第三章6

 翌日、陽が沈む前に実津瀬が供を二人連れて馬で束蕗原に到着した。

 実津瀬は母や妻たちが束蕗原に来た時に同行していたため、どこに妻や息子の部屋があるか知っている。馬から下りるとすぐに離れの庭へと回った。

 実津瀬が到着したことを知らせされると同時に簀子縁に飛び出してきた芹と淳奈と庭に着いた実津瀬が階の上と下で出会った。

「とうしゃま!」

 淳奈が甲高い声で叫んだ。芹が庭を見ると、実津瀬がにこにこと笑っている姿があった。

「実津瀬!」

 芹は右手で淳奈と手を繋いで階を下まで降りると、淳奈は芹の手を放し、父の元へと走って行った。

 実津瀬は最初に芹と淳奈と一緒に束蕗原に来て二泊したらすぐに都に帰らなければならなかった。その後に時間を見つけて束蕗原に来ると言った実津瀬だったが、結局今日まで束蕗原には来られなかった。二月ぶりの父との再会であるが、淳奈は父を忘れることなく、むしろ会えないことを寂しがっていた。

 両手を広げて走り寄って来る淳奈に片膝をついて、同じように両手を広げて胸の中に入れて抱き締めた。

「きゃあぁ」

 甲高い子供の笑い声が離れの庭に響いた。

 淳奈を抱き上げて、実津瀬は芹の元に来た。

「ああ、やっと会えた。間でここに来ると言ったのに、来られなくてすまない」

 実津瀬は言って、芹の背中に腕を回した。芹は頷き、嬉しそうに実津瀬の胸に顔を寄せた。

「去様のところにご挨拶に行かなくては」

 実津瀬は芹と淳奈を伴って、去の部屋へと行った。そこには父と母もいて、一緒に挨拶をした。

「無事についてよかった。早かったのではないかい」

 去は言った。

「はい、宮廷から帰って、急いでこちらに参りました」

「それは、疲れたことだろう」

「いいえ」

「今夜は、礼たちの最後の夜だから、たくさんのご馳走を用意しているのよ。それまで、部屋で寛いでおいで」

 去の言葉で、実津瀬は再び芹たちが滞在している離れに戻った。

 眠そうにして母の膝に突っ伏した淳奈とその背中をさすっている芹の姿を見ていると、蓮が部屋へと入って来た。

「実津瀬、無事の到着で何よりね」

「やあ、蓮。天気も良くて順調に来たよ」

 蓮は実津瀬と芹の前に座った。

 大好きな叔母が現れたことで、淳奈は芹の膝から蓮の膝に移って、うつらうつらし始めた。

「実津瀬と芹に話があるの」

「都に帰ってからじゃだめなのかい?」

「ええ、都に帰ってからでは話ができないの」

 蓮がそう言うと、実津瀬はきちんと蓮の方へと体を向けて姿勢を正した。

 蓮が入って来ても、実津瀬は芹の左手首を握ったままだった。淳奈が眠れば久々の再会に今から妻と睦合おうというところだっただけに、そんな言葉が出たのだろうけど、蓮は無視して話し始めた。

「実は、束蕗原に来て生活してみると、ここで暮らすのもいいものだと思い始めて、去様に相談したの。そうしたら私が、ここで医術の勉強をしている人たちと同じ部屋で寝起きし、同じ仕事をするなら、ここで生活することを許すと言ってくださった。都に帰る日までよく考えなさいと言われたわ。考えた結果、やはりここに留まりたいと思ったの。それを、昨夜、お父さまに話したわ。お父さまは許してくださった。去様にもお許しいただいたの。だから、私は、明日みんなとは帰らない。ここに残るわ」

 蓮の言葉を聞いて、実津瀬も芹も、驚きの表情ですぐに言葉が出なかった。

「……いつまで……ここにいるつもり?」

 やっと実津瀬が言葉を発した。

「新年を迎えるまで?」

 芹が言った。

「いつまでかはわからない。いつまでと期限は今のところ、私の頭の中にはないの。ここで、去様の元でいろいろと勉強をするわ。そして、気が済んだら、また都に戻ってお母さまの手伝いをしたい」

「都にいても勉強はできるだろう。五条の邸にはたくさん部屋がある。蓮がいても何の問題もないはずだよ。束蕗原と都は近い。今回のように少しの間、束蕗原に滞在して、去様のお傍にお仕えするでもいいのではないの?」

 蓮は首を横に振った。

「いいえ。ここで、気持ちも新たに打ち込みたいの。医術の勉強を。都にいては気が散るわ。だから、去様やお父さまにお願いしたの」

 蓮の思いを考えていた実津瀬は、ようやく言葉を発した。

「寂しいよ。蓮に会うのが容易でなくなる」

「そうね。私もみんなとすぐに会えなくなるのは寂しいわ」

 蓮は自分の膝の上で、眠りに落ちた淳奈の頬を触った。かわいい甥と、明日が過ぎたらいつ会えるかわからない。

「でも、決めたのよ。ここで、去様の仕事をお手伝いしようって」

 実津瀬は頷いた。

「蓮が決めたことだ。応援するよ。私も時間ができたら、その度に束蕗原に来よう。都での父上、母上や榧に宗清、珊たちの様子を知らせよう」

 蓮は頷いて。

「淳奈のことも教えてね。淳奈、私のことを忘れないでね」

 蓮は膝の上の淳奈に向かって囁いたが、眠っている淳奈が返事をするわけもない。

 芹も蓮の決意を聞いて寂しがったが、景之亮とのことを知っているから、その気持ちも分かった。

 景之亮のかの字も聞こえないところに身を置きたい。

 あれほど愛していた人だから、忘れることは容易ではないだろう。芹も実津瀬から離れることを想像してみたが、それはもう生きていけないという気持ちになった。どんなことがあってもしがみついて、離すことはできない。

 そうとなると、今まで五条の邸で会えばいろいろな話をしてきたが、しばらく三人が同時に顔を会わせることはないのでしみじみと話をした。また、蓮はこうなることを束蕗原に来る前から決めていたわけではないので、誰かが束蕗原に来ることがあれば自分の思い入れのある持ち物を持って来てほしいと依頼した。

 そうしていると、蓮の侍女の曜が、夕餉の準備ができたと呼びに来た。

 実津瀬が蓮の膝から淳奈を抱き上げたが、淳奈は深い眠りに落ちていた。無理に起こしてはだめだと誰もが思い、芹の侍女の槻が部屋に残って、淳奈を見守ることにした。

 実津瀬、蓮、芹は去の部屋に行くと、すでに膳が運び込まれていた。

「さあさあ座っておくれ。小さな宴を始めよう」

 去の左に実言が座り、その隣に妻の礼、蓮、珊が、右側には実津瀬、芹が座った。そこを待っていたかのように、温かい汁や焼き上がったばかりの魚が追加して並べられた。

この束蕗原は山も川もあるから、料理の食材に事欠かない上に、北方の越前の海から上がった海産物を都に運ぶ手前、束蕗原に寄るので、海の特産物が手に入り、多様な料理が目の前に広がっていた。

 最後に酒が運び込まれて、去が娘同然にかわいがってきた礼とその家族たちとの別れの宴が始まった。

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