第三章2

背は高くて痩せている。その男を形容するならひょろっと、になるだろう。

名を知らない者は、背の高いひょろっとした男はどこだ、誰だ、と言ったりする。

今も。

「舞をする男、あのひょろっとした、背の高い男はどこだ。どこにいる?」

と人が訪ねて来た。

楽舞の稽古場で、練習が始まる前にたむろしていた男たちの一人が応えた。

「それは朱鷺世ですね……。あれ、朱鷺世はどこに行った?」

辺りを見回して朱鷺世の姿を探したが、見当たらない。近くに座り込んでいる男に朱鷺世はどこに行った、と尋ねたりした。朱鷺世!と大きな声で呼ぶ者がいた。何人かが何事かとこちらに顔を向けたが、当の朱鷺世ではない。

「朱鷺世はまだここには来ていないようです」

男はそう返事した。

訊ねた男は、その返事を聞いて特に反応することもなく、稽古場の扉から離れて行った。

稽古場はまたそれまでのように雑談を始めたが。

「朱鷺世はどこに行ったんだ?休みか?勝手をして。最近のあいつはいい気になっていないか?」

と呟きにしては大きな声が聞こえた。


その朱鷺世は広い宮廷の中の、女官の下で働く侍女たちの住居の前に来ていた。

それは横に長い建物で、部屋の中はいくつかの部屋に仕切られていて、一部屋を五六人で使っている。

「露……露……」

朱鷺世は、丁度建物の真ん中あたりに立って、控えめに声を出した。すると、朱鷺世から見て一番左端の戸が開いて、女人がひとり顔を出した。朱鷺世は戸が開いた方を見て、そちらに歩いて行った。顔を出した女人も簀子縁に出て、階を下りて来た。

「朱鷺世……どうしたの」

露と呼ばれた女人は朱鷺世の前に立った。

「腹が減って……」

朱鷺世は露に横顔を見せて、小さな声で言った。

露はふふっ、と声を出して笑った。

「そうだと思った。朱鷺世はお腹が空いた。怪我をした。着物がほつれた……そんな時にしか来ないもの」

朱鷺世は横を向いたまま黙っている。

「はい、これ」

露は袂から何枚かの柿の葉に包んだ搗き米を丸めたものを出した。

「うん」

朱鷺世はその時、初めて露に顔の正面を向けて、搗き米を受け取って歩き出す。露がその場に突っ立ったままでいると、朱鷺世は首だけ振り返り、露を見た。その目はなぜついてこないのか問うている。露は嘆息して、朱鷺世の跡を追った。

朱鷺世は使用人住居の裏に広がる森の中に入って行く。

「最近はお腹が空いたってよく来るわね。どうして?」

「んん?……ちょっとね」

「ちょっとね、じゃないわよ、何かあったの?」

朱鷺世は大きな椋木の根の元に足を開いて腰を下ろし、露から受け取った搗き米をほおばった。

「おいしい?」

露に問われて、朱鷺世は頷いた。

今朝、朝餉の時間に遅れて食堂に着いた朱鷺世は、すでに席に着いて椀の中の粥をかき込んでいる楽団員達をかき分けて、奥の端の空いている席へと向かった。そこにたどり着くまでに背中を向けて椀に顔を突っ込んでいる男たちが、朱鷺世が通るとあざ笑う顔が向けられた。

朱鷺世は嫌な予感がしたが、表情を変えることなく端の席まで行った。

五人掛けの長い椅子の端に腰を掛けて、目の前の椀の中を見ると、大きな蜘蛛が入っていた。

驚いて体が後ろに引けた。声は辛うじて上げることはなかったが、呻き声は上げたかもしれない。

朱鷺世の驚いた姿にたまらず何人かが、せせら笑いを漏らした。

朱鷺世は人差し指と親指を椀の中に入れて、蜘蛛の足をつまむとゆっくりと持ち上げ、石の敷きつめられた床に投げつけた。

誰かが、今朝、死んだ蜘蛛を偶然見つけて、朱鷺世の椀に入れたのか。それとも、昨日から嫌がらせを考えて、準備していたものか……。

こんなもの、食べる気が失せるが、朱鷺世は匙を握ると一気に粥を口の中にかき入れた。しかし、うまく口の中に入らず、粥は口の端や頬、顎について、それが下に落ちて、朱鷺世の胸や腿を汚した。

そんな朱鷺世の惨めな姿にたまらず周りの者たちは嘲笑の声を漏らした。

朱鷺世は立ち上がり、床に投げた蜘蛛の死骸を踏みつけて、食堂から出て行った。食堂の隣にある台所の甕から柄杓を使って水を顔にかけて洗った。そして、一人になりたくて宮廷の広い庭の中へと入って行った。

毎日毎回いろんな嫌がらせを思いつくものだ、と思った。

ある日は後ろを通る時に体をわざとらしくぶつけられて、一口も食べていない椀をひっくり返してまった。ある日は、寝坊をして食堂に駆けつけたが、扉が開かずやっと開いた時には、用意された粥はみな食べつくされていた。こんな感じで、朝餉をまともに食べられる日は少ない。

前からこんな扱いを受けていたわけではない。あの日から、周りは少しずつ変わってしまった。

あの日、とは。

月の宴が行われた日だ。岩城実津瀬という舞の巧い貴族の息子の代役として舞台に立ち舞を舞った。王族の席でご覧になられていた桂姫にたいそう褒められた。

好きな舞を大きな舞台で、自分の思う通りに舞えたことは今までにない快感だった。

翌日、朱鷺世の舞は話題になり、いつも稽古場の入口近くに一人で腰を落として座っている朱鷺世は仲間に囲まれて話の中心になった。舞台に立った時の気持ちや桂様に声を掛けられた時のことを聞かれて、口下手の朱鷺世はゆっくりと話した。一緒に舞った淡路が、その時の様子を補足して、皆が感嘆の声を上げて朱鷺世を褒めた。

朱鷺世にとって、昨夜、桂姫から声を掛けられるなんて身に余る喜びであったし、翌日仲間たちからこうしてよくやったと褒められるのもこそばゆい感じだが、内心は嬉しかった。

さあ、練習をしようか、と稽古場の真ん中に集まって舞いの型を始めた。楽器担当はそれぞれの楽器の音色を出している。

混然としていた稽古場の扉がいきなり開かれ、楽団長である麻奈見がひとりの女人を伴って入って来た。

皆、麻奈見が入って来たからと言って、動きを止めることはない。こうして見学に来る者は少なくないのである。しかし、楽団長の後ろから入って来た女人は何者だろうと横目で見ている。その身を包んでいる着物、身に着けている装飾品から、身分の高い人だということはわかったが、誰なのかはわからなかった。わかったのは淡路くらいだった。

「桂様!」

淡路は桂の前に進み出てすぐに膝をついて、頭を垂れた。皆、跪いて頭を垂れるべき人物なのだと、慌ててその場で同じ体勢を取った。

昨夜、朱鷺世は舞台の前の広間に上がる階の前で跪いて言葉を聞いただけで、桂の顔をしっかりと見たわけではない。淡路の声で、昨日、自分を褒めてくれた人だと知った。

稽古場にいた全員が跪き、桂を迎えた。

「ああ、そんなことはやめてくれ。私はちょっと音楽や舞の練習を見に来ただけだから」

と言って、桂はあたりを見回した。

「昨夜淡路と踊ったのは……ああ、いた!」

桂は真っすぐに朱鷺世を見て、その歩を進めた。

「お前の昨夜の舞に興奮して眠れなかった。今朝は寝坊してしまったのよ」

朱鷺世は顔を伏せたまま、後頭部に落ちてくる言葉を聞いていた。

桂のために、淡路と朱鷺世は再び昨夜、桂が見た舞を舞って見せた。

桂姫が来るなんて思ってもいないことだったから、普段着のボロを纏っていて見栄えは良くないが、朱鷺世は昨夜と同じように大きな動きで、心を込めて舞った。

桂は熱心にその舞を見つめた。

「昨夜は代役だったが、素晴らしい舞だった。精進して次は主役として舞え。楽しみにしているぞ、朱鷺世」

舞が終わると、桂は言って麻奈見に付き添われて稽古場を出て行った。

それ以来、まず、楽団長の麻奈見が朱鷺世を見る目が変わった。淡路と一緒に、より熱心に指導をする。そうしたら、一緒に舞の練習をしている仲間の見る目が変わった。それは悪い方に取られた。麻奈見や淡路に目をかけられて、えこひいきされていると見えるのだ。

実津瀬の代役を見事にやり切ってその才能が花開いた朱鷺世は、その反面周りにやっかまれ独りぼっちになった。

あの日からひと月が経った頃から、いじめや嫌がらせを受けていることを感じた。今朝のように朝餉を食べられなくされたり、舞の練習の連絡を自分だけ受けておらず遅刻して怒られたり、衣装を隠されたり汚されたりと。

しかし、そんなことをされても朱鷺世の舞の良さが損なわれることはなかった。逆にうまくなる一方だった。

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