて」

 丸の言葉に見送られ、蓮は曜と一緒に五条の邸に向かった。

 しかし、翌日、景之亮一人が帰って来て、逆に丸に訊ねた。

「蓮はどうした?五条に行ってるの?」

 丸は驚いて声を上げた。

「えっ!旦那様が五条にお迎えに行かれたのではないのですか?昨夜、蓮様は五条のお邸に泊まって、旦那様が迎えに来るとおっしゃっていらしたのですが……」

「……そんな話になっていたかな……」

 景之亮は呟いて、一旦入った部屋から庇の間に移った時、蓮が使っている机の上に、見たことのない箱が見えた。

 いつもは、写すための本と紙が山になっているのに、その日の机上は整えられていて、螺鈿の細工のされた美しい箱が置いてあった。

 何だろう……

 景之亮は蓮の物を勝手に見たり触ったりはしないが、その時は、何か予感のようなものに引き寄せられた。

 机の前に座って箱を開けると、中には折りたたんだ紙が入っている。

 景之亮様

 という文字が見えて、自分宛の手紙だと直感し、すぐに手に取って開き読んだ。

「……蓮……」

 読み終わると、景之亮はよろよろと立ち上がる。 

「五条に行かないと……」

「旦那様……どうされたのですか」

「これを……蓮を……迎えに行かなくては」

 景之亮は簀子縁に飛び出し玄関へと走って行く。丸は景之亮が渡そうとして差し出したが、手を放したため足元に落ちた手紙を拾いあげた。

 蓮の美しい文字が流れるように書かれてある。

 このようなきれいな文字が書けるなんて、素晴らしいといつも見惚れてしまう手蹟である。

 しかし、その中に書いてあることは驚天動地の内容だった。

景之亮のことを思う気持ちが無くなったから別れたい。この邸を出て行くから追わないでくれ、ということが書いてあった。

 丸も景之亮を追って五条の邸に行きたい気持ちになった。

 誰も、この手紙に書いてある言葉をそのまま受け取ったりはしない。蓮は嘘を書いて、鷹取の家から離れて行ったのだ。その理由は、宇筑だ。宇筑が再三、蓮が子を生さないことを責めたから。

 ……いや、景之亮を追って蓮のところに行きたいのは、宇筑のひどい発言を知っていながら、その宇筑から蓮を守ることできなかったから。何もしてこなかった自分が情けなく、それが申し訳なくて、謝りたいからだ。本当なら蓮の苦しみを理解して、蓮に止められたとしてもすぐに景之亮に相談しなければならなかったのだ。

 丸は涙ながらに宇筑のことを話した。そして、蓮を守れなかったことを詫びた。

 丸は蓮の様子を訊ねた。

 蓮は部屋の奥に閉じこもって、誰にも会わないと言っている、と礼が答えた。

持っていた小刀は取り上げたが、別の方法で自分を傷つけることを考えるかもしれないから、蓮を興奮させないために、今は会わせられないと言われて、丸は蓮に会うことを諦めて帰って行った。

 丸と入れ違いに景之亮が宮廷から下がって、五条の邸に来た。実言と礼がそろって、景之亮の話を聞く。すでに、丸が話したことを実言も礼から聞いているから、おおよそこのことは知っているため黙って頷いて聞いている。違うのは、景之亮の思いが語られることだ。

 景之亮は、宇筑叔父の気持ちはわかっているが、叔父よりも蓮を守るべきであり守れるのは自分だけだったのに、それができなかったことを詫びた。これから叔父の介入はきっぱりとやめさせるから、蓮には鷹取邸に戻って来てほしい。また一緒に暮らしたいと話した。子供のことも、今まではできないが、これから先もできないと決まったわけではない。もし、できなくても養子をもらって育てたらいいと思っていることを重ねて話した。

「蓮と会わせてください。蓮に詫びたいのです。不甲斐ない私のせいで、苦しい思いをさせてしまった。これからはこんな思いは絶対にさせない。そのことを蓮に直接話したいのです。蓮の手紙に書いてあることは、蓮の本心ではないとわかっているのです」

 景之亮は、うぬぼれと言われるかもしれないが、蓮の自分への愛を信じていた。

 実言は頷いた。しかし、今の蓮は気持ちが不安定で、褥に横になって休んでいる。景之亮に会わせることは難しいと判断した。

「わかりました。明日、また参ります。……実言様、礼様……」

「景之亮……いいんだ。また明日、来ておくれ。忙しいのに、すまないね」

 景之亮は頭を下げると、立ち上がって帰って行った。

「蓮は?」

 景之亮の足音が聞こえないほど離れた時に、実言は礼に訊いた。

「今は眠っているわ。食事も一口、二口食べたらいらないと言っているみたい」

「そう……仕方ないね」

 二人はそう言って、押し黙った。

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