第四章1

 蓮は摘んだ薬草を筵の上で干していたものを倉の中に納める作業をしていた。倉から外へ出た時に、ふっと香る梅の花の匂いが鼻腔をついた。

「蓮さーん」

 倉の前で立ち止まってその香しい匂いに浸っていると、遠くから自分の名を呼ばれて顔を上げた。呼んでいるのは、井という束蕗原出身の十六歳の少女だ。

 昨年の夏から、去の元に来て医師の助手見習いの勉強をしている。去の屋敷には行儀見習いや医師の助手の勉強をする者たちが集まって来る。能力があり、希望をすれば、都の五条岩城邸で使用人や医者の助手として働くことができる。都の生活を夢見る者は五条岩城邸に勤めることを目指す。

 この井という少女も、五条岩城邸で働き、都での暮らしを経験したいと思っているらしく、蓮が都からこの束蕗原に来たと知って、よく話しかけてくる。

 井は蓮が手にしている筵の反対側に立った。

「手伝います」

 と言って、蓮が持っていた筵の端を同じように持って、二人で倉の中に入って行った。それを三度繰り返した。倉の中の棚に筵ごと置いて保管し、数時後に箱の中に納めることになっている。

「井さん、ありがとう」

「いいえ。一人だったのですか?それなら声を掛けてくれたらいいのに」

 井の言葉に蓮は頷いた。

 父と母を見送った翌日、蓮は去の元で勉強をしている者たちの中に入って行った。

 食堂で朝餉を食べて、それぞれが自分の仕事を始める前に、皆の前で蓮は紹介された。十二名の十代、二十代前半の女人たちが一斉に蓮を見る。

 都からこの束蕗原に医術の勉強に来た者と紹介されて、蓮も神妙な顔で頭を下げた。

 薬草園の薬草の管理、薬草作り、日々の皆の食事のために野菜を育てること、果物など実のなる木を育てること、運ばれた怪我人や病人を手当、治療をし、時には家まで訪ねていって治療をする活動に加わった。

 そして、蓮がずっと続けてきた写本。去の館では写本の部屋で、数名が机に向かって写本をするのだが、休憩をしている時に蓮の書いたものを見た者は驚いた。

「まあ、なんて美しい字かしら……」

「本当に、素晴らしいわ」

 と、褒められた。さすが都から来た人は、教養のある人だと一目置かれることになった。

 この少女、井も文字を練習する者の一人で、読み書きが苦手で、蓮の美しい文字に魅了されている。

 井は妹の榧と同じくらいの年齢だから、蓮も榧を世話するような気持ちで接している。しかし、井はよく気がつく子である。それの様子が榧のことを思い出させた。今もこうして薬草を納めるのを手伝ってくれに来たが、まさに榧も同じようなことを何度もしてくれた。

「姉さま、お手伝いするわ」

「この薬草を分けて、納めるの。一緒にやりましょう」

 榧と一緒に過ごした時のことが恋しく思われた。

 お別れの言葉を言うこともできなかった。あの後、少しの自分の持ち物を届けてもらった時に、榧から手紙をもらった。

 束蕗原から帰って来たら、また楽しく一緒に生活できると思っていたのに、寂しい、会いたいと書かれてあった。

 私も会いたいわ……。

会いたいけど、会えるのはいつだろうかと思っている。

 束蕗原に来て、と言いたいが、榧は箱入り娘で、小さな頃は束蕗原に行ったこともあるが、今は五条の邸から出るのも稀である。そろそろ結婚のことを考える時期だから、束蕗原に来るとなると、父は気安くうんとは言わないだろう。

 この井に慕われることは悪い気はしないし、榧の代わりというわけではないが、できることはなんでもしてあげたいと思った。

 二人が倉の外に出ると、夕日で西の空が真っ赤になっていた。

「今日もいい天気だった」

 井が両手を上にあげて大きく伸びをした。

「夕餉は何でしょうかね?」

 井の言葉に蓮が答えた。

「魚じゃないかしら?塩漬けにした干し魚が届いたと聞いたわ」

「私は食べるのが楽しみ……でも、昨日も魚だったから少し飽きてきました」

 越前や若狭から都にもたらされる海の幸が途中、この束蕗原で下ろされるのは、岩城の領地が若狭にあるからだった。

「陽が沈むと肌寒いわ」

 蓮は胸の前で両手を握って、手の甲を擦って言った。

「確かに、温かいものが食べたいですね。魚や青菜の入ったお汁が飲みたいです」

 井の言葉に蓮は頷き、二人で見習い人たちの住居へと向かった。

 倉の前には食堂兼作業場、勉強部屋になる建物がある。皆は食が一番大事ということでこの建物を食堂と呼んでいる。倉と食堂の間を通って、奥に向かうと、薬草園を囲う垣が見える。その反対側に見習いの女人たちが集団で生活している住居がある。

 屋根付きの渡り廊下を見習い人の住居に向かって歩いていると、向こうから歩いて来る人が複数人見えた。

 一人は真ん中を歩くのは去である。その隣に男性が付き添って歩いている。

 去はこの土地を治める者として、医術者として毎日多くの人と会っている。都からもよく人が訪ねてくる。

蓮は遠目に去の隣を歩く男を見て心の臓が激しく打つのを感じた。

 その男は初めてみる人ではないような……その横顔は昔の知り合いに似ている気がする。

 去たちが面前に来る前に、蓮は井の後を追って女人の住居に上がる階段を上がり、妻戸から部屋の中に入って行った。

去様の隣を歩いている男の人……もしかして……。

戸を背にして、その男の横顔を思い返していた。

「蓮さん、早く早く、なんだか部屋の中が騒がしいわ」

 奥の部屋でがやがやと大きな話し声がする。それに、井が反応して言った。

 蓮は去の隣にいた男のことを考えるのはやめて、急いで部屋の中に入った。

「どうしたの?何があったのですか?」

 井は人垣にそう声を掛けて近づいた。

「牧さんが今日の午後の仕事をさぼって、それに鮎さんが怒ったの」

 話し掛けられた一人が答えた。

「牧さん……」

 井は呟いて、後ろを振り返った。丁度、蓮が人垣の後ろに辿り着いたところだった。

「蓮さん、今日は牧さんと一緒に倉に薬草を収める係でしたか?」

 井の言葉に、蓮は少し考えてから首を縦に振った。

「だから、一人で倉にいたんですね!」

 井の怒ったような声がひときわ大きくなった。

 人垣の中では、仕事をさぼった牧とそれを咎める鮎という二人の女人が対峙していた。

「牧さん、どういうつもりよ。前にも言ったわよね」

「は?なんのことよ」

「ここの仕事は一人でやるものはないわ。皆、何人かの組になって役割を担っているはずよ。あなたがそれをさぼると、他の人がその仕事を被ることになるのよ。自由な時間をそれぞれがどのように使おうと自由だけど、与えられた役割はきっちりとやってもらわないと困るわ」

「やってるわよ」

「やってないわよ!今日は、薬草を倉に収める仕事があったはずよ。でも、あなたはこの部屋で寛いでいるじゃないの!」

 鮎の声が部屋の中に響いた。

「言いがかりをつけるのはやめてくれない」

「言いがかりじゃないわ。あなたがさぼることでみんな迷惑しているわ」

「誰がよ!誰がそんなことを言っているの?」

 牧が言い放つと、鮎はぐっと口をつぐんだ。

 牧がさぼっていることは事実で、皆が牧さんがいない、牧さんが部屋から出てこない、などと言っているのだが、誰がと言われて、誰と言ってしまったら、牧がその人を攻撃するかもしれないと鮎は考えたのだった。

「牧さん!みんなが思っていることよ」

 井が垣の後ろから声を上げた。

 皆が日々思っていることで、腹に据えかねた鮎が皆の気持ちを代弁して言ったことはわかる。その気持ちに感謝の意も込めて、井が加勢したのだった。

「みんな!ここで暮らしているみーんながそう思っているってこと?あなたたち、全員?」

 牧が大きな声で言い放ち、人垣の一人一人の顔をねめつけた。

 鮎もそうだが、牧も気が強く、詰め寄って来てはっきり言いたいことを言うので、皆は、争いごとや目をつけられて後でいろいろと言われる面倒ごとに関わりたくなくて、目を反らした。

 牧は人垣の後ろにいる井を見つけて、一歩足を踏み出した。

 鮎の言葉に同調した発言は井の声だとわかっているのだろう。

 鋭い眼光で、眉間にしわを寄せた険しい顔の牧が一歩、一歩と井に向かって歩いて行って、井の前にいる人垣は左右に分かれて、井を前面に押し出す形になった。

 井は、自分の心に従って言ったことに後悔はないが、恐ろしい形相の牧に気圧されて、体が後ろに引っ張られるようにのけ反った。

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