第四章2

その時。

「牧さん、言ったのは私よ」

 不意に横から声がした。井の面前に立つ直前に、牧はその声の方に顔を向けた。

 牧の剣幕に慄いた者たちが左右に分かれて重なった人垣の後ろから人をかき分けて、蓮が進み出た。

「今日、私と一緒に薬草を倉の棚に収める係だったじゃない?あなたが来ないから、井さんに手伝ってもらったのよ。そして、鮎さんにも話したわ」

 牧は自分の前に進み出て来た蓮に、それまでの勢いを削がれて一歩下がった。

「何か用事ができたの?別に、用事ができて来られなかったのならいいのよ。仕方がないことよ」

 と言って、蓮は牧の顔を窺った。

 自分の問いかけに、牧が何か別の用事ができた、というならそれでいいと思ったのだ。

「他の日も、あなたが現れないから一人で作業をする人や、他の人に手伝いをお願いする人もいるみたいよ。それを聞いていた鮎さんが、今日の私の話を聞いて、あなたに問いただしてくれたのよ」

 牧はきっとつり上げた目で蓮を睨んだ。

 ここに暮らす十二名の女人たちは、下は十四才から上は二十三歳までが一緒に薬草について勉強し、薬草作りや、去たちについて病人、怪我人の手当てや看病の仕事をしている。十二名それぞれ長所や欠点があり、時にぶつかり、時に助け合い、時に喜びを分かち合って生活している。鮎は二十二で牧は十九と年上の二人である。鮎は様々なことを俯瞰してよく見ているし、面倒見が良いのでみんなから頼りにされていた。だから、牧がどこかに雲隠れしてさぼったことを相談されていて、いつか注意しようと思っていたのだ。

 牧は態度だけ見ると決して真面目な人ではない。ここにいる者は皆、熱心に学ぶのに、牧はその反対の態度が多い。そんな態度をとってもここにいるのは、牧にはたくさんの兄妹がいて、口減らしで家を出て、行くところがないのと病気の母の体が良くなるために去から薬をもらうためだった。去から放免されない程度に働くというのが、牧の気持ちである。

 鮎も牧も気が強くて、何が正しい、悪いではなく、言いたいことを言い合ってしまうのだ。今までもこんな口喧嘩はたびたびあったらしいが、蓮は初めて見た。

「鮎さん、私の代わりに言ってくれたのね。ありがとう」

 蓮は鮎に向かって言った。

「でも、牧さんにも事情があるかもしれないし、今日の作業はたいしたことなかったから私一人でもできたけど、井さんが手伝ってくれたから手間取らず無事にすんだわ。だから、もうこれ以上は言わないで」

 蓮は牧に向き直った。

「牧さん、来られないならそう言ってよ。そうすれば、私も誰か手の空いている人に頼めたのに。鮎さんは私を気遣って言ってくれているの。あなたが一言言ってくれたら、それで済むことだったのよ。これからはそうして。お願いね」

 牧は唇を噛んで、じっと蓮を見ていたが、隣に立つ鮎に視線を移して睨み、最後は顔を思いっきり二人とは反対側に向けて、鼻息荒く部屋から出て行く。

 牧が行く先では皆が左右に別れて寄って道を開けた。妻戸が閉じて牧の背中が見えなくなると、皆が一斉に吐息を漏らしてしゃべり始めた。

 鮎が蓮に向いて言った。

「蓮さん、牧さんのこと庇ったりしなくていいのよ。あの人、何度言っても言うこと聞かないんだから。言うべきことは何度も言わないと」

「そうね。でも、みんなが責めたら牧さん、もっと頑なにならないかしら……。牧さんをとっちめたいわけじゃない。決めたことをきちんとやれば、皆は自由な時間が取れるわ。牧さんもそのことをわかって、決めたことを守ってもらえばいいのよ。だから、牧さんにも守ってもらうように諭していきましょうよ、鮎さん」

「それは、そうよね。私も牧さんには腹が立つけど、喧嘩をしたいわけじゃないわ」

「多くの人が牧さんの態度をよく思っていないけど何も言わず我慢している。鮎さんはその人たちの気持ちを代弁してくれたと思うわ」

「はい!鮎さんは私の気持ちを言ってくれました」

 牧が部屋から出て行った後、皆が口々に話している間に、井が蓮と鮎の傍で話を聞いていて、ここだ、というところで声を上げた。

 蓮も鮎も井の言葉に笑みをこぼした。

「井さん、先ほどはありがとう」

 鮎が言った。

「いいえ、私の気持ちを鮎さんが言ってくれました!声を出したら、なんだか、お腹が空きました。夕餉はまだですかね?」

 井が言った途端に、食事ができたことを知らせる鐘が鳴った。

「井さんの気持ちが通じたようね」

 鮎が言って、井が恥ずかしそうに頭をかいた。

 皆、夕餉の合図の鐘の音でそれまでの話を中断して、食堂に向かう。

 その流れで蓮は鮎と井と一緒に食堂に向かい、向かい合って夕餉を食べた。

 鮎は十二歳時からこの邸に住み込んで働いている。鮎も兄妹が多く小さい子を食べさせるために、去の館に預けられたのだが、去の仕事に興味を持っていて、積極的に勉強をしてきた。今では最古参になり、皆をまとめる役になっている。皆の信頼も厚いから、勝手をして迷惑をかける牧を許しておけないのだった。

 蓮が束蕗原の当主である去に許しを得て、この集団の中で生活して三か月が過ぎたのだった。

その間に新年を迎えた。

 去年までは、まずは景之亮と一緒に鷹取家の使用人たちと挨拶をして、食事をし、景之亮は新年の参賀のために宮廷に行った。父の実言も参賀に行った後、景之亮と一緒に五条岩城邸に帰ってくるので、蓮は景之亮を見送ると実家に向かう準備をして、実家に行った。母や妹たちと新年の挨拶をして、わいわいと話をし、父や夫、兄が帰ってくるのを待った。帰って来たら、父に挨拶をし、小さな宴会が行われ、賑やかに新しい年の幕開けを祝ったのだ。

 今年の新年は束蕗原出迎えた。束蕗原でも新年の祝いは行われた。

 皆が食堂に集まり、当主の去が新年を迎えての訓示をして、新しい年の最初の食事ということで、いつもより豪華な膳が振舞われた。

 五条の邸の新年の宴は夫や両親、兄妹たち近しい者や使用人たちとわいわいと打ち解けた楽しい雰囲気であるが、束蕗原では一緒に生活し始めてひと月ほどの同じ年頃の女人たちが言葉少なに黙々と目の前の膳を食べている。

 覚悟していたことだが、集団生活は蓮にとって忍耐だった。都では気ままに過ごしていたし、侍女たちがいろいろと手伝ってくれていたが、束蕗原では協調と自分のことは何でも自分でやることが求められた。

 自分のやりたいことを思いついたら侍女たちを巻き込んで行動していた蓮だったが、束蕗原ではぐっとこらえる、伝え方を考えるなど一つ自分を抑えることが多くなった。

 だが、二月も経つと蓮も集団生活に慣れて、岩城家のお嬢様の気分から抜けつつあったが、女だらけの集団生活というのも大変なものだと思った。

 岩城一族で集まると、従姉妹たちがかたまっておしゃべりをするけど、気が合い、話が合い、喧嘩や言い合いになることはない。むしろ、一族の一員を気遣う優しさが見えていた。

 束蕗原の薬草師の見習いの女人たちも、お互いを助け合っているが、時に個性がぶつかり合って、気遣いはどこへやら、先ほどの鮎と牧のように大きな声で怒鳴り合うことや、陰口がある。

五条の邸で侍女たちが喧嘩することはあったが、こんなに激しく言い合う姿を目の前で見るのは初めで蓮は内心、大変なところに飛び込んできてしまった、と思った。

 お腹が空いたと言っていただけはあり、蓮と鮎が夕餉の粥を半分食べたところなのに井はぺろりとたいらげていた。

「おかわりはあるでしょうか?」

 若い井はおかわりできるか訊いてくると椀を持って席を立った。

 蓮が井の歳の頃と言えば、丁度景之亮と結婚した時だ。

 あの頃の私もあれほどよく食べていたのかしら。景之亮様は私をよく食べるものだと、驚かれていたのかしら。

 今は、目の前に用意された椀の中をゆっくりと味わって食べるだけで満足だ。井のようにおかわりをしようなんて思わない。

 私も少し大人になったのかしらね……。

 蓮はそんなことを考えていた。

 やがて井が戻って来た。

「少し追加でもらってきちゃいました」

 底に少しのお粥が見えた。一緒に青菜が入っている。

「もう、井さんは食いしん坊ね」

 鮎に言われて井は恥ずかしそうに笑った。

「でも、井さんは周りに困っている人がいないかをよく見て、手伝うことがあればすぐに走って行っているものね。走っている量が違うわ。それはお腹が空くわよ。さっきだって、私が一人で倉から出てきたから、手伝いに来てくれたのでしょう」

 蓮の言葉に、今度はそうだと誇らしそうに井は笑った。

「ふふふ。しっかり食べなさい」

 食いしん坊ね、と言ったわりに鮎は姉のように井を気遣った。

 井がおかわりを食べ終わる時には一口一口をゆっくりと味わって食べていた蓮と鮎も丁度、食べ終わった。

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