第四章13

「桂様、ようこそ」

 淡路が頭を垂れて挨拶をした。

 それを合図に稽古場にいた二十名ほどの楽団員が一斉に頭を垂れた。

 実津瀬も一番端に並んで同じようにした。

 淡路を先頭に、扉の前に三重に重なって立った楽団員たちが体を折った姿に桂は目を瞠り、そして満足そうに笑顔になった。

「皆、そんなに畏まらなくてもよい。私は堅苦しいのは嫌いだ」

 桂の言葉に、麻奈見が言った。

「皆、顔を上げておくれ」

 麻奈見が言うと、楽団員たちは一斉に顔を上げた。実津瀬も同じように顔を上げた。

 その様子も壮観で、桂は嬉しそうに最前列に立つ者の顔を一人一人眺めて、最後に一列目の端にいる実津瀬に目が留まった。

「実津瀬!」

 名前を呼んで微笑んだ。そして、顔を正面に向けた。

「皆、稽古に励んでいるか。私は食べること寝ること以上に管弦と舞が好きなのだ。こうして、時たま邪魔をしに来ることを許しておくれよ」

 ころころと鈴が振られたような笑い声が稽古場に響いた。

「よし。最近は私の邸で管弦の集いを催すことはあっても、舞は見ていない。久しぶりに舞が見たいのだ。麻奈見、頼む」

 麻奈見は下げた頭を上げると、名前を呼んだ。

「実津瀬、そして朱鷺世。朱鷺世!朱鷺世はどこだ?」

 麻奈見の声に、皆は左右を見回して、朱鷺世を探した。いないとなって、一斉に後ろを振り返った。

 その場の視線全てが一番後ろにいた朱鷺世に向いた。

「や、朱鷺世!」

 小柄な桂はつま先立ちをして目の前に立ち並ぶ男たちの頭の間から向こうにいる朱鷺世を見つけた。

「朱鷺世、前へ。こちらに来てくれ」

 麻奈見が言う。

 朱鷺世が一歩足を出すと、その近くの者たちは半身になって朱鷺世が進む道を作った。

「音楽の準備をしてくれ。準備が終われば、すぐに桂様にお見せしよう」

 淡路が先頭に立って、棚に収めている楽器を取り出し、大太鼓を移動させた。

 慌ただしく準備する団員達とは別に、目の前に立つ実津瀬と朱鷺世に麻奈見は言った。

「二人に舞ってもらいたい。実津瀬、いいかな?」

 実津瀬はすぐさま頷いた。

「朱鷺世、淡路と一緒に稽古している舞だ。実津瀬とも何度か舞っているだろう。あれを少しばかり桂様にお見せしたい」

 朱鷺世も頷いたが、実津瀬のそれとは比べものにならないほど小さく、心もとないものだった。

 今の朱鷺世の様子は、昨年の月の宴の思いきりの良い素晴らしい舞をした者には見えず、桂は面白く思った。あれだけの舞を見せたのに、今はそんな舞が舞える者とは思えない。

 楽器の演奏者たちは自分が担当する楽器の音を出して調整を始めた。実津瀬が先に、稽古場の中央に立った。それを追って朱鷺世もその隣に立つ。

 演奏しない者たちは壁際に一列になって立って、二人の様子を見ている。

 桂は楽団員が持ってきた椅子に腰かけて、準備の段階から興味深そうに眺めている。隣で、麻奈見が今の楽団の状況をお話する。

 それぞれの楽器は音の調整でうるさいほど鳴っていたが、それはいつも思うことだが、音はいつの間にかまとまって音楽になる。

 麻奈見の右手が上がる。そこで、音は一旦止む。中央に立つ舞手二人の顔つきが変わる。

 その様子を見てから、麻奈見の手は振り下ろされた。同時に、大太鼓が打ち鳴らされて、他の楽器も音を出した。

 それに合わせて舞手の二人もこれまで何度か一緒に舞って来た型を始める。右手を斜め上に上げて、左足を一歩前に出す。

 二人の動きは見事に同時である。

 朱鷺世は鞭で叩かれ、怒声を浴びせられても何度も舞った。自分はここを逃げ出したら行くところはどこにもない。だから、辛いと思うことも耐えてこられたということはあるが、その前に、自分は舞うことが好きなのだと思う。

 朱鷺世は音楽を聴き、隣の岩城実津瀬の動きを感じながら、どこまでも同時に手、足、体を動かした。体を一回転する、体が正面に来たら手を前に突き出して、次は半回転する。手の振り、足さばきと忙しい。

 しかし、何度も舞って来たこの型は、音楽が速くなろうと遅くなろうと慌てることなく、朱鷺世は舞えた。

 音楽が一旦静かになり、次の見せ場に向かう前に麻奈見は手を上げた。その動きを察知した演奏者たちは手を止め、音楽が止むと実津瀬と朱鷺世も動きを止めた。

「麻奈見!」

 桂は後ろに立っている麻奈見の方へ振り向いた。

「私の言ったことを忠実に守ってくれているようだ。舞手としてしっかりと成長しているではないか!」

 舞う前の朱鷺世への不安は杞憂だったと桂は思った。

 桂の言葉に麻奈見は頭を下げた。

 舞い終わってすぐの二人は荒い息を整えると、桂の前に跪いた。

「朱鷺世……少しばかり体格が良くなったか。前に見た姿は今より細かったと記憶しているが」

 朱鷺世は黙って頭を垂れるだけだ。こんな高貴な人になんと言葉を返したらよいのかわからない。

 桂は朱鷺世が返事しなくても、目を細めて笑顔である。

「朱鷺世、今日はお前にも聞いて欲しいことがあってここに来たのだ」

 桂は身動き一つせずに、跪いている朱鷺世をじっと見つめた。

 誰かのおさがりの着古された上着に袴。洗っても落ちぬ汚れに、破れたところは継ぎが当たっている。なんともみすぼらしい姿だ。

「例年行われている月の宴だが……、今年は隣にいる実津瀬と朱鷺世、二人で舞ってもらう。これは、私のたっての頼み事でね。すでに麻奈見にも実津瀬にも話をしてある」

 それを聞いて、朱鷺世は顔を上げた。桂を見た後に反射的に隣にいる実津瀬に顔を向けた。実津瀬は真っすぐに桂を見上げている。

 その言葉で、稽古場にいる朱鷺世以外の楽団員達ははっと息をのんだ。

 最近の激しい稽古に音を上げて、その場に倒れ込み息をしている姿や、うまく舞えずに鞭を振るわれている姿を能無しと笑って見ていたが、朱鷺世へのその厳しい指導は全て次の月の宴のためだったのだと、皆が悟った。

 だから、実津瀬が稽古に来た時には、いずれ月の宴で二人が舞うことが予定されているから、二人で舞わせていたのだ。

「しかし、今のように二人で舞えばいいというものではない。この宴を舞の対決の場としたい。二人とも舞はうまいが、その毛色は全く違う。宴ではそれぞれの良さを存分に見せて欲しいのだ」

 桂は実津瀬と朱鷺世の二人を交互に見つめながら話す。

「実津瀬はいつも穏やかな顔をして、怒ったところを見せることもないが、その心の内は負けるのは嫌いだろうから、どんな舞を舞って勝とうかと考えているだろう。なぁ、実津瀬」

 と実津瀬を凝視した後、朱鷺世に視線を移した。

「朱鷺世。お前の昨年の月の宴での舞には感動したよ。翌日、その感激の気持ちのまま、ここに来た。お前も、思ってもみなかった起用に戸惑いながらも、あの時は自分の持っているものをうまく出せたのではないか。でも、まだまだその舞は途上だった。また一段上の舞をするために、麻奈見や淡路がしっかりと稽古をつけてくれているのではないか。先ほどの舞う姿は、昨年よりも良かった。月の宴までにもっと舞に磨きをかけておくれ。お前の良さを存分に見せて欲しい。そして、お前の舞で隣にいるお前とは全く違う舞を負かしておくれ」

 そう言って、再び隣にいる実津瀬に視線を戻した。

 実津瀬は下を向いて表情は変わることなく桂の言葉を聞いている。

「二人の特徴の出た面白い舞を見せておくれよ。では、私はもう稽古の邪魔をしたくない。邸に帰るとしよう」

 桂は椅子から立ち上がると、麻奈見に付き添われてさっさと稽古場から出て行った。

 桂がいなくなった稽古場は、ピンっと張りつめていた空気が緩んだ。皆、体の力が抜けたようだ。

 残された者たちに、淡路が練習を始めるように言った。

 人々が動き出して実津瀬は立ち上がったが、朱鷺世は片膝をついたままだ。

「どうした、朱鷺世?」

 動かない朱鷺世に気づいた淡路が近づいて来た。

「淡路さん……俺はどんな舞をしたらいいのでしょう。対決って、勝ち負けがあるということですか?」

「そうだな……勝ち負けを決めるみたいだ」

 そこで朱鷺世は立ち上がった。同時に実津瀬と目が合った。別に睨むつもりはなかったが、実津瀬がこちらを見ていると思ったので、顔を向けたら目つきが鋭くなった。

 しかし、それは桂がこの稽古場に入って来る前に思っていた感情が表れたからかもしれない。よい家柄の何不自由なく生きている男。その男と勝負をする。

 自分が最高の舞を舞ってみせれば、俺はこの男に勝てるかもしれない。唯一この男より優れていることを示せる手段。

「よし、稽古をしよう」

 淡路の言葉に、朱鷺世は動き出した。

 勝ちたい。あの全てを持っている男が、得られなかったものとして、この勝負の勝ちだけは奪い取ってやる。

 秘かに朱鷺世の心に炎が灯った。

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